2011年 10月 27日
10月23日 神の真実に生きるには
(ローマ人への手紙6:13) 大谷 唯信 牧師
「むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」
イェス・キリストを我が救い主として信じ、イェスの名によるバプテスマを受けたなら誰でも救われ、永遠の命に生きる者とされるのである。もはや、サタンも死も、この世の権威も人の目も全く恐れる必要はなくなる。過去の罪は確かに残らず神の前にはイェスの十字架によって帳消しにされた。神の御前で堂々と立てる者とされたのである。しかし「からだ」は今も生きているのだ。やがては「死ぬべきからだ」であっても今は生きている。私達はこのからだと死ぬまでこの世では付き合わなければならない。
ところがこの世はサタンの強い力で完全に支配され、この世の人々も自覚のないままその支配下にあって自分なりの肉の正しさで生きている。そう言う中で私達は確かに魂が救われ霊によって生きるようにされている。
しかし、実際は当然の事だが肉のからだを未だに持っているのだ。するとどうなるのか。肉のからだを持っている以上、個人差はあるが今迄の肉の働きの習慣が出てしまう。これは誰もが経験するところだ。しかし、ここで悲観してはいけない。「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、その情欲に従わせる事をせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない」として冒頭の御言葉をパウロは語った。正に悲観する事なく油断する事なくの取り組みだ。そうすれば「罪に支配される事はない」とパウロはその秘訣を語ったのである。
生きるとは神に自分を「義の武器として」ささげる事だ。真面目でも一生懸命でも知らず知らず肉の武器としてささげている現状がある。教会でもこの世でも問題の根は良き事が、「肉の思い」でなされている事だ。だから私達は御霊によって歩こう。御霊だけが肉に気づかせそこから解放してくださる。御霊は内なるキリストだからである。
「むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい」
イェス・キリストを我が救い主として信じ、イェスの名によるバプテスマを受けたなら誰でも救われ、永遠の命に生きる者とされるのである。もはや、サタンも死も、この世の権威も人の目も全く恐れる必要はなくなる。過去の罪は確かに残らず神の前にはイェスの十字架によって帳消しにされた。神の御前で堂々と立てる者とされたのである。しかし「からだ」は今も生きているのだ。やがては「死ぬべきからだ」であっても今は生きている。私達はこのからだと死ぬまでこの世では付き合わなければならない。
ところがこの世はサタンの強い力で完全に支配され、この世の人々も自覚のないままその支配下にあって自分なりの肉の正しさで生きている。そう言う中で私達は確かに魂が救われ霊によって生きるようにされている。
しかし、実際は当然の事だが肉のからだを未だに持っているのだ。するとどうなるのか。肉のからだを持っている以上、個人差はあるが今迄の肉の働きの習慣が出てしまう。これは誰もが経験するところだ。しかし、ここで悲観してはいけない。「だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配に委ねて、その情欲に従わせる事をせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない」として冒頭の御言葉をパウロは語った。正に悲観する事なく油断する事なくの取り組みだ。そうすれば「罪に支配される事はない」とパウロはその秘訣を語ったのである。
生きるとは神に自分を「義の武器として」ささげる事だ。真面目でも一生懸命でも知らず知らず肉の武器としてささげている現状がある。教会でもこの世でも問題の根は良き事が、「肉の思い」でなされている事だ。だから私達は御霊によって歩こう。御霊だけが肉に気づかせそこから解放してくださる。御霊は内なるキリストだからである。
by oume-akebono
| 2011-10-27 23:36
| 週報メッセージ