ホザナフェス、開催!

お知らせが遅くなってしまいましたが、わたし達あけぼの教会では、
今日から6日(日)まで177.png「あけぼのホザナフェス」177.pngを開催しています!


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「息のあるものはこぞって主を賛美せよ。ハレルヤ。」
                            詩篇150:6
「あの空も、海も、すべて創られたものは あなたを讃美する!」

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初日の今日は、70名近くの方が来て下さって、楽しみながら共に主を賛美しました。
ワークショップもキッズタイムも、子どもから大人までみんなで盛り上がりました169.png





















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# by oume-akebono | 2018-05-04 23:54 | 行事

コリント人への第一の手紙 (15章55~57節)    大谷唯信牧師



「死よ、お前の勝利は、どこにあるのか。神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。」



小松博吉兄(渡辺ゆかり姉の父)の葬儀が渡辺淳一、ゆかり夫妻の自宅で行われました。初めは家族を中心にささやかにと聞いておりましたが急拠一転、教会からパイプ椅子40脚が運び込まれ、礼拝堂のように自宅の椅子も合わせて当日は満席。部屋いっぱいに響く讃美、御言葉の中で納棺、告別、出棺と厳粛に進められ、当然別れの悲しみはあるのですが、小松兄のガンとの戦い、キリストとの出会い、信仰によるバプテスマとその後の平安な日々となるまでのいろいろ-不安、心配、疑い、祈り、信仰、許しあうこと、愛し合うこと、等々、小松兄がすべてを神に委ねきった平安な静かな姿にキリストを見ているからでしょう、悲しみを持ちながらもそれを越え、共に神に生き生かされている時でもありました。部屋全体が神の御臨在に満ち、まるで結婚式のような明るさと自由を感じ、ここにおられる全員が心を開いているのが分かります。



小松兄がゆかり姉に連れられて私の所へ来られたのは、昨年の今頃だったでしょうか。信仰を求めて来たのではなく病気で困っていたからです。「あと数ヶ月の命」と言うことも本人は知らず、手の痛い事の方を気にしていました。見ると右の掌がグローブのように大きく赤茶色に腫れ上がり、痛くて痺れるとのこと。すぐに癒やしの祈りをし、翌週に会うことにしました。翌週になってお会いしますと手は完全に普通になっていました。その後検査入院をした結果、ガンも消えました、食欲もありますと元気に言っていました。実に純粋な人と言う事です。以来安心したのか教会に姿を見せません。年が明けてから来られたときは再発とのこと。やっと真剣に求めだしバプテスマを受けたのです。彼が安定して霊的成長が始まりました。



バプテスマはイエスの十字架の死と復活を現します。普通の人は誰も復活など信じません。しかし敢えて神は、これを信ずる者に救いの命を与えるのです。不思議ですね!

























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# by oume-akebono | 2018-04-29 23:50 | 週報メッセージ

(詩篇 4篇6節)         大谷唯信牧師



「主よ、どうか、み顔の光をわたし達の上に照らして下さい」



今年度を私達教会の霊的成長の幕開けといたしましょう。



私達の教会は感謝な事に霊的信仰の核なるものが育って来ました。一人ひとりが霊的信仰に目覚め深められ、教会全体として霊的いのちの核の存在が見えて来ています。石地やいばらの生えた荒れた地ではなく霊に満ちた豊かな土壌になって来ています。魂の救いは霊的信仰の中で起こります。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)は基本です。すぐれた知識も感動的な言葉も又御言葉ですら肉の次元で語られ聞かれる事があり得るのです。否、その方が多いかも知れません。私達も常に注意が必要です。



パウロも語っています。「私達にも福音が伝えられている。しかし、その聞いた御言葉は彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに信仰によって結びつけられなかったからである」(ヘブル4:6)と。「文字は人を殺し、霊は人を生かす。(IIコリ3:6) 又「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである」(ロマ8:6)いずれも霊と肉の問題です。両者は似て非なるもの、判別しにくいのです。サタンの巧妙さを見ます



ですから、パウロは「どうか、私達の栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」(エペソ1:17)と祈っています。福音の種は私達の心が豊かな霊的な土壌になるほどに応じて100倍、60倍、30倍となるとの神の約束です。



 まず主のみ顔の光を求め全身に主の光を浴びようではありませんか。太陽は朝ごとにのぼっています。曇りでも雨でもです。神の光も同様で困難や死の谷にあっても絶えず私達の上にあります。ダビデは「み顔をしもべの上に輝かせいつくしみをもってわたしをお救い下さい」(31:16)と祈りました。主の光は全身を照らし暖かさを与えるでしょう。それが主の御臨在です。その御臨在を味わうのが霊的信仰の一歩。「主は我が光、我が救いです。」

























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# by oume-akebono | 2018-04-22 23:44 | 週報メッセージ

ペテロの第一の手紙 (3章8~9節)      大谷唯信牧師



「・・・あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛を持ち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新たな課題、目標に心を向けておられる事と思います。わたし達の青梅あけぼのキリスト教会も、新年度の総会を前にして、一年の感謝と共に新たな祈りと信仰に立って歩んでおります。教会はここ数年、目覚ましい成長の兆しが見えるようになって参りました。これは皆様の何年にも亘る祈りと働きに、主が応え祝福して下さった恵みです。



教会は今、明るく元気で、とても活気に満ちています。問題がないわけではありません。しかし、一人ひとりがそれぞれの状況の中で、互いに仕え合う姿は、ごく自然で素晴らしく思います。昨年は、「日常を霊的生活に」をテーマとしての一年でしたが、日常の普段の生活で一人ひとりが信仰によって、地に足をつけ、自分自身の信仰生活、そして家族とのかかわり、教会とのかかわり、職場、また世の人々に対する思いを祈り合う事を課題として、ゆっくりですが取り組んで参りました。



今は、教会の核となるものが育って来ています。一人ひとりが成長しますと教会が成長して、教会が成長しますと、一人ひとりが成長します。成長するとは、霊的に深められ、教会全体に「御霊の実」としての、いのちが満たされてくることです。



昨年度は、受浸者が11名、その前の年が9名、その前の年も9名、この3年間で29名の方が受浸されています。これは教会全体が御霊によって成長している証拠でありましょう。上の御言葉は弟子のペテロの言葉です。あの弱かったペテロや弟子たちが強くされたのは、何だったのでしょう。今年度は、「信仰による霊的成長の幕明け」として初代教会に力を与えた「根拠」を求め、深めて参りましょう。























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# by oume-akebono | 2018-04-15 23:41 | 週報メッセージ

(第Ⅰコリント 1:18)      大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



十字架の言とは十字架の死と復活のイエスです。この死と復活が驚くべき力の根源です。ゴルゴダの十字架のまわりには祭司、律法学者をはじめ多くの人々が見ていました。全人類のための一度だけの歴史的出来事が起きていたのですが彼らにとっては全く無意味な馬鹿馬鹿しい出来事でした。パウロもそのように受け取っていた一人だったのです。彼は自ら述べています。「わたしはヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と断言する程のしたたかな自信家でした。



しかしイエスの愛の光に包まれて自分と正直に向き合った時「わたしは自分の欲する事は行なわず、かえって自分の憎む事をしている。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない。わたしは欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。ならば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である」と罪にとりこにされている自分に絶望したのです。



これは現代人も同じで、ここまで正直に自分と向き合い現実を絶望するまで取り組むとは実に勇気のある人です。人間共通の罪の原点に逃げずに取り組んでいるのですから。「わたしは何と言うみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから救ってくれるのだろうか」と主を信じて救われたのです。その瞬間、「神は感謝すべきかな」と讃美に変ったのです。彼は十字架を教理として、自分を生かすために信じたのではありません。罪の自分に絶望しキリストの十字架の死の中に自分を投げ出したのです。イエスの十字架の叫びの中に身を投じたのです。キリストと共に死んだ。そうしたらキリストと共に生きていた。「死は勝利に吞まれてしまった」の信仰宣言に至ったのです。



























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# by oume-akebono | 2018-04-08 15:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)      大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」



 先日、久しぶりの方からお電話をいただいた。「今、どこからですか?」「鹿児島です」。幼稚園教育のエキスパートである先生は日夜、全国で研修、講演で走りまわっておられる。「大坂です」「北海道です」と。いつ家に帰られるのかと思うほどだけに「お体にはお気をつけてください」と言う事になる。すると「実は昨年の暮れに脳梗塞をやりまして・・・」であった。「手のしびれが少し残るだけで軽く済みました。お陰でネ!」と続く「これからは食事・睡眠・適度な運動、仕事等すべてについて今の自分に何が一番大切なのかを身にしみて考え取り組んでいます」との事。「今までもわかってはいたんですけど、わかっていなかったんですねー」



 もう一般論ではない。言っている内容は当たり前の事であり誰もが知っている事だ。しかし今の彼にとっては常識論でも概念でもない。すべて自分の固有の出来事である。ここまで中々わからないのだ。今ここで生きているのは、現実の二度とない今と言う瞬間の自分固有の出来事なのに、一般常識の概念で生きていたのです。



 信仰()の領域も同じです。知識も考える事も学ぶ事も大切です。しかしそれが一般の知的概念として捕らえただけでその実体には触れていない、即ち、絵に描いた餅になっているのに気づかない。だから「文字は人を殺し」と聖書は語るのです。



 御言葉の「まず」とは常に最優先。神の国と神の義とは宇宙も自分をも越えた神としか言いようのない大いなる絶対の力と支配です。神の義とは同じく絶対の義、間違いも汚れもない完全な正しさです。求めるとは絶えずそれを信じ続ける事です。文句、不平、失望、疑う事なく求める。そうすれば得られる神の法則です。人は何故疑い争うのか。自分の知識に立とうとしているからです。人には主の復活は大きなつまずきです。敢えて神は「つまずきの石」を置かれたのでした。知識ではなく信仰に立たせるためなのです。


























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# by oume-akebono | 2018-04-01 15:23 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 8章8節)    大谷唯信牧師



「主よ、お言葉を下さい。そうすれば 僕はなおります。」



何という確信でありましょう。今、私達にはさらにこのような信仰が必要なのではないでしょうか。彼は主のお言葉には無条件で従う。普通なら当然起きてくる疑問や理屈は、突き抜けて全く問題にせず、喜びと確信をもって「主よ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とすでに目の前に実体化しています。クリスチャンでもなくイエスの弟子でもないのに。



 一方、弟子のトマスは仲間に「今、復活のイエスに出会った」と言われると、その場にいなかった彼は声を荒げて「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘のあとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきの下にさし入れてみなければ、決して信じない」と全否定。イエスの弟子でありイエスを愛していたのにです。



 百卒長とイエスの弟子トマスとどちらがイエスを信じる信仰に立っていたのでしょう。勿論、百卒長です。イエスは「これを聞いて非常に感心され、イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と言われるほどでした。そして百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」。するとちょうどその時に、僕はいやされたと聖書は告げています。



 この両者から何が学べるでしょう。まず百卒長はローマの軍人です。この世の権力の象徴ローマ皇帝に仕える軍人でした。命令の言葉には命をかけての絶対服従がその務めです。神を知らずローマ皇帝を神として命をかけての捨て身の生き方は「自分を捨て自分の十字架を負って我に従え」と言われる信仰による服従と重なる面があります。これがイエスと結びついたとき、驚くほどの信仰の器となる可能性が見えます。一方、弟子であっても肝心な時にそこに居なかったトマスは、心はかたくなに不信仰になっていくのです。後の者が先となり、先の者が後になりました。私達は油断してはなりません。信仰の泉は普段の教会の交わりの中にあることを覚えてください。教会での交わりはイエスとの交わりそのものです。
























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# by oume-akebono | 2018-03-25 17:25 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 20章29節)       大谷唯信牧師



「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」



信仰による恵みは「見ないで信ずる者」が手にします。アダムがサタンにそそのかされて食べてはいけない「知識の実」を食べて以来、人間は自分の目で見て、手で触って確実な証拠を取ったものしか信じない習性が心深く刻まれているようです。この世の学びや人生経験、知識が増すごとに自分の考え、自分の納得できないものは受け入れにくくなるものです。



トマスは他の弟子たちから復活の主に「お目にかかった」と聞かされると「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れみなければ、決して信じない」と断言したのです。これがこの世の普通の人です。常識のある堅実な人でありましょう。パウロも自分に対して絶対的な自信と確信を持ち自分の正しさに沿って生きていました。



しかしキリストに出会って心の目が開かれたのです。自分がいかに小さく不完全な罪深いものであるかに気づかされたのです。自分を超越した神の命の領域から自分を内面的に見る目が開かれたからでした。人生のあらゆる真理が現実から見えるようになったのです。今までの自分の誇り、数々の栄光その輝かしい業績も色あせたもの、まさにゴミのように見えたのです。全てを超越する真実のいのちを得たからでした。



どういう事でしょうか。パウロは言います。「わたしは信仰によって義とされキリストによって、神に対して平和を得ている」(ロマ5:1)「神との平和」です。現代人にはこれが無いのです。彼はどんな逆境の中でも「希望を持って喜んでいる。患難をも喜んでいる。なぜなら患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、それは失望に終わる事がないからだ」とすべてを感謝のできる人になりました。「神との平和」の中に生きたからでした。その秘訣は、まず神にあなたの心を開く事にあります。全開にして下さい。意識すれば誰にでも出来ます。日々の出発点といたしましょう。























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# by oume-akebono | 2018-03-18 17:19 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10~11節)  大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」



 私たちの教会が霊の命に目覚め、さらなる恵みを受けてくると、サタンは巧妙に働きかけ、主の霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)によってもっともらしい理由の元に互いに争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂させようとします。さらに霊的な事柄に於いても競争させ比べ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを秘かに起こさせてきます。また、教会一致、福音宣教を願うその中にも肉の思いを秘かに起こさせようともします。何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現しません。自分の存在を認めさせないようにします。彼にとっては、その方が働きやすいからです。そしてまた、神をも信じないように働きかけます。互いに相手の間違いを原因として争わせるためです。今や世界中がこの手に踊らされ、しかも自らは賢く正しいと思わせるのです。



 私達も気を付けましょう。「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべきこういとがある。」(ヤコブ3:14-16)のです。



 あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えましょう。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)とあります。



 サタンは教会の群れからも離させようとします。群れから離れればサタンは簡単に信仰をも失わせ自分の都合のよい信仰に誘い込みます。礼拝、祈りを奪い教会から離れさせます。油断することなく、教会にしっかりつながり、神の約束を信じ、感謝しつつ信仰の祈りを捧げて参りましょう。




























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# by oume-akebono | 2018-03-11 18:49

(ヨハネの第一の手紙 4章15節)   大谷唯信牧師



「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」



 神は人をご自身に似せて、霊的な存在として造られました。イエスはぶどうの木とその枝に例えて「わたしにつながっているなら、豊かに実を結ぶ」と語られました。それは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という御霊の実が豊かに実るとの神の約束です。これはぶどうの木から流れてくる命ですから、自分の努力ではなく上からの賜物です。



 しかし神を信じない人は、自分の肉(エゴ)の働きで頑張るしかありません。その肉の働きの根は「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」(ガラテヤ人への手紙 520)であり、本質は罪であるとしています。この世のほとんどの人が、この肉の働きで困っています。「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(ガラテヤ人への手紙515)と聖書は語っています。肉は闇であり滅びです。



 私たちは神の導きによりイエスの福音に触れ救われました。教会も私たちも共に主の交わりの中で育てられ、日々感謝に溢れた生活をしています。これからは一人ひとりが御言葉からメッセージを聞き取り、主にお応えしていく事が大切なのではないでしょうか。次の御言葉からどのようなメッセージを受け取りますか。「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである」(ガラテヤ人への手紙513-14



 先週学んだように、愛するとは、相手にあなたの心を開く事です。第一は神に心を開き、全開する。意識し、常に吟味しつつ全開するのです。すると他者に対しても、苦手と思える人にも心が開いて来るでしょう。さらに、これらいっさいのものの上に、愛を加える(コロサイ人への手紙314)のです。全員で取り組みましょう。教会に愛が満ち満ちてくると、どのような教会になるのでしょう。想像してみて下さい。それは、既に始まっています。


































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# by oume-akebono | 2018-03-04 17:43

(マタイによる福音書 22章35~40節)   大谷唯信牧師



「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な第一のいましめである。第二も同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」



愛するとは心を開くこと。「まず“神”に心を開きない。全開です」これが全ての基本。



律法学者がイエスを試そう思って「律法の中では何が一番大切なのですか」と質問しました。実に良い質問をしてくれました。おかげで膨大な律法を端的に普遍的な本質を二点に絞り、しかも具体的な取り組みの行動、及びどこまでの深さ、高さにまで目指すのか目標をも示されました。学者達はその真意を汲み取る事もせず、「では、あなたの隣り人とは誰ですか」等と最もらしい問いをしてきたのです。



隣り人を本当に愛したと思って問うのは良いことでしょう。彼らは「自分の立場を弁護しようと思って」であり「イエスを試そうと思って」でありました。イエスは愛し合う基本を教えておられたのですが、その学者達の心には愛の心になろうとしている動きが見えるでしょうか。その真逆ですね。正に議論のための議論、真実の実体を求めるのではなく自分の主張、弁護の議論です。



しかしイエスはこの議論に巻き込まれませんでした。「よきサマリヤ人」の例話を出し、「強盗に襲われた人の隣り人になったのは誰と思うか」と逆に質問したのです。そんな事は当然わかっている事ですから、彼らは勿論正解を出しました。ところがその時すぐにイエスは言われたのです「あなたも行って同じようにしなさい」言われた彼らはどうしたでしょう。おそらく不愉快に沈黙するしかなかったでしょう。もうやる事がないのです。議論以外にはやる事がないのです。彼らの姿に私達現代教会の姿がそのまま見えて来ないでしょうか。イエスは社会平和や教会論、宣教論を論じているのではありません。



「まず、神に心を開け、

全開だ!

 これが全ての基本」



これは、新しい人生、成長する教会への入口です。

































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# by oume-akebono | 2018-02-25 16:35

(テモテへの第二の手紙 3章16~17節)     大谷唯信牧師



「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」



聖書は人の創作によってではなく、神の選ばれた預言者、王、政治家、学者、農夫、羊飼い等の約40人の者によって前1400年~後200年頃の期間にそれぞれの地域と場所とその状況下で神の霊に導かれ書かれたものです。旧約はイスラエルの歴史の現実の出来事を中心に、新約は神の子イエス・キリストの働きと御言葉を中心に、詩篇はキリストの十字架とよみがえりの出来事を通して与えられた全人類の救い、福音が世界中に拡がるため教会を誕生させこれに一切を託された記録、その様子が使徒行伝に聖霊降臨ペンテコステの様子にそのまま記されているわけです。上からの一方的な聖霊の注ぎによって弟子達を始め、多くの人々、又、キリストの迫害者として一番恐れられていたパウロまでが回心し伝道者の器とされ、世界の福音の拡がる基礎となる宣教と教会の設立を各地に行ったのでした。これらすべて神の聖霊による導きであった事を聖書は伝えています


今日、私達が現在、青梅あけぼのキリスト教会に導かれましたのも、初代教会と同じく上からの神の導きでなくて何でありましょう。



もしこの世に聖書がなかったならばどのようにして神を知ったでしょうか。他の諸宗教のように人間の知恵、知識で想像した神を祀り上げ、自らを教祖と自任したりの偶像礼拝になるしかなかったでしょう。聖書があるから神を知りイエスを知り、聖霊の働きと教会に出会ったのです。神は全人類を救うため、イスラエルを用い預言者を用い、今は教会を用いています。教会はキリストの体です。私達はキリストに選ばれたキリストの体の肢体です。共にキリストの命に授かっているのです。何のためでしょうか。今度は私達がキリストの証人として世に立つためです。





































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# by oume-akebono | 2018-02-18 17:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 3章14節)        大谷唯信牧師



「神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。」



現在、私達の教会は沢山の恵みを受けております。皆様方の正直な祈りと信仰に神は応えて下さっておられます。心から感謝の祈りと讃美を捧げましょう。そういうこともあって、さらに私たちが何を求め、どのように歩んだらよいのかを知るため、祈祷会では再度、使徒行伝を読むことにしました。弟子達の、聖霊によって歩むその信仰姿勢に触れるためです。



 初代教会の弟子達とその一団は決して名のある人達ばかりではありませんでした。有能な指導力のある人達でもありませんでした。では、何故あのような目覚ましい働きと多くの実を結ぶことになったのでしょうか。当時の時代背景、その状況を見ても決して伝道に恵まれているとは思えません。それどころか最悪です。それに比べ今の私たちの時代はどうでしょう。戦前、戦中のような迫害も特高警察の厳しい取り締まりもなく、宗教も言論も保証され生活も豊かで自由です。



 しかし、何不自由のない豊かな生活になるほど、次の課題が足下にあることが分かります。イエスがラオデキヤの教会に語っている御言葉から私達にも当然起こってくる問題を明確にしました。「あなたは冷たくもなく、熱くもない。なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録315-17)と言われたのです。



 「人の四つの領域」で見るならば、④の霊以外の三つは肉の働き(ガラテヤ519-21)の領域です。人は何故争うのでしょう。肉の働きになってしまうのです。御言葉は「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ロ-86)と語っています。

 実は②と④は本来、神の愛に満たされた心で一つのものでした。罪の中に霊が閉じ込められているのです。私たちが生きるのに一番大切なことは、聖霊の導きを信じ④に聖霊を受け入れ、聖霊によって祈り、聖霊によって御言葉を味わい従うのです。そうすれば三つの領域の霊的成長が始まるのです。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  






























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# by oume-akebono | 2018-02-11 19:22 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)        大谷唯信牧師



「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」



信仰生活で日々大切なことは「肉の働き」への対処の仕方です。主は聖霊を助け主として与え、導いて下さいます。「それが来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」と言われました。開くとは「自らを責めさせる」の意味です。そうなればこの世はリバイバルでしょう。しかし現実としては、その前に自分の肉の働きに目が開かれて心が痛み、救われたはずなのに以前よりもっとひどく肉の働きの罪が自分の中にまだまだあることを発見し、何とかそれを取り除こうと戦い、敗北し、惨めな思いを経験する。そんなことはないでしょうか。多くのクリスチャンが無残にも敗れ、敗北感を心に秘め、確信を失っているのを見ます。



 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)



 それなのに、なっていない自分を見て焦るのです。人の四つの領域を思い出して下さい(1月14日、21日参照)。①②③はすべて肉なのです。④の魂()の領域に、信仰によってキリストが新しい命となって入って下さいました。国籍は天に移され、神の子とされたのです。これは自分の存在の土台ですから、自分の存在そのものが天に移され、新しくされたのです。基準が心ではなく霊に移りましたから、心の肉が明確に見えるのです。



 肉の働きが見えるのは、霊の命に立っているからです。聖書中の人物でアブラハムからキリストの弟子達まで、肉の働きのなかった者はほとんどいません。霊が成長し深められるほど、肉の働きがさらに分かります。肉の働きがなくなったらどうなりますか。すべてに満足し信仰が駄目になり、黙示録3:17のようになります。肉の働きを嘆いて自分で戦うとこれも肉の働きとなります。Ⅰペテロ2:1のように十字架のもとに捨てる信仰(意識)をもつのです。罪の発見は成長の課題であり、恵みです。喜んで感謝して捨てる。これがディボ―ションとなります。












































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# by oume-akebono | 2018-02-04 19:14 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 6章7~8節)       大谷唯信牧師



「人は自分のまいたものを刈り取るようになる。即ち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」



私達、あけぼのキリスト教会は現在、神のあわれみと恵みによって大きな霊的な祝福が与えられています。「わたしの名によって二人または三人が、集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、即ち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)と主は言われました。



私達教会が祝福を受け神の御臨在に満ちた礼拝が与えられているのは、教会の中にこれらの御言葉を祈り実践しておられる「二人または三人」の方がおられると言う事です。何と感謝でしょうか。教会につながり祈りを共にして下さる方、「二人または三人」の方々の御陰で「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)と主は粒の小さな信仰を喜ばれる方です。その喜びが私達教会全体の恵みとして与えられているのです。



人ひとりの小さな働きが主に捧げられていく時、大きな恵みとして神は臨んで下さいます。「わたしの名によって集まる二人または三人」とは教会の事です。私達の働きが、決してわたし一人の個人プレーではなく、たとえ一人で行動している時も、常に教会の出来事、主と共にある出来事としての信仰(意識)に立つ時祝福されるのです。この二人、三人が段々と10人、20人…やがて全員になる事を主は願っています。



働きは一人ひとり異なるでしょう。大きい小さいもあるでしょう。大切な事は私達の生活のすべてが心を尽くして主を愛する心でされる事です。「あなた方のからだを聖なる供え物として献げよ。それが霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。こうして先週までお話しした第四の霊の領域が深められ全体が霊的に成長するのです。互いのために祈り合いましょう。




























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# by oume-akebono | 2018-01-28 16:00 | 週報メッセージ