2011年 08月 03日
7月31日 セルを充実させよう
(使徒行伝 1:46~47) 大谷 唯信 牧師
「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」
これこそ神の国であり生きた教会の姿である。イエスは伝道を開始した時、開口一番、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1:15 )と言われた。預言者イザヤは「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」、
またダビデの末から「ひとりのみどりごが我々のために生まれた、一人の男の子が我々に与えられた。その名は霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ書9:5~6)との予言通り神の御業が進められているのだ。
今や全人類を罪から救い出す十字架の福音はペンテコステ以来、教会に託され、全世界に伝えられ、ついに私達青梅あけぼの教会にまで及んでいるのであるから驚きの神の御業である。イザヤはイエスの誕生700年前であり、ダビデは千年も前のイスラエルの王であった。しかし神の出来事は時代を超えて常に今の出来事として迫ってくる。
使徒時代の初代教会の歩みに現代の私達の求めるべき姿が沢山あることがわかる。それはまず、日々心を一つにして絶えず礼拝し、祈りあう事、そして生活を互いに分かち合う健康的な豊かな交わりがあり他の人からも好感がもたれ尊敬される生活があった事である。わたしたちが持つ信仰生活は独りよがりであってはならない。それだけに小グループであるセルグループが重要なのだ。聖書研究会ではない。御言葉を生活の中で実践するための分かち合いである。教会は組織やプログラムで進むのではない。現実の生活を分かち合う個人、人々の成長のプロセスを通して御聖霊が進めて下さるのである。
「そして日々心を一つにして、絶えず宮もうでをなし、家ではパンをさき、よろこびと、まごころをもって、食事を共にし、神をさんびし、すべての人に好意を持たれていた。そして主は救われる者を日々仲間に加えて下さったのである。」
これこそ神の国であり生きた教会の姿である。イエスは伝道を開始した時、開口一番、「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコによる福音書1:15 )と言われた。預言者イザヤは「暗闇の中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」、
またダビデの末から「ひとりのみどりごが我々のために生まれた、一人の男の子が我々に与えられた。その名は霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君と唱えられる」(イザヤ書9:5~6)との予言通り神の御業が進められているのだ。
今や全人類を罪から救い出す十字架の福音はペンテコステ以来、教会に託され、全世界に伝えられ、ついに私達青梅あけぼの教会にまで及んでいるのであるから驚きの神の御業である。イザヤはイエスの誕生700年前であり、ダビデは千年も前のイスラエルの王であった。しかし神の出来事は時代を超えて常に今の出来事として迫ってくる。
使徒時代の初代教会の歩みに現代の私達の求めるべき姿が沢山あることがわかる。それはまず、日々心を一つにして絶えず礼拝し、祈りあう事、そして生活を互いに分かち合う健康的な豊かな交わりがあり他の人からも好感がもたれ尊敬される生活があった事である。わたしたちが持つ信仰生活は独りよがりであってはならない。それだけに小グループであるセルグループが重要なのだ。聖書研究会ではない。御言葉を生活の中で実践するための分かち合いである。教会は組織やプログラムで進むのではない。現実の生活を分かち合う個人、人々の成長のプロセスを通して御聖霊が進めて下さるのである。
by oume-akebono
| 2011-08-03 06:43
| 週報メッセージ