(ガラテヤ人への手紙 4章19節)      大谷唯信牧師



「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」



パウロはガラテヤの諸教会の不信仰を嘆いて語っているのだ。何が原因なのだろう。もう少しパウロの言葉を聞いてみよう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ3:1)と大変な剣幕である。「わたしは、ただこの一つの事を、聞いてみたい。」「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。」と激怒しているのである。パウロは多くの事を言っているのではない。「ただ、一つの事を…」と言っている。問題はこの一点なのである。



 これはわたし達にとっても他人事ではない。謙虚に自分の事、私たちの教会の事として受け取るべき事ではないだろうか。確かに私たちの教会は神の祝福を沢山受けている。先週の及川久・恵子夫妻の結婚式にも、わたし達の想いを超えた主の恵みを見た。正に奇跡の連続である。サタンが入り込むのは、こういう時なのだ。わたし達の思いを肉に引きずり込むのである。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。」とこれは叱咤激励である。ペテロも最後の晩餐の時、優位に立って忠誠を誓った直後の言動でイエスから「サタンよ退け、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り飛ばされている。いずれも肉と霊の問題なのだ。


わたし達はさらに肉を捨て霊に生きる事を主に祈り信仰によって歩もうではないか。御霊は御言葉を信じ従う信仰の中に働いて下さる。すでに主は救いを完成させ御霊の九つの実を私達に与えて下さっておられるのだ。肉を見たなら嘆くのではなく、感謝して主の十字架に捨てる事を覚えよう。


























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# by oume-akebono | 2018-10-21 13:04 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章19節)    大谷唯信牧師



「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



私達は常に教会の成長を願っている。子供の成長と同じく教会は日毎に変化し成長していく。何故なら教会にはキリストの体としての神の命が注がれているからだ。つまり私達に神の命が注がれていると言う事である。神は愛である。「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)「彼によって私達を生きるようにして下さった」(Ⅰヨハネ4:9)



愛する愛も、生きる命も根拠は自分ではなく神でありキリストの十字架にあるのだ。世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きるのである。またどんなに善い事をしても愛しても自分が根拠であるからエゴを脱する事が出来ない。



人間を駄目にし不自由にしているのはこの自分の中にいるエゴなのである。しかし世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。自己実現は嬉しいものだ。喜びである。ところがどうだ、エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。これこそ悲劇ではないか。これほど本来の自分の立つべき所からズレてしまっているのだ。今の世の政治・経済・社会をこの観点から見るとあらゆる問題が、即ち国際問題から個人一人ひとり、夫婦親子の問題までこの本質からのズレが原因と見えてくるのではなかろうか。しかし私達は他者にある問題点は見事に見えるのだ。肝心な自分の中にあるエゴには目が向かない。「自分なり」の正しさの中にいるからだ。捨てるべき自分を良くも悪くもかかえ込んではいないだろうか。



もう一度初心に帰ろう。教会は得る所ではなく捨てる所なのだ。パウロは「わたしは何とみじめな人間か」と投げ捨てた瞬間、主の光の中にすでにいる事がわかった。神がまず私達を愛して下さっておられるからである。





























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# by oume-akebono | 2018-10-14 13:12 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 3章16-17節)    大谷唯信牧師



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」



神がわたし達に賜った救いとその恵みは、わたし達の思い、考えをはるかに越えている霊的存在である。キリストの十字架の御業は単にわたし達を救って下さると言うだけではない。それは神の選びによってこれから神の示す道を歩ませるためのアブラハムの第一歩なのである。誰でも「からし種一粒」の小さな信仰から始まる。誰でも人は赤ちゃんとして生まれるではないか。一人として大人で生まれてくるものはいない。



しかし人はニコデモのような立派な学識を持ち指導者として尊敬される地位を得る者になってもイエスは彼に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われた。神の命の世界ではこの世の知恵、地位は全て関係がないのである。さらにイエスは「誰でも幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言っておられる。



これらは霊の世界の領域なのだ。霊の領域をこの世の知識の尺度で計ってわかるものではない。霊の領域は幼な子のように純粋で素直に認め受け入れる。実に最も単純な幼な子で良いのである。もし「わたしも信仰を持って歩みたい、救われたい」との願いがあるならそのように決断し一歩進めるべきであろう。何故ならそれは御聖霊があなたをノックしておられるからだ。聖霊の働きかけがなければ人はイエスに対しても、救いに対しても全くの無関心で気にもならないのが普通である。教会にまだ来られた事の無い人でもこれらに関心の心が動くならばすでに御聖霊は働いておられる。まして教会に来られているなら確実に御聖霊は「内なる声」として語りかけておられる。しかも「からし種一粒」の信仰から30倍、60倍、100倍となる生命の力を約束されている。この一粒で聖霊の住まわれる「神の宮」とされているのである。






















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# by oume-akebono | 2018-10-07 14:25 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)      大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



救われた信仰の根拠は自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。いつの間にか自分を見て評価し自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。



パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。



そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は十字架のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と重なり叫んで神に自分の真黒な体を投げ込んだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。



ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。

























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# by oume-akebono | 2018-09-30 14:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4章13節)         大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。…」



あの弱かったペテロが驚くほどの変身を遂げた。私はこのペテロの歩みを見る時、いつも慰められ、励まされる。肉の人から霊の人へ変えられていく経過を、共感しつつ見るからである。



いつも失敗してはイエスに叱られていた。常に熱心で思った事はすぐに口に出し行動する。良かれと思ってのことが、結果的には失敗となってしまう。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分だけはと忠誠心を心から誓ったりした。いつも全力投球なのだ。しかし、ユダと同じ裏切りをしてしまう。どうしてこうなってしまうのか。誰でも自分の人生は、一歩一歩自分の足で歩き、身をもって体験し、初めてその意味が分かってくるものである。事の善し悪しだけならば誰にでもわかるであろう。



73回目となる長崎原爆の日の平和記念式典に史上初めて国連事務総長が参加され、次のように語った。「2017年には核兵器の近代化等に1兆7千億ドル以上のお金が武器や軍隊のために使われた。今までの最高額であり、世界中の人道支援に必要な金額のおよそ80倍にもあたる」と。(2018.8.8.朝日)



この世は平和を求めてはいるが、人を殺す武器の力で互いを牽制し合う中でしか、話しも進められないのが現状である。ダビデは3千年も前に「王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。…見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」(詩篇3316-18)と述べている。



肉と霊の問題なのだ。イエスは霊の次元で語るのだが、ペテロは肉の次元でしかわからなかった。どれほど熱心でも「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ人への手紙85-6)ペテロはこれが分かったのだ。


























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# by oume-akebono | 2018-09-23 13:00 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 3章7節)     大谷唯信牧師



「今日、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」



主のみ声を聞くにはどうしたらよいのだろう。自分の中に起きる思い、内なる声…どれが自分の思いでどれが神のみ声なのか。その判断は頭で考えても分からない。しかし、聖霊により頼みつつ聖書の御言葉を心で味わい、信じ、自分の心の中で確かなものと信ずることができるまで、確信に至るまで祈るのである。聖書はたくさん読み、流れの全体を知るのも大切であるが、それ以上に大切なのは自分の心に響いた御言葉、自分もそのようになりたいと思えた御言葉を選び、何回も何十回も心で繰り返し、それがその通りだと信じ確信に至るまで、自分の思いとなりきるまで祈り味わう。一つの御言葉によって主を仰ぎ主と共にあり、信ずる信仰によって御言葉が主のみ声であり自分の思いもそれと一つになるように、ご聖霊の助けを願いつつ信仰によって信じ祈るのである。



「聖書は神の約束」「聖書はわたしの信仰」と言い切っていくごとに肉から霊の領域に入り込み、神の臨在に包まれ、自分を見、この世を見る時、そのギャップ、ずれが見えてくる。それが世に対しての生ける証し、メッセージとなるのである。御言葉の霊的世界に深く入るほど語り伝えるべき言葉が湧いてくる。その言葉は霊によって生きた言葉となる。肉の中にあるまま霊のことを語っても、それは単なる知識、情報程度の知識や文字であり、魂を救う力とはならない。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)。パウロが信仰を通して神からの啓示を受けての神の言葉である。



求める者には誰にでも与えられる。それはイエス・キリストを信じることが入口である。信じるのは自分の意志で決めれば、今すぐでも新しい人生が始まる。自分で決めなければ何十年たっても始まらない。決めることだ。あとはご聖霊が内なる力、声となって、一生導いて共に歩んで下さるのである。



























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# by oume-akebono | 2018-09-16 16:05 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 4章 11節)   大谷唯信牧師



「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。すれはいえすのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」



 「強く生きる」とは多くの人が求めているものの一つであろう。しかし得てして霊的ではなく肉的な強さを求め、結果的には自分を失う事になりかねない。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ86)



 パウロはイエスと出会い従い行く中で、次々と生きるいのちの法則を体験的に啓示を受けていくのである。「わたし達生きている者はイエスのために死に渡されている」と語る。もう自分を強くしようとはしない。否、弱い方がよい。自分は無価値な「土の器」に徹する。それは自分の生命を日々十字架に掛けて死に渡してしまう事。もはや、強いとか弱い、できる、できない、自分の都合がどうなのこうなの、信仰が弱くて…等々の次元ではない。そのままの自分をイエスと共にイエスの十字架に手渡してしまっているのである。「いつもイエスの死をこの身に負っている」の意識だ。それは「イエスのいのちがこの身に現れるため」であり、さらに「イエスのいのちが、わたし達の死ぬべき肉体に現れるため」と繰り返している。



 正にイエスの語られた「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」(マタイ1625)のイエスの「命の法則」を見るのである。



これらを実現させて下さるのは聖霊の導きにある。聖霊は十字架を通してのみ働く。肉は正しく力ある働きをしていても、やがてゴルゴダにさしかかると弱くなりついて来られなくなる。

肉の力では神の要求を満たすことはできない。弟子達も「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ2641)と言われてしまった。しかしこの弱さから、弱さに立ったところから新しい出発があるのだ。十字架の死に立っていることを新たにし、聖霊のキリストに従おうではないか。
























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# by oume-akebono | 2018-09-09 13:30 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 5章27-28節)         大谷唯信牧師



「女はイェスの事を聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと思ったからである」



 もう駄目だと思い、

とても出来ないと思ったら、

実際に出来ません。

勝ちたいけど、とても勝てないと思ったら、

間違いなく勝てません。

負けると思ったら、負けます。

何故ならば、この世では、成功は、人の意思から始まります。

何もかも心の在り方一つです。

人生の戦いは、いつでも、強くて、抜け目のない者が勝つとは限りません。

遅かれ早かれ、勝つのは、

勝てると思った人なのです。



 これは信仰の法則を示したものである。これをあなたの信念としなさい。あなたは信じた事しか出来ない。出来ると信じたもの以上は、どんなにしても出来るものではない。堅く信ずれば、あなたの信仰は、あなたの想いを実現させてくれる。信仰はあなたの秘められた力を刺激する。信念を信ぜよ、信仰に頼る事を恐れてはならない。自分勝手に決めた限界を自分に押付けてはならない。生命の続く限り信じ続けなさい。そうすればあなたの能力は伸び続けであろう。「何でも祈り求めた事は、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)

(この詩はガラスの教会を建てた有名なロバート・シュラー牧師の恩師ノーマン・ピール牧師のものである)



 力の源はイェス・キリストへの信仰である。世にある可能性思考以上のものだ。キリストの十字架の死による贖いと復活によって私達人類に神の救いが与えられ、その恵みはすでに完成されている。ただ信仰によって得られるのである。



 冒頭の病の女は絶望以外何もない人物を描いている。彼女はイェスの事を耳にし、藁をも掴む気持で「せめてみ衣にでもさわれば治る」と信じて主にふれ、いやされたのである。主は言われた、「あなたの信仰があなたを救った」と。
























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# by oume-akebono | 2018-09-02 15:06 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)     大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために神の武具で身を固めなさい。」



パウロはクリスチャンに「強くなれ!」と言っています。決して「弱くてよい」とは言ってはいません。しかし「誰でも困難にぶつかった時、わたしも弱らないでおれようか」と正直に自分を見ています。自分の弱さを誰よりも知っているのです。そこで祈りました。三度もです。その時、主は「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けたのです。心の内に声を聞いたのです。



「パウロはいいな!わたしはそんなこと言われたことはない」等の思いもあるかもしれません。しかし特別なことではなく、何かを本当に困って切実に求めるものには、何らかの気付き、思い、人の声、言葉等々からひらめきのように内に示されることは日常的にあるものです。特に御言葉からくるものは霊的な法則として真実を語っていますので、パウロが受けた主の言葉でも、今わたしに与えられた言葉としてあなたが受け入れるならばそのようになります。彼は弱さを悲しんではいません。「むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう」と大胆に宣言し、「弱さ、侮辱、危機、迫害に甘んじよう」と喜んで堂々と立ち向かっているのです。何が根拠でしょうか。パウロが述べてきます。「なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」と。主の御言葉です。



かつてパウロは恐ろしいほどに強く自らを完璧の如く高慢になり、自分の身分、能力、地位、すべてを誇り「律法の義については落ち度のない者であった」と絶対者の如く振る舞い、命がけで教会を迫害しキリスト者を捕らえ殺していたのです。しかしキリストの光に照らし出された時、初めて自分の罪を見せられ、もはやわたしだけではなく、全人類が心の奥に宿っている罪の法則に閉じ込められ罪の奴隷とされ、すべてが肉の働きになってしまっている現実を示されたのです。聖なる律法に従うことによって罪の法則に落ちたのです。サタンの与えた知識の実の罠でありました。この世の人類は未だに、それを食べ続け、他を支配したいのです。




























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# by oume-akebono | 2018-06-24 17:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章18-20節)   大谷唯信牧師



「…善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。…」



誰でも心の中にこのような葛藤を経験したり、後悔をする悲しみを負ったりしていないでしょうか。



パウロは家柄、能力、身分、全ての点で恵まれ、自信にあふれていました。イスラエル人としてのエリート中のエリートとして、実力を誇っていました。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、…律法の義については落ち度のない者」と自らを絶対的な、ほとんど完璧な者として自負していたのです。律法では最初に神以外のものを神としてはならないとあり、十戒の一つでも破ったものは石で撃ち殺せとされていた時代です。彼は、徹底的に教会を迫害し、神殿から兵まで出して、キリスト者を捕らえたのです。自らを「熱心の点では教会の迫害者」とまで言うほどでした。



しかし、キリストの光を心に受け、自分の心の奥の奥に、自分の意志や信念ではどうにもならない悪が入り込み、自分を支配していることに気づかされたのです。しかもそれは、「…もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である」と言わしめるほどの告白となったのです。それは単に自分の責任逃れ等の個人的な軽いものではなく、全人類を支配している強大な力-「…善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る」、即ち、心では神の律法を喜んでいるが、「わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、…罪の法則の中に、わたしをとりこにして…」と、私たちを罪の奴隷にしている悪、サタンの強大な支配-を発見したのです。



現在でもほとんどの人がこれに気づかず、認めようとはしません。自分の力で戦い、敗北の連続であっても気づきません。パウロには、「私たちの戦いは血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」と、戦う相手がはっきり分かっていたのです。自我の知識(罪)は私たちを盲目にします。イエスの十字架の言葉は神の力であり、ただそれによってのみ自我を砕くことができるのです。


























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# by oume-akebono | 2018-06-17 14:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのです。ではどうして迫害をやめ、それどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を伝える者となったのでしょうか。この驚くべき変化は何故起きたのでしょう。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の霊的実体に触れたからです。



イエスは「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ424)と言われました。霊とまこととをもってとは、どういう事でしょう。今という瞬間々々に真心をぶつけて自分を生きているか否かを神の前で問う事です。霊的に生きるとは、実在の中に生きる事です。



たとえばあの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性です。必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れました。その求めた中に見る事が出来るでしょう。その時、弟子達を始め多くの人が肩を押し合いイエスに「押し迫っていた」のです。しかしイエスに本当に触れたのは、この女性一人以外いなかったのです。ところが「押し迫っていた」多くの人々は、自分たちはイエスに触れていると思っていたのです。また、「富める青年」は群衆からイエスの前に飛び出してひざまずき「永遠の命」について尋ねたのです。「何と謙虚な立派な青年だろう」と人々は思った事でしょう。



しかしイエスが応えるごとに「それは小さい時から守ってきました」とまるで「そんな事は昔から知っていますよ!」と言うのです。実体なるものを知識で学び知る様に実体から遠くなっている現実が見えなくなっているのです。現在、このような状態になっている諸教会が増えています。「教会の祈り」を本気で取り組みましょう。サタンは巧妙にすべてを肉の働きに押し流そうとしていますから、油断してはいけません!























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# by oume-akebono | 2018-06-10 13:49 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 22章37-40節)    大谷唯信牧師



「心をつくし精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ。これがいちばん大切な第一のいましめである。第二もこれと同様である。自分を愛するようにあなたの隣人を愛せよ。これら二つのいましめに、律法の全体と預言者とがかかっている。」 



神の私達に対するテーマは常に愛に生きると言う事である。第一があって第二がある。そしてこの二つは一つとされていく。互に愛し合う事に反対を唱える者はいない。皆、愛を求めている。しかし第一が抜け落ちているのだ。愛を本物にしていく秘訣を聖書は語る、「神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(ヨハネⅠ4:10)だから「わたし達も互に愛し合うべきである」と。



即ち、神の愛に立つべきなのだ。この愛が抜けているならばわたしが全財産を人に施ししても、また自分のからだを焼かれるために渡しても一切は無益である」(I コリント13:3)とまで聖書は言い切る。この世はすべて神の愛によって創造された。私達もそうである。しかし、この世は神を認めず神の愛を失い、自分中心のエゴの愛で現在に至っている。そのためにこの世には神の愛なる愛はない。あるのは人間中心のエゴの愛であり本当に共に一つになる力は全くないのである。近頃の世界情勢を見よ。昔と同じく互いの武力の強さによって牽制し合っているだけの危ういものではないか。パウロは「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているならあなたがたは互いに滅ぼされる。であろう」(ガラテヤ5:15)と語っている。



この世はそれしか出来ないのだ。だからパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば決して肉の欲を満たす事はない」と命じているのである。この御霊によって神はキリストのからだなる教会をつくり今の私達をも召してキリストの証人として立てて下さったのである。「神は万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた」。私達は臆することなく主の証人としての恵みにあずかれるのである。


























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# by oume-akebono | 2018-06-03 16:38 | 週報メッセージ

ヨハネによる福音書 4章24節    大谷唯信牧師



「神は霊であるから、あなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



「人を構成する四つの領域」から見れば聖書は霊の領域です。しかし、人の働きはすべて①②③の肉の領域でありこの世のすべては肉で動いています。肉とは神から離れ自己中心(罪)の中で生きていると言う事です。



しかし、私達はイエスの十字架の死と復活が私達の罪を贖い取って下さった事を信じ、その信仰でイエスを救い主として心に迎え入れました。すると死んでいた霊にキリストの命が入り成長に応じて神からの霊の賜物「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」の九つの実が与えられています。これは人の努力によってではなく信仰による恵みとして上からの賜りものとして与えられているのです。



ではこの霊の賜物をさらに深めるにはどうしたらよいのでしょうか。イエスは「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」(マタイ44)と言われました。私達はまだ肉の多くがありますが霊の命が与えられています。これが土台です。私達はこの世の教育を身につけていますのですぐ自分の努力で頑張ったりします。悪くはないのですが知らないうちに肉の働きになってしまう時が多いのです。思うようにいかないと失望、不満、つぶやき、順調が続くと高慢になり他者への批難、裁き、敵意、争い等々、これが「肉の働き」(ガラテヤ519~)になってしまうからです。



私達は弱い者です。私は昔、強くならなければと頑張りました。15年もです。カラ回りでした。逆をやっていたのです。霊の領域は往々にして肉とは逆なのです。得ようとすると失い、捨てる者が得る世界です。「自分なり」のやり方はカラ回りです。今年はそれを学び生活を整えていきましょう。週報に記してある「教会の祈り」を大切にして下さい。



聖書は自分の信仰告白として信じ、味わい祈るのです。知識ではなく霊が成長する事を信じつつ共に歩もうではありませんか。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























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# by oume-akebono | 2018-05-28 02:22 | 週報メッセージ

(使徒行伝 2章 1~4節)        大谷唯信牧師



「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起こってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。また、舌のようなものが、炎のように分かれて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」



この世は神の霊的命から離れ、自己中心の肉的命の世界に落ちてしまった。それは自分が意識するしないにかかわらず、神の支配を退け、罪の支配に身を委ねてしまった事から始まったのです。本来の霊なる命が絶たれ、この世は心の満たしを求めつつも、子どもが甘い物を欲しがるように、肉の物だけで喜びや自己実現を得るようになりました。



聖書に「女がその木を見ると、それは食べるによく、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」とあります。(創世記36)。神に反逆し、サタンの誘惑に従った瞬間でした。これが人間の罪(エゴ)の原点であり、この世のすべての罪の原点です。神の命である霊性を失い、肉のみで生きるようになってしまった結果です。



神は啓示により、聖書をこの世に与えて下さいました。聖書は救い主イエス・キリストを示し、イエス・キリストは神を示して下さったのです。そしてそれを現実の事として受け取れるように聖霊を注ぎ、信ずる者の目を開いて下さいました。神は初め天地創造の中に、ご自身を現わし、次に聖書(律法)の中に、そしてイエスの中に、最後に聖霊の中にご自身を御臨在として現わし、現在は教会の中に時空を超え、常に今の出来事として私たちの内に働き続けておられるのです。



私達が受けたバプテスマは、「わたしはキリストと共に十字架につけられた」即ち「わたしはキリストと共に十字架で死んだ」そして「生きているのはもはやわたしではない、キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ人への手紙219-20)との信仰告白です。更に深めるためには、常にそれを意識し、意識し続けることです。頭の理解での納得に留まっていては力になりません。「ローマ人への手紙98-13」の御言葉は助けになるでしょう。聖霊は十字架で自我を砕き、内なる人を生かして下さいます。




























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# by oume-akebono | 2018-05-20 15:23 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章 6~7節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは主イエス・キリストを受け入れたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい。」



私達の教会のエネルギーの源泉はキリストの死と復活・再臨にあります。これはこの世の肉的次元ではなくすべてを超えておられる御霊の世界(次元)から来るエネルギーです。御霊によって歩いている教会はこの世の状況がどういうものであっても、豊かに成長し続ける事が出来ます。私達の教会は今や霊的信仰で歩んでいますので御言葉の約束通り大きく成長するでしょう。これは聖書的理論ではなく現実の私、現実のあなたがすでに霊的生命の営みの中に招き入れられ主と共に歩んでいるからです。勿論、この世には悩み、問題は沢山あるでしょう。しかし大丈夫です。



私達は肉的世界に生きていても霊的世界に信仰によって立っているからです。信仰とは自分の信仰を強く持って立つと言うのではありません。ここで頑張ると肉の信仰になりやすいのです。自分は強くても弱くてもよいのですがその時々の自分を正直に認めつつ、御聖霊の中にいる事、又、主と共にいる事を思い、それを常に意識し続けるのです。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない」(ヘブル11:6)とあります。それは信仰がなくてはこの世にあって霊的世界に入る事は出来ないからです。



その信仰とは何でしょう。なかなか言葉で説明するのは難しいです。たとえわかりやすく説明し納得理解をしてもその理解が明確になるほど肉の信仰となり人間の知識や手で造った造花の如く美しく見えても命はありません。



それ故、神は独り子イエスを賜わり十字架の死と復活を信仰の根拠として与えて下さいました。これを自分のものにするには「バプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって彼と共によみがえらされたのである」(コロサイ2:12)これが霊的信仰を生む力となるのです。




























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# by oume-akebono | 2018-05-14 01:18 | 週報メッセージ