2011年 05月 01日
4月24日 自分なりを捨てよ
(ガラテヤ2:19-20) 大谷唯信牧師
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである。」
神は私達を選び愛しさらに豊かに成長する事を願っておられる。成長するとは御霊の実が私達に、そして教会にみのる事である。そのためには私達一人ひとりがしっかりとキリストにつながっている事だ。私達の生活すべてがキリストと共にある信仰の出来事として、又、教会の出来事として取り組んでみる事が大切なのである。ほとんどの人が「自分なり」の生活を求めている。「自分なり」にできた時、喜びがあり達成感があるからだ。
しかしこれは初歩の初歩である。信仰生活も「自分なり」にやろうとするする人が意外と多いがすぐに行き止まりだ。「自分なり」とは自己にしがみついているのに他ならない。本来、信仰とは自己を捨て神を中心にして自己から解放される事にある。それなのに神の名を借りて自己中心となり自分のカラの中に閉じこもってしまう。神に守られていると思いながら自己の中の安全地帯にもぐり込んでしまうのだ。気をつけねばならない。
自分を捨て神に従おうとする時、これを阻む強い障害を感じると思う。これが自我でありエゴと言う罪なのである。罪は「自分なり」にやっている時はほとんど気づかない。真剣に神に従おうとすると途端に罪が見えてくる。自分の罪の重いが深くならない従い方はまだそれほど真剣ではないのである。パウロは「わたしの欲する善はしないで、欲しない悪がこれをする」と告白し、自分は罪の奴隷ではないかと自覚した。同時にキリストの十字架は我がためであり、さらにキリストと共に十字架に死にキリストと共によみがえる信仰に至ったのである。
「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである。」
神は私達を選び愛しさらに豊かに成長する事を願っておられる。成長するとは御霊の実が私達に、そして教会にみのる事である。そのためには私達一人ひとりがしっかりとキリストにつながっている事だ。私達の生活すべてがキリストと共にある信仰の出来事として、又、教会の出来事として取り組んでみる事が大切なのである。ほとんどの人が「自分なり」の生活を求めている。「自分なり」にできた時、喜びがあり達成感があるからだ。
しかしこれは初歩の初歩である。信仰生活も「自分なり」にやろうとするする人が意外と多いがすぐに行き止まりだ。「自分なり」とは自己にしがみついているのに他ならない。本来、信仰とは自己を捨て神を中心にして自己から解放される事にある。それなのに神の名を借りて自己中心となり自分のカラの中に閉じこもってしまう。神に守られていると思いながら自己の中の安全地帯にもぐり込んでしまうのだ。気をつけねばならない。
自分を捨て神に従おうとする時、これを阻む強い障害を感じると思う。これが自我でありエゴと言う罪なのである。罪は「自分なり」にやっている時はほとんど気づかない。真剣に神に従おうとすると途端に罪が見えてくる。自分の罪の重いが深くならない従い方はまだそれほど真剣ではないのである。パウロは「わたしの欲する善はしないで、欲しない悪がこれをする」と告白し、自分は罪の奴隷ではないかと自覚した。同時にキリストの十字架は我がためであり、さらにキリストと共に十字架に死にキリストと共によみがえる信仰に至ったのである。
by oume-akebono
| 2011-05-01 08:31
| 週報メッセージ