2011年 09月 27日
9月25日 成長は罪の自覚から
(ヤコブの手紙 4:1) 大谷 唯信 牧師
「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」
「恥知らず」と言う言葉があるが、「罪知らず」ではないか。
人は「何故わたしが救われなければならないのか」と言う。「別にわたしは救いを必要とはしていないと思う、かと言ってもわたしは完全ではないが、法に触れるような悪い事をしているわけではない。自分なりに仕事をし家庭を守り他の人達ともできるだけ平和を保ち、いろいろ困難もあるが人並みの社会生活はできている。決して間違った事はしていないし、これからも努力し少しでも人や社会に貢献できればとも願っている。わたしはこの生活に結構満足しているし、一体何からすくわれなければならないのか」と。
確かに立派なのだ。これが一般社会人の常識的な考えではないだろうか。人は自分を中心に自分の尺度で物事を見、又、自分を見ているため聖書で指摘する罪意識は全く無いのである。あのイエスの語られた放蕩息子であっても、すべての財産を失い食べる物もなくなり豚の餌番に落ち込むまでは自分は何も悪いところはないと思っていたほどだ。我々クリスチャンにも同じ事がないだろうか。
使徒行伝に示されている教会を見て何を感じるだろう。今の自分や教会の状態に満足しているのだろうか。パウロや使徒達の信仰経験を自分と照らして何を感じているのだろうか。自分の霊的状態はこれでいいのだろうか。
私達の週報の表紙にもう20年も「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)が記されているだが実現されているだろうか。もしそうでないならそれに対してあせりや悲しみはないのだろうか。救いとは心の革命である。決して何となくではない。信じて求め、求めては信じるのだ。御聖霊が必ず平安と確信を与えて下さる。
「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」
「恥知らず」と言う言葉があるが、「罪知らず」ではないか。
人は「何故わたしが救われなければならないのか」と言う。「別にわたしは救いを必要とはしていないと思う、かと言ってもわたしは完全ではないが、法に触れるような悪い事をしているわけではない。自分なりに仕事をし家庭を守り他の人達ともできるだけ平和を保ち、いろいろ困難もあるが人並みの社会生活はできている。決して間違った事はしていないし、これからも努力し少しでも人や社会に貢献できればとも願っている。わたしはこの生活に結構満足しているし、一体何からすくわれなければならないのか」と。
確かに立派なのだ。これが一般社会人の常識的な考えではないだろうか。人は自分を中心に自分の尺度で物事を見、又、自分を見ているため聖書で指摘する罪意識は全く無いのである。あのイエスの語られた放蕩息子であっても、すべての財産を失い食べる物もなくなり豚の餌番に落ち込むまでは自分は何も悪いところはないと思っていたほどだ。我々クリスチャンにも同じ事がないだろうか。
使徒行伝に示されている教会を見て何を感じるだろう。今の自分や教会の状態に満足しているのだろうか。パウロや使徒達の信仰経験を自分と照らして何を感じているのだろうか。自分の霊的状態はこれでいいのだろうか。
私達の週報の表紙にもう20年も「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について感謝しなさい。」(Ⅰテサロニケ5:16~18)が記されているだが実現されているだろうか。もしそうでないならそれに対してあせりや悲しみはないのだろうか。救いとは心の革命である。決して何となくではない。信じて求め、求めては信じるのだ。御聖霊が必ず平安と確信を与えて下さる。
by oume-akebono
| 2011-09-27 19:31
| 週報メッセージ