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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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11月1日  日々新たに

(ローマ人への手紙12:2)   大谷 唯信 牧師


「心を新たにすることによって、造りかえられ・・・」

どのような素晴らしい信仰を得たとしても日々新たに造りかえられる事を失ったならば、その信仰は観念だけとなって死んだものとなる。そこには命もなく力もない。たとえ深い人生観が語られ学識に富んだ説教があっても「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。」(Ⅰコリント13:1)

魂を救う力はない。と言う事はベテランのクリスチャンであっても、否、説教者であっても失格者になり得ると言う事だ。この世の肉の事であるなら誰にでも目で見、手で触れる事ができるので分かりやすい。しかし、霊の事は霊の心が開かれていなければ見えないのである。

勿論、霊の命を持っている者には相手が霊の命を持っているか否かはすぐわかる。荒野のヨハネが群衆の中におられるイエスを見て一瞬にして「見よ、神の小羊!」と叫んだのに対し、学者やパリサイ人達はイエスの中に霊なる神の命が見えなかった。それは自分の中に霊の命がなかったからだ。そういう者が指導者となっていたからイエスは「盲人が盲人を手引きする」(マタイ15:14)と言われたのである。

内面の問題は実に観念的になりやすい。神学で塗り固める余り、本来の生きた命が消えているのに気付かないと言う事が起こる。奉仕や活動でも同じことが起こる。勿論、神学も奉仕も必要である。しかし、これらは永遠の命を得るための手段でしかない。では、この手段を通して何を求めるのか。パウロは「キリストとその復活の力とを知ること」(ピリピ3:10)と語る。私達は学びも奉仕もしよう。しかし、そのすべての中に生けるイエスの十字架と復活を見、御名をあがめるようにしよう。
by oume-akebono | 2009-11-05 07:45 | 週報メッセージ