2010年 11月 02日
10月17日 最も基本的なこと
(マタイによる福音書6:33) 大谷 唯信 牧師
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
「あすのことは思いわずらうな!」。何と魅力的な言葉であろう。もしそれができるなら勿論、誰でもそのようになりたいと思う。これに反対する者は誰もいないであろう。そこで求める、しかし中々できないのだ。
ではどうしたらよいのか。聖書を読むよう教えられる。そこで何とか読み始める。すると上の御言葉のように、「まず神の国と神の義とを求めよ」とある。
では神の国とは何か、神の義とは何かを知ろうとする。「神の国とは地上の国の事ではなく神の支配の事で‥‥」「神の義とは‥」こんな説明を聞いたり、読んだりしてある程度の知識は得たとしても自分の生活では、となるとわからずピンとこない。かえって思いわずらいが多くなったりする-こんな経験は誰しもがあるのではないか。
確かに聖書の学びは必要だが、押さえておくべき所を押さえて学ばないとただ知識を得るだけで何の力にもならない。単刀直入に言おう。聖書のメッセージの中心はイェス・キリストである。「まず神の国と神の義とを求めよ」とは、まずイェス・キリストを求めよと言う事なのだ。神の国も神の義もイェス・キリストの中にあるのだ。これを知っておくと聖書はわかりやすい。
イェスの伝道の開口一番の言葉は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。ここでも「神の国」はイェスの事であり、「福音」もイェスの事である。そのイェスが「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われたのだ。「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。すべてはイェスから始まるのである。
「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」
「あすのことは思いわずらうな!」。何と魅力的な言葉であろう。もしそれができるなら勿論、誰でもそのようになりたいと思う。これに反対する者は誰もいないであろう。そこで求める、しかし中々できないのだ。
ではどうしたらよいのか。聖書を読むよう教えられる。そこで何とか読み始める。すると上の御言葉のように、「まず神の国と神の義とを求めよ」とある。
では神の国とは何か、神の義とは何かを知ろうとする。「神の国とは地上の国の事ではなく神の支配の事で‥‥」「神の義とは‥」こんな説明を聞いたり、読んだりしてある程度の知識は得たとしても自分の生活では、となるとわからずピンとこない。かえって思いわずらいが多くなったりする-こんな経験は誰しもがあるのではないか。
確かに聖書の学びは必要だが、押さえておくべき所を押さえて学ばないとただ知識を得るだけで何の力にもならない。単刀直入に言おう。聖書のメッセージの中心はイェス・キリストである。「まず神の国と神の義とを求めよ」とは、まずイェス・キリストを求めよと言う事なのだ。神の国も神の義もイェス・キリストの中にあるのだ。これを知っておくと聖書はわかりやすい。
イェスの伝道の開口一番の言葉は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。ここでも「神の国」はイェスの事であり、「福音」もイェスの事である。そのイェスが「信じてバプテスマを受ける者は救われる」(マルコ16:16)と言われたのだ。「その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである」(ヨハネ1:12)。すべてはイェスから始まるのである。
by oume-akebono
| 2010-11-02 08:40
| 週報メッセージ