11月6日   心ある人への呼びかけ

(マタイによる福音書 6:30)  大谷 唯信 牧師



「きょうは生えていて、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。」



マタイによる福音書6章25節以下を読んで味わってみよう。すべての「思いわずらい」「恐れ」「不安」、これらは神から離れて生きる者の特徴である。昔から人生は厳しく、自分の力と努力で切り開き、他に迷惑をかけることなく、甘えることなく自分の責任において生きるものとされてきたのだが、その結果はどうであろう。余りにも自分、自分となりすぎて「自己中心」そのものの社会になっているではないか。


自己中心とは、自覚はないと思うが、自分を神としている事だ。かといって自分に自信があるわけではない。常に不安なのである。強そうに振舞うが実は弱いのだ。しかしその自分にしがみつき、手放せないのである。理想はあっても心は不完全燃焼であり、生殺し状態である。ストレスは溜まり病気にもなろう。これは本来の中心軸からずれた罪の姿であり、「死に至る病」なのだ。


さらに現代人の深刻な問題は、罪の中にあっても罪の自覚がないことである。「赤信号皆で渡れば怖くない」では済まされないのに、である。私達にとっては面白くないことだが、神は人間の罪に対する自助能力はないと、断定したのである。どんなに頑張っても駄目なのだ。それでも認めたくないのが罪の特性なのだから始末が悪い。これも賢く働くサタンの手なのである。


神はそのために、独り子イエスをこの世に与えて下さった。今年もクリスマスが近づいて来たから、その意味を味わっていただきたい。人はイエスの十字架の愛に触れる以外に、自分の罪の本当の自覚は絶対に出て来ないであろう。また神の愛にも触れられない。結局は自分の中で独りぼっちではないか。
今年はどうだろう。本当のクリスマスを迎えようではないか。思いわずらいの人生は、もうおしまいにしよう。
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by oume-akebono | 2011-11-09 08:29 | 週報メッセージ