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(ヨハネによる福音書 4章23ー24節)  大谷唯信牧師



「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととを持って礼拝すべきである」



礼拝から力を受ける秘訣をイェスは語られた。「霊とまこととを持って」と。人間の霊は神の霊を受けとめる事の出来る唯一の領域であり、人間の最も奥深く、神に似せて造られた最も気高い部分でもある。肉体は滅びても永遠に存続する部分なのだ。これはその人が気づこうと気付くまいと関係なく神がすべての人に与えて下さっておられる霊であり中心軸となるものである。



礼拝はこの霊と神の霊とが出会う場である。「まこと」とは神の真実の前に自分の心が低くされ、「無」の境地なる程よい。それは十字架を前にしてのゲッセマネでのイェスの祈りに見られる。「わたしの思いではなくみこころのままに」(マタイ26:39)と言う全託の姿勢である。自分の思いを押し通すのではない。自分の栄光を捨てて、主の御名を讃美し、主の御心を聞き、それに従う献身の場が礼拝になる。ペテロの失敗は自分の思いで従ったところにある。十字架に向かうイェスを愛するが余り、「そんな事あるはずがございません」と叫びイェスを脇へ引き寄せた。イェスは「ありがとう」と言ったのだろうか。早ではなかった。「サタンよ!退け、あなたは神の事を思わないで人の事を思っている(マタイ16:23)。実に厳しい叱責であった。



即ち正しい源に立っていなかったのである。どんなに暖かい言葉でも良き奉仕であったとしても、人の思いに立っていては間違った源である。主のために奉仕するならば、人の思いから抜け出て、神の思いに入らなければならない。そのためには内側の霊的感性によって正しい源に立つべきである。














# by oume-akebono | 2020-09-20 09:17 | 週報メッセージ

みことばの光

コロナウィルスの影響で教会の集会はお休みが続いていますが、わたしたち「あけぼの教会」は、それぞれがそれぞれの場所で自分にできること、主に示されたことをチャレンジしています。日々感じている主の愛と恵みを賛美(自作の曲もありました!)に乗せて歌って下さった兄弟姉妹や、証しを分かち合って下さった兄弟姉妹…、毎週主日に顔を合わせて兄弟姉妹と交わることが楽しみであり喜びであった私達にとってそれらは、あけぼのファミリーのメールにのせられてお互いの喜びや励ましとなっています!
そのなかのひとつ、K兄は、会えなくなった教会学校の中高生にオリジナルの御言葉のカードを配信しています。
今日は、それを一挙に分かち合いたいと思います!


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# by oume-akebono | 2020-09-20 00:44 | 教会あれこれ♪

主日礼拝について

主の御名を讃えます。

新型コロナウィルス感染拡大に伴い、青梅あけぼのキリスト教会ではインターネットを通じて主日礼拝のビデオメッセージを配信しておりますが、9月20日の主日より、礼拝のライブ配信を開始致します。
ライブ配信は、従来の第二礼拝(午前11時~)の時間に配信され、礼拝堂でも礼拝(視聴)に参加できるようになります。

主日礼拝の視聴は、次の三通りの方法になります。

①午前11時からインターネットでリアルタイムで視聴
②午前11時から礼拝堂でプロジェクターによる視聴礼拝に参加
③午後以降に録画された礼拝をインターネットで視聴
   (最新のメッセージのみを青梅あけぼのキリスト教会のホームページにて公開)

なお、①の方法で礼拝に参加される場合、Zoom アプリケーションでの接続が必要になり、教会からの招待メールに従って接続していただきます。また、礼拝堂での視聴礼拝は、参加者のソーシャルディスタンスを確保するため、予め座席の予約をお願いしております。

その他の諸集会につきましては、引き続き感染拡大防止のため休止しております。
みなさまのご理解と御協力、そして新型コロナウィルスの一日も早い終息へのお祈りをお願い致します。

# by oume-akebono | 2020-09-19 23:28 | お知らせ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)      大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



教会は魂が救われ永遠の命が与えられるだけの場ではない。人間としての人間性、人格が常に成長し、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(エペソ4:15)場でもある。



この世に於いても人間的成長については以前より関心が持たれているように思う。それは教育的と言うより社会的な課題にさえなって来ているのではなかろうか。多くの人々は社会的問題、教育的問題、学校の有り方、家族の有り方等に解決の道を求めようとするが、どんなに研究され議論されてもその流れは変るものではない。肉は肉だからである。どんなに磨いてもガラスはガラス、決してダイヤモンドにはならない。エゴはどんなに着飾ってもやはりエゴで変わらないのである。



しかし、イエスの十字架の力はエゴを砕き、私達の内面を神のいのちに代えて下さるのである。イエスを信じる信仰に神のいのちが注がれるからである。もし、イエスの十字架を私の人生への出来事として信じ受け入れるなら、誰もが神のいのちが注がれて新しくなる事ができるのだ。



もし、これを本当に必要としているのなら、自分の常識では受け入れられないと思っても思い切って信じて見るべきであろう。自分の殻を捨て新しい自分にして下さいと神に本気で求めるなら、思いもよらない時に、「あっ、これだ!」と本当に信じられる事が起るのである。チャレンジしてみてはどうだろう。















# by oume-akebono | 2020-09-13 15:45 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 13章16節)     大谷唯信牧師



「御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように」



イエスを主として信じ受け入れ、それを臆せず大胆に告白、宣言するとき、その瞬間から御聖霊はその人の中に注がれ、死んでいた霊が息を吹き返し、神の命を持つ者とされるのである。



御聖霊は私たちの心の扉をたたき信じ従うように密かに促す。心の奥底に密かであるから、うっかりすると本人も長い事気づかない場合もある。気づいたとしても自分の単なる思い込みではないかと脇に置いてしまう事もある。又、自信がなかったり、諸事情の心配等で決断がつかなかったりもする。



しかし全ての状況を御存知の「万事を益とされる神」の導きであるのだ。いろいろな不安や心配があるだろうが、イエスの母マリアのように「私は主のはしためです、お言葉どおりこの身になりますように」と一歩踏み出す事が、肉によらず霊によって歩む事になるのである。この一歩はとても重大で自分の殻を破る一歩にもなる。「肉の思いは死であるが霊の思いは平安である」(ロマ8:6)を身をもって体験する事になるであろう。



同じ求めるならばイエスを信じ御聖霊の導きの中で求める方が本物になる。神の命を持ちながら求めるからである。聖書は「御霊によって内なる人を強く」と語っているが、「内なる人」とは私の中にある霊である。あなたは常に霊によって歩んでいるだろうか。これを自覚している人は意外と少ない。それではなかなか成長につながらず、空回りしてしまうのである。しかし、もし、自分の霊を自覚しつつ日々、霊によって歩む事を神に祈り求めるならば驚くほど成長するのである。












# by oume-akebono | 2020-09-06 13:52 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章5節)      大谷唯信牧師



「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」



聖霊はどのような形で私達に働きかけて来るのだろうか。それは礼拝や聖書の学び、教会での交わりを通して、私達の心の奥に罪と義と裁きについて促し目を開かせようとされる。すると慰めであった御言葉が段々自分の心を責めてくるようになり重く辛くなったりもしてくる。



これこそ十字架に重荷をおろして救いに導こうとされる聖霊の働きである。イエスを信じ罪から解放させ、永遠の命を与えようとされる神御自身の働きなのだ。ここで多くの人が、自分なりの努力で自己改善し、御言葉を学びわかろうとする。結局わからず疲れ果て退いてしまう。



ここで大切なのは自分の力で解決しわかろうとするのではなくて、信ずること、イエスを救い主として受け入れる事なのである。「信じます」との一言の告白、一つの決断が、たとえからし種一粒の小さなものであっても、その瞬間に神の永遠の命を受ける事になる。



これは神の恵みであって、唯信ずる小さな信仰によって誰でも永遠の命が得られるのである。しかもこの永遠の命が信仰をさらに成長させ、目を開き、神やイエスについて知らせるのである。永遠の命がなければ、どんなに聖書や宗教を学んでも神を知る事も自分の霊を生かす事も絶対に出来ない。



まず小さな信仰で永遠の命を受ける事が最優先なのだ。「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない」(ヨハネによる福音書6:63)霊は霊によって学び、その後の成長は神がなさるのである。

















# by oume-akebono | 2020-08-30 12:57 | 週報メッセージ

(箴言 4章23節)             大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



主は「心を守れ」と言われる。「心」と言うとわたし達は真心、豊かな心、また心を尽して等と美しい純粋なイメージが出てくるものである。確かに誰もがそのような美しいものを求めていると思う。たとえ少し足りなくてもある程度の温かい心、真実な心は持っていると自負している。



ところがそれがそもそもの間違いなのだ。サタンからの落とし穴である。人生を狂わせ、世の中を狂わせている元凶なのだ。主は「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われた。即ち、日々自分を捨て、日々与えられてくる自分の十字架を負って主に従う、そこに命の泉は流れ、その結果わたし達は命の泉を得たのではないか。これは自分を捨て自分の十字架を負った結果与えられた命である。



それがいつのまにか前提になりそれを守り維持しようと自分の中で固まってはいないだろうか。知識は大切である。しかし「知識は人を驕らせ、文字は人を殺し」と命のないものに変化してしまう事に気をつけねばならないのだ。サタンはこの世に神の言葉を疑わせ否定し、知識をアダム達に取らせた事は未だにわたし達にも向けられているのである。



パウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの経験をしたことは、無駄であったのか」(ガラテヤ3:3-4)と語っている。信仰による霊の出来事がいつの間にか知識による肉の出来事にすり替わっているのである。どんなに素晴らしかった出来事、感動であっても過去になるとしだいに死んだ文字になってしまう。知識、習慣、伝統、経験、すべて大切なものだ。それが死に体になるから気をつけねばならない。「油断することなく」である。今迄の経験、知識を生かすには、これに頼るのではなく日々自分を捨て、十字架を負い主に従うことである。信仰によって常に霊の命を吹き込むのである。














# by oume-akebono | 2020-08-23 12:59 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章24節)   大谷唯信牧師



「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」



ここにアダム以来の罪から全人類が解放され勝利の日々を送る事ができる道が示されている。アダムとは人間という事である。つまり人類最初の人間と言う事なのだ。よく「アダムが罪を犯したからと言って、どうして現代の私達がそれを負わなければならないのですか。私とは全然関係のない事でしょう」と言われる事がある。それは私達も人間である以上、親から生まれ、その親も親から生まれと辿っていくと最初の人間に辿りつく。



聖書はすべての人間はアダムから生まれ、その罪を本人は気づかなくともDNAとして受け継いでいると語っているのだ。その証拠に誰もが神を知らず、自己中心の心に支配されているではないか。これを聖書は「肉」と言い、法律にはかからないとしても神の前には罪なのである。



その肉の働きとは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである」(ガラテヤ5:1920)と述べている。どうであろう。あなたには関係ない事であろうか。今や現代社会はこの「肉の働き」で苦しんでいるのではなかろうか。



「義人はいない、ひとりもいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている」(ロマ3:1012)。しかし神は救いを与えて下さった。神の命によって御霊の実、「愛、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」を与えて下さるのである。イエスの十字架を信ずる者に与えられる神の恵みなのである。

















# by oume-akebono | 2020-08-16 18:05 | 週報メッセージ

8月9日 教会の原点

(マタイによる福音書 18章20節)    大谷唯信牧師



「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」



上の御言葉に「ふたりまたは三人」、「私の名によって」、「集まっている所」「わたしもその中にいる」とあるが、これこそ教会の立つ原点であり、同時に家庭や学校のクラス、その他あらゆる人のグループの原点となる教えである。



「集まって」とは単に物理的に集まっている事ではない。一人ひとりの人格が向き合い、互いに認め、理解し、受け容れ、尊敬し合い、愛に満ちた関係を日々新たに求め与え合う集いの事である。マルチン・ブーバーはこれを「我と汝」と言う人格的出会いと言いこれが究極的に深まってくると人間を超えた神との出会いにまで通じると述べた。



ところが、人間は人格的出会いである「我と汝」の関係から「我と物」との関係に移行しつつあると警鐘を鳴らした。今なら97年前である。「我と物」とは人格的関係ではなく、物との関係、即ち、物は自分の目的のためにあり、自分の必要な時にあればよいのであり、必要がなくなれば要らないのである。典型的な自己中心の関係でよいのである。



しかしその関係が人間との関係でも起きているとの警告であったのだ。ところがどうであろう。今や家庭も教育の場も、どこもかしこも人間としての関係が「我と物」との関係になっているのではなかろうか。教会も例外ではない。だから、イエスは「わたしの名によって」「わたしもその中にいる」と言われた。これが大前提なのである。イエスの名によって向き合うその中に主御自身が命となって御臨在して下さる。ここに生ける教会、生かされた私達となるのである。これを体得する時としよう。
















# by oume-akebono | 2020-08-09 16:10 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章12-13節)   大谷唯信牧師



「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し…」



教会の奉仕はキリストに仕える事になります。兄弟に仕える事も「それはわたしにした事である」とイエスが言われた如く、キリストに仕える事になります。仕えるとはキリストにつながる事であり、キリストとの交わりにある事です。私達のすべての出来事がイエスとの出来事、神との出来事、私達教会の出来事として受けとめる信仰が大切です。教会には単独行動はありません。すべてがキリストにつながり、一つの体としての命をいただいているのです。



私達はイエスにつながる事によって肉から霊に生まれ変り霊から霊へ深められていきます。肉の働きはどんなに有能であっても結局はガラテヤ5章に示されているように不品行、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ等を起します。私達は肉の働きに支配されないように祈り気をつけましょう。



そのためには自らの心に肉の働きがないかを吟味し日毎に十字架のイエスに出会って処理する事です。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」「肉の思いは死であるが霊の思いはいのちと平安である」。神が私達を整えて成長させて下さるのですから私達教会のすべての活動が御霊の実が豊かにみのるチャンスとして信仰をもってのぞみましょう。
















# by oume-akebono | 2020-08-02 15:16 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)   大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」  



救われた信仰の根拠は自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。いつの間にか自分を見て評価し自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。



パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。



そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し、「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は十字架のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と重なり叫んで神に自分の真黒な体を投げ込んだ。絶望の死の中へである。



少しして気づくと「私たちの主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。

 

 










# by oume-akebono | 2020-07-26 11:30 | 週報メッセージ

(ペテロの第一の手紙 5章7-9節)    大谷唯信牧師



「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい」



 人は誰でも心配事にぶつかると思いわずらうものである。すべては神の最善の御手に導かれていると信じながらも、つい心配事が目の前に出てくるとよくしたいがために思いわずらう事になる。



だから信仰によってその一切を神にゆだねよとペテロは語るのだ。それは、「サタンがほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている」からと言う。教会のため、人のためと良き働きをなすその中に実に巧みにサタンが入り込む現実をペテロは語っているのである。ペテロが語るからこそさらに意味が深い。何故ならかつて彼はイエスから「サタンよ、退け、あなたは神の事を思わないで人の事を思っている」と叱りつけられた人である。



しかしこれはペテロだけの事ではなく私たち主に従う者すべての姿を明確にされた言葉なのである。イエスはペテロを牧会されたのだ。牧会とは養い育てるための働きかけである。ペテロが主を裏切るに任せ自らが肉の人である自覚をさせた。肉は得意になり、裁き、苛立ちサタンに隙を与えるのだ。教会は常に攻められている。私達はどんな時にも気をつけねばならない。ペテロは言う「この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい」と。私達は神の事を思うつもりで人の事を思ってしまう者なのだ。だからイエスの牧会を謙虚に受ける者となろう。


# by oume-akebono | 2020-07-19 11:30 | 週報メッセージ

(箴言 17章3節)     大谷唯信牧師



「銀を試みるものはるつぼ、

 金を試みるものは炉、

人の心を試みるものは主である」。



 前向きに生きる第一歩は、まず神に向けて感謝する事である。



  今、問題をかかえ悩んでいるだろうか。

動きが取れないほどになっているだろうか。それならなおさら、神に今の状況を感謝する事をおすすめする。誰よりも主はあなたの今の状況を知り尽しておられるのだ。神は必ず最善に導いて下さると確信する事である。



神は御自分への信頼を裏切ることはない。求める以上のものを与えようとされている。

試練にあう時、思わずつぶやきが出やすいものだ。不安、疑いも出る。それは普通だ。



しかし、敢えて主にあって感謝を宣言してみよう。現状は変りなく嵐の海がどよめいていてもである。カラ元気でも良し、自信がなくても良し、唯、主を見上げて心配を主に委ね、主の最善として感謝の祈りをする事である。仕事のこと、子供のこと何でもよい。

礼拝、献金、奉仕によって自分の最善の真心を捧げつつ教会に仕えよう。主は愛す者を訓練し必ず豊かな実を与えられる。












# by oume-akebono | 2020-07-12 09:00 | 週報メッセージ

(ヨハネによる第一の手紙 5章1,5節)    大谷唯信牧師



「すべてイエスのキリストである事を信じる者は、(新しく)神から生まれた者である。・・・世に勝つものは誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」。



私達クリスチャンはこの世に対して常に勝利者として堂々と生きる事が出来る。だから確信を持って生きようではないか。

ところが、それがとても出来ないと思える時がある。あなただけではない。誰もが経験する事である。


原因は一つ。自分にしがみついているからだ。駄目な自分、弱い自分、自己中心な自分、罪深い自分、次々に出て来る。きりがない。私が砕かれた時は、自分の特に善きものも含めて存在そのものが罪のかたまりであり、手のひらも、鼻から出る息すらも、真黒く汚れているのが見え、身の毛のよ立つ程に裁きの恐れに身を震わせた時があった。



御聖霊の取り扱いを受けると「罪と義と裁きとについて世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)とは本当であった。ここ迄いかない人は少しづつ罪に気づかされるのでそういう自分に心を痛め、「何とかしなければ・・・・」と真面目な人ほど自分にしがみつく。だからどうにもならずその繰り返しとなる。



一体どうしたらよいのか。自分から目を離し、十字架のイエスを仰ぎ見るのだ。イエスだけを見よ。ペテロは「私は夜通し働きましたが何も取れませんでした」と現状を認めつつも「しかし、お言葉ですから・・・・」と網を打つ(ルカ5:5)。同じ網を打つのだが全てが違う。絶望の自分から目を離し、イエスの中での行動なのだ。彼が変わったわけではない。信仰による行動である。「古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)



私達あけぼの教会は信仰によって確信に生きる集団になろう。自分を手離しイエスを仰ぎ見つつ見言葉をしっかり握る。御聖霊がイエスの命となって私達を支えて下さる経験をしようではないか。













 


# by oume-akebono | 2020-07-05 10:30 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 18章25節)  大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



 「十字架の言」とは、神が私達を救うために与えて下さった十字架のイエス御自身の事である。「滅び行く者」とは十字架のイエスを信じない者を言う。


 何故信じることができないのだろう。自分の知恵によってわかろうとしているからである。聖書は「この世は、自分の知恵によっては神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。」と言う。では救われるためにはどうしたらよいのか。「そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救う事とされた」と言われる。これが神の方法なのだ。


 しかしこの世は知恵を求め、しるしを求める。自分なりに理解し納得したいのだ。ここは信仰に入るための最初のハードルであろう。自分が納得もできない事を、何故受け入れる事ができようか。真面目に、自分に正直に、誠意を尽くしてと思う程、できるわけないと思うのである。もし自分が納得もしないで受け入れるならば、自分に対しても相手に対しても不誠実であり、それこそ偽善であり誤魔化しではないかと思うのだ。


では納得して受け入れ、信じたとしよう。それは本当に相手を信じて受け入れたのであろうか。自分の納得したものを納得度に応じて受け入れ、信じただけではないか。とするならば、それは決して相手を信じたのではない。ただ自分の納得に、つまり自分にしがみついているだけである。自分を手放し相手を信頼し、自分を委ねている事にはならない。これは典型的なエゴである。人間関係に於いても真の人間関係は生まれないだろう。今やこの世は「自分なりの正しさ」「自分の納得」という檻の中のねずみのように輪をまわして走っているのだ。自分にとっては結構楽だからである。いつそこから出て来る冒険をするのだろうか。「自分を得ようとする者は失い自分を捨てる者は得るのである」




















# by oume-akebono | 2020-03-29 11:20 | 週報メッセージ