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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


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8月7日  ひたすら祈ろう

(使徒行伝 1:14)     大谷 唯信 牧師



「・・・ひたすら祈りをしていた。」



「祈りは呼吸のようなものだ」という言葉がある。「今朝は余りにも忙しかったので、気がついてみたらすっかり息をするのを忘れていた」等と言う人はあるまい。「あんまり苦しくて息もできなかった」という人でもなおの事、必死で息をしたにちがいない。何故なら息をしなければ死ぬということを頭ではなく体でわかっているからである。呼吸は死生に直結している。そんな重大なことだが、意外と吸った、吐いた等の意識はない。しかし一寸止まったら大騒ぎである。キリスト者にとっての祈りは、これと同じなのだ。


ところがどうであろう。祈りなくしても平然と信仰生活ができてしまう不思議が、現実にはあるのではなかろうか。自分を振り返って欲しい。キリスト者はこの世の肉の領域にいながらにして、神の命の霊の領域に生かされているのである。この霊の領域を深め、拡げて行くのは聖霊を信じての祈りにある。祈りがなく、信仰生活がなされているとするなら、それは霊ではなく肉の力だ。


初めは誰でもここから出発するのだが、パウロの言う“幼な子”なのであり、堅い食物は食べられない。一寸した事でねたみや争いが起きたり、愛があるとかないとか、傷ついたとか・・。パウロは「それはあなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか。」(Ⅰコリント 3:3)と語る。昔も今も変わらない。即ち、肉の人は霊がわからないのである。


肉の人ほど自分が肉であることに気がつかない。頭で霊のことを学ぶと、もう自分が霊の人になったと思ってしまう。出来上がって行くのだ。本当に霊が深められると、自分の肉がわかるから、出来上がるどころか、その度に悔い改めるばかりである。その結果成長の恵みにあずかるのだ。成長は自分の努力によるものではない。肉であるなら、御言葉も教訓程度であり、説教も内容があったとしても、神の命はない。肉は肉であり、死である。初代教会の力の秘訣は、聖霊に期待してひたすら祈った事だ。私達もひたすら祈ろうではないか。
by oume-akebono | 2011-08-09 11:05 | 週報メッセージ