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1月22日   生ける水の源を得よ

(ヨハネ 4:14)    大谷 唯信 牧師



「わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりかその人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」



イェスの言われた「水」とは神の命であり神の愛である。昔、どこにでもあったポンプの井戸を思い出してほしい。ポンプの中にある水はほんのコップ一杯である。水を求めてやって来た人がバケツを持ってこれを満たしてほしいと言ったとしよう。井戸をもつ人は「それは無理だ。ポンプの中にはコップ一杯分の水しかないのだから!」等と言うだろうか。まずいないであろう。何故ならそれは井戸だからだ。井戸は地下水につながっている。ただ、ポンプをこぎさえしたらいくらでも必要なだけ水は出てくる事を知っているからである。


人もこれと同じである。神は人を御自分に似せて愛によって愛の存在として造られた。神の愛と一つになって生きるようにされたのである。ところが人は神を離れ、これを認めず自分の中にある愛に立った。人はこれを自立であり強さであり個人の自由であるとして胸を張った。しかし現実は地下水を失った井戸であり神の愛を失った自己の愛に立つ自分である。自己の愛は神との分離のみならず人との分離、やがては自分との分離に走らざるを得ない道である事に気がついていない。自己過信と言う高慢な罪の姿なのだ。裸の王様の如く自分では全くそれに気づかないのが罪の特性なのである


。人は人生に於いて第一にしなければならないものを求めず、当然付随して来るべき雑多なものだけを求めている。確かに沢山の物を得た。しかし、人生に於いて真に意味を持つものとは何だろうか。本当に大切なものとは、第一のものとは、問う時ではなかろうか。自分のまわりの様々な問題、混乱、試練に満ちている世界だ。その根源的な原因は何か。聖書は語る「生ける水の源であるわたしを捨てて、自分で水ためを掘った。それは、こわれた水ためで、水を入れておくことのできないものだ」(エレミヤ2:13)と。第一のものを第一にしよう。勇気がいる。愛は勇気でもあるのだ。
by oume-akebono | 2012-01-24 14:09 | 週報メッセージ