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青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
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【聖書箇所】コロサイ人への手紙2:12

「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」


 救われた信仰の根拠は自分の中にではなく、キリストにあり、神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると、弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが、少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。


 いつの間にか自分を見て評価し、自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く、自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は、彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると、道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。


 そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ十字架のイエスが自分と重なり、神に自分の真黒な体を投げ込んだのだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。


 ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり、恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためには、ローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。


大谷唯信牧師





# by oume-akebono | 2024-08-20 09:02 | 週報メッセージ
恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」


 「自分探し」等の言葉を聞くだろう。そう、誰もが意識するとしないとに関わらず、これをしているのである。人生には色々な出来事が起こる。その都度、喜んだり悲しんだり、何とかしなければと頑張ったり・・・、常に自分を意識しているではないか。「自分探し」をしているのだ。究極の自分をどこか求めているのである。それは物心のついた子どもの頃から既に始まっている。とするなら人生はすべてが自分探しの旅と言えないだろうか。人は更なる確かなもの、生活や心の豊かさ、ありとあらゆるものを求めて今日に至っている。

 しかし、イエスは言われた。「人を生かすものは霊(神の命)であって肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」(ルカ10:42)と。「自分探し」とは突き詰めてゆくと、それは「神探し」でもあるのだ。自分のルーツを求めているのである。

 神は人を霊的存在として造られた。誰もが肉を超えた霊的命をすでに持っているのである。人は神から離れているため霊の命が分からず、結果的に肉の食物だけを求めてしまい、霊の命は満たされず、また意識もしないので、心の奥に閉じ込めてしまう。現代人の言い知れぬ孤独感、不安、恐れはここから来るのである。まわりでどれ程手を差し伸べても届かない。かえって一寸した一言にでも傷つき、奥に閉じ込めてしまう。

 しかし、神は冒頭の御言葉にあるように、「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする」と語っているのである。あなたが神を知る前から神はあなたを知っており、キリストの命を与えようと、チャンスを与えておられるのである。神の言葉を聞き心に留め、御言葉を通して神と共なる事を意識し続ける。信仰はこの積極的態度によって、深められるからである。

       
                                       大谷唯信牧師



# by oume-akebono | 2024-08-11 12:24 | 週報メッセージ
「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さる。なぜなら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」


 人は本当に追いつめられ苦しくなるとうめきしか出なくなる。もう言葉にもならないのだ。祈りも信仰も、何もかも、空しく絶望の闇となる。その死と恐れの嵐に翻弄されている最中にも耳もとで「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の声と「わたしはあなたと共にいる」、極限の時に必ず聞こえてくる声である。

何も出来なくてもただ思いの中でその声に委ねてみるとよい。その思いを持つことは死の瞬間でも出来る。自分が死んだ状態に、何が何だかわからなくてもいい、自分の存在そのものを、ただ上を見上げて委ねる。身を投じる感覚であろうか。勇気、悔改め、そんな格好いいものではない。惨めでみっともないままである。闇の中に身を沈めたまま動けない状態である。突然に光に変わったのだ。自分の中が泉となって湧きだし生きているものと死んでいるものとが見えるようになった不思義な感覚だ。

 以来、御言葉のメッセージがそのまま本当だとわかったのである。人を生かすのは知識や物ではなく霊であって肉は何の役にも立たないのだ。キリストが注いで下さる十字架と聖霊が生かして下さるのである。人は神に造られた霊的存在だからである。人は土から生まれ土に還る。「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(創2:7)。神の息とは霊である。生きた者となったとは魂が派生したことである。

魂とは心であり知情意を持つ人間性、人格である。この心は霊が土台となっているのだ。人は肉的存在である以上に霊的存在と言えよう。この霊に神の霊が注がれる時、生かされるのだ。主は御霊のとりなしによって常に働きかけ、わたし達を生きる者にされていくのである。



                                      大谷唯信牧師



# by oume-akebono | 2024-08-04 12:20 | 週報メッセージ
(エペソ人への手紙3:16-17)

「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、キリストがあなたがたの心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活するように祈る」

 御霊こそが私たちの内なる人を強くして下さるのである。御霊に対する信仰を深めよう。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。何故なら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14:17)と主は語られた。現代の教会の多くが聖霊への信仰を失っている。御言葉も教会も聖霊によって与えられたのに。聖霊の助けなくして御言葉の命に触れることはできない。それは単なる文字、教訓となり、やがて古びてしまう。

 「イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(コリント人への第二の手紙13:13)。これは、パウロがコリント第二の手紙の最後に記した祝祷である。即ち、主イエスの十字架の死と復活によっての恵みと、独り子イエスを救い主として与えて下さった神の愛が、聖霊との親しい交わりによって現実に豊かなものとされ、日々信仰の確信にまで導いて下さる感謝の祈りであろう。

 父と子と聖霊は一つの神であり、特に御聖霊は、神の霊なる命が私たちの直面するすべての出来事、日々の生活そのものに満ち満ちている事実に、私たちの霊の目を開いて下さる。慰めと平安に満たされ、神とキリストが観念的な過去からの知識のお題目ではなく、神の命の実体に触れさせて下さるのが御聖霊である。

 どのようにすればそれが得られるのか。まずは御聖霊を信じ、親しく心に迎え、生活のすべての中で交わることだ。次に、自分の心の内を正直に開いて喜びも悲しみも語り、御聖霊に相談する。さらに、御霊の中に温かく包まれ御言葉を味わいつつ思い巡らし、キリストが自分の中に住まわれ、内なる人が強められ、大胆に歩んでいる姿を信仰によって見るのである。御霊への信仰が、すべてのものに神の命を吹き込むことを見るだろう。

                              

                                      大谷唯信牧師


# by oume-akebono | 2024-07-28 12:16 | 週報メッセージ
(Ⅱコリント 5:16)    

「それだから、わたしたちは今後、だれをも肉によって知ることはすまい。かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」


 パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのだろう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者達を迫害し苦しめたのであった。ではどうして迫害をやめそれどころか自らを「キリストの僕」と称し、正に命がけでキリストの福音を宣べ伝える者となったのであろうか。この驚くべき変化は何故起きたのか。それはイエスの外側の肉ではなく内側の霊的実体に触れたからである。

イエスは次のように言われた。「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)と。神は霊なる命なのだ。だからこれに触れようとする者も霊とまことをもって触れよと言うのである。霊とまことをもってとはどういう事か。あの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性が必死になって群衆の中を押し分けてイエスに触れた、その求めた姿に見ることができる。

ここでは弟子達をはじめ多くの人が肩を押し合い「押し迫っていた」がイエスに本当に触れた者はこの女性一人以外いなかったのだ。だのに「押し迫っている」多くの人々も自分達はイエスに触れていると思っているのである。私達の教会はこんな事になってはいないだろうか。又、富める青年は群衆の中からイエスの前に飛び出し礼儀正しくひざまずき「永遠の命」を問題にしたのである。何と立派な青年であることか。ところが、イエスが答えると「それは小さい時から守ってきました。」とまるで「そんな事、とうに知っていますよ!」と言うばかりであった。あの「押し迫る者」と同じである。

実体なるものを知識で学び知るほどに実体から遠くになっているのである。「この世の論者はどこにいるか。この世は、自分の知恵によって神を認めるには至らなかった」(Ⅰコリント1:21)。ただイエスを信じる信仰のみが霊の目を開いて下さるのである。



                                   大谷唯信牧師





# by oume-akebono | 2024-07-21 12:10 | 週報メッセージ