7月18日  肉ではなく霊によって

(ローマ人への手紙 8:12)  大谷 唯信 牧師


「わたしたちは、果たすべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない」


クリスチャンになってもその信仰生活を肉の力で推し進めている方が実に多い。信仰は霊的な出来事なのである。それなのに肉の力で維持するとなるとこれは実にキツイ事になろう。自分の調子が良い時、気分が乗った時には快調であって、どんな奉仕も生き生きと楽しくできる。クリスチャンになって良かったと思うのである。自分が肉の力でやっている等とは到底思えない。労する事そのものが感謝である。

しかし自分の限度を越えて来ると肉の部分が悲鳴をあげてくる。霊的にはまだ幼く力がないからだ。これは決して嘆く事ではない。こういうプロセスを通して肉が自覚されイェスの十字架の贖いに導かれるからである。クリスチャンになった途端に完全になるわけではない。確かに永遠の命の世界に入れられ救われた事はゆるぎのない事実である。しかし、神の器としてはまだまだ未熟で霊的器と言うより多分に肉的であるのが現状だ。

パウロはコリント教会の人達に語っている、「わたしは、あなたがたには、霊の人に対するように話す事ができず、むしろ、肉に属する者、即ちキリストにある幼子に話すように話した。食べる力が、まだなかったからである。今になってもその力がない」(Iコリント3:1-2)。

何かトラブルが起きると傷ついたり、腹が立ったりするものだ。それが、その部分がまだ肉である事の証拠なのである。「あなたがたの間でねたみや、争いがあるのはあなたがたが肉の人だからだ」(Iコリント3:3)相手の問題ではなく自分の肉の問題なのだ。自分の肉に弱さや痛みのある方、早くに十字架に荷をおろすのだ。主が霊に変えて下さるチャンスである。
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by oume-akebono | 2010-07-19 16:20 | 週報メッセージ