2011年 07月 18日
7月17日 リバイバルを求めよう
(詩篇 34:18) 大谷 唯信 牧師
「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」
リバイバルとは初代教会が御聖霊の注ぎによって誕生し、その後、御聖霊の力によって多くの人々が救いに導かれたように、今もそれがくり返され起きる事を言う。神はくり返し私たちに御聖霊を注ぎたいのである。
しかし、私達がそれを止めていると神は言われる。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。また、あなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。(イザヤ59:1-2)
これは預言者イザヤが一番最初に神から託された言葉にも通じる。「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。」(イザヤ1:2)しかし彼らは神にそむいた自覚もないのだ。だから困った時にはその自己中心のままで祈ったりもする。しかし神は言われる、「たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである」(イザヤ1:15)と。
しかし、人はそれほどとは思っていないのである。
信仰とは主に従う事だ。自分の主権を神に明け渡すことだ。そうすればすぐ御聖霊は私達の命となって生ける者として下さるのだが、その明け渡しができないのである。
さらに神は言われる、「もしあなたが快く従うならば、地の良き物を食べることができる。しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」と。
リバイバルは深い罪の自覚を与え、悔い改めに導こうとする。この働きがないと、クリスチャンであっても自分なりの歩みとなり、エゴと言う肉のクリスチャンになりやすいのだ。パウロはガラテヤ教会の人に「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」と叱咤しているではないか。何としてもリバイバルが必要なのである。祈り求め砕かれることである。
「主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる」
リバイバルとは初代教会が御聖霊の注ぎによって誕生し、その後、御聖霊の力によって多くの人々が救いに導かれたように、今もそれがくり返され起きる事を言う。神はくり返し私たちに御聖霊を注ぎたいのである。
しかし、私達がそれを止めていると神は言われる。「見よ、主の手が短くて救えないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。また、あなたがたの罪が、主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ。(イザヤ59:1-2)
これは預言者イザヤが一番最初に神から託された言葉にも通じる。「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。」(イザヤ1:2)しかし彼らは神にそむいた自覚もないのだ。だから困った時にはその自己中心のままで祈ったりもする。しかし神は言われる、「たとい多くの祈りをささげても、わたしは聞かない。あなたがたの手は血まみれである」(イザヤ1:15)と。
しかし、人はそれほどとは思っていないのである。
信仰とは主に従う事だ。自分の主権を神に明け渡すことだ。そうすればすぐ御聖霊は私達の命となって生ける者として下さるのだが、その明け渡しができないのである。
さらに神は言われる、「もしあなたが快く従うならば、地の良き物を食べることができる。しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」と。
リバイバルは深い罪の自覚を与え、悔い改めに導こうとする。この働きがないと、クリスチャンであっても自分なりの歩みとなり、エゴと言う肉のクリスチャンになりやすいのだ。パウロはガラテヤ教会の人に「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。」と叱咤しているではないか。何としてもリバイバルが必要なのである。祈り求め砕かれることである。
by oume-akebono
| 2011-07-18 08:52
| 週報メッセージ