(マタイによる福音書 6章33節)     大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」



誰もが自分の人生がより豊かに、幸せになることを求めていると思う。しかし、神は私達以上に切実にそれを願っているのである。預言者イザヤを通して神は語られた。「わたしは子を養い育てた。しかし彼らはわたしにそむいた」(イザヤ1:2)。その結果「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない」(ローマ3:1617)と現在も変わらないこの世の姿を語っているのである。



そういう中にあってイエスは人間としての本来の在り方、その生き方を示された。それはその人の必要をも満たされる豊かな生き方として示されたのである。


しかし、この世の人から見ると不思議に見えるものであった。何故なら、それは人に対する事でも物に対する事でもなかったからである。「まず神の国と神の義とを求めよ」と神に対応する関係を整える事であった。神の国とは神の支配であり、今日では教会生活である。神の義とは自分の義、人間の義ではなくイエスの十字架によって与えられた義、即ち、十字架のイエスの事である。



これらを求め神の国との関係を深める事によって、必要なものはすべて与えられるとの霊的な法則を示されたのである。まずこれを実践し、霊的法則を体験し霊性を深めようではないか。教会生活のあらゆる出来事の中に霊性を深めるメッセージが隠されているのだ。無駄な事は何一つない。すべてがあなたに必要だから起きている出来事なのである。自分の一番奥深い霊で信仰によって受けとめよう。


















# by oume-akebono | 2019-01-13 13:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 12章25~27節)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、キリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ」



ここに私達の目指す教会を見る。信仰の出来事である。教会には人の数だけのタイプの方々がおられ、これらが一つになる事はまず出来るものではない。



しかし、キリストの教会では、もし私達が切に願い求めるならば出来るのである。それは組織ではなく、人の信念や理想でもなく、また人の主義、価値観でもない。それでは何か!これこそ御霊なるキリストの命によって得られる一致であり、あらゆる違いを超えて一つとされていく神の力、神の恵みなのである。



人は普通、意見の一致、理解、納得によって一つとなろうとする。人との関係だけである。これでは弱い。崩れやすいのだ。私達は、イエスを信ずる信仰によって湧き出る命の泉を持っているのである。井戸はそれぞれ違っても、地中深くでは同じ地下水でつながっている。互いに同じ命の水で生かされている。私に与えられている命が、相手の中にもある。この不思議を、パウロは「キリストのからだなる教会」と言った。これは教理、神学ではない。キリストの命の自然な営みを言ったのである。議論や研究で深まるものではなく、ただキリストを信ずる幼子のようなひたむきな信仰によって得られるのである。




















# by oume-akebono | 2019-01-06 14:03 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 3章21~22節)    大谷唯信牧師



「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」



私達教会がここ迄成長してきたのは神の導きであり、一人ひとりの祈りと奉仕への恵みである。しかしどうであろう。近頃、信仰生活がどこかマンネリ化している事はないだろうか。日々成長している新鮮さや今取り組んでいるものへのドキドキ感、主にあっての自分への張りのある期待感、解放感があるのだろうか。



人生全般にも言えることだが、マンネリ化は誰にでも起こり得る。信仰生活では特に起きやすい。いつの間にか状況に流され受け身になっている。取り組んでいることに慣れてしまって、可もなく不可もなく順調ではあるが何か物足りない。どうか自分でチェックして欲しい。生きているのは自分なのだから、「自分は今自分の心に納得した生き方になっているか」又、「自分はどう言う人間、また、クリスチャンになろうとしているのか」、即ち信仰の目標と課題を持つことだ。



同時に教会のメンバーなのだから「教会は今どんな状態なのか」、「自分はこの教会をどんな教会にしたいのか」「そのために、自分は何をしたら良いのか」等と自分個人の目標と教会全体の目標という二つの課題を捕らえて自分の役割を把握することは大切だ。そうすれば傍観者とはならず、すべての働きが意味ある新鮮なものになってくると思う。



ところが実際、諸教会の多くがそうなってはいない。無気力の中に漂っている感じである。何故だろうか。御言葉に帰ろう。信仰生活の基盤は神の義である。それは私達に対するキリストの十字架の血による絶対的な贖いによる赦しにある。パウロは「物わかりの悪いガラテヤ人よ、十字架につけられたキリストがあなたがたの目の前に描き出されたのに…」と嘆いている。十字架の出来事は過去ではなく「永遠の今」と言う今、現在の霊的出来事だ。あなたには、自分のために血と涙を流して叫んでいる十字架のイエスが見えるだろうか。思い描き、祈るのである。






















# by oume-akebono | 2018-12-02 17:48 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 3章25~26節)      大谷唯信牧師



「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。こうして神みみずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」



信仰に立つとは神の側に立つ事だ。肉から霊の領域にすでに移されている。



先日聖書の会である婦人に「あなたは神の側に立っていますか」と尋ねると少し考え遠慮がちに小さな声で「えー…、神の側に立つように努めてはいるのでですが、なかなか…です」との返事。信仰歴をお聞きすると10数年、教会でも率先して証しをし奉仕も積極的にこなして下さる中心メンバーの一人である。「あー、真面目に頑張っているのだなあ!」と受け取ったわたしは思わず「そのように感じているのですね。それはネー、わたしの問題です。わたしの牧会の仕方、御言葉の解き明かしに問題がどこかにあるのです」と新たな足もとからの宿題を与えられショックを感じての言葉であった。その婦人は「わたしの勘違いでした」と言って下さったが「あゝそうですか!」と言う訳にはいかない事で両者が取組まねばならない事と思った。



確かにわたし達日本人には謙譲の美徳と言う謙遜の常識的礼儀がある場合がある。普段手が出ないような上等な物でも「お口に合うかどうかわかりませんが…」とか「お口汚しでしょうが…」とか、又、「あなたは永年のクリスチャンだそうですね!」「いや永いのは年数ばかりで信仰はいいかげんでお恥ずかしい限りです」等々の会話は身に覚えはないだろうか。



自分に属するものや自分の事は謙遜して良いが自分に属さないものを謙遜するのは失礼な事である。信仰はどうであろうか。「信仰によって義とされる」「神の義とされるため」と言う神との関係がいつの間にか、私から見た「私と神との関係」即ち、私の信仰で得た義を私の力で支え保持しようとしてはいないだろうか。これは神の側から私達に対しての「神と私との関係」であり神からの賜物なのである。私達はただ神に感謝して受け取り確信を持って生きるべきであろう。






















# by oume-akebono | 2018-11-25 15:39 | 週報メッセージ

(箴言24:11)      大谷唯信牧師



「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え」



私達は福音のメッセージを聞く時にいつの間にか一つの文化講演を聞くのと同じように聞いてないだろうか。聖書の学び会も一般の読書会のような単なる文化会の一つのようになってないかと自らを問うてみる事は大切である。メッセージを行う者はなおさらのことだ。



私達青梅あけぼのキリスト教会は主の恵みによって育まれ、ある程度の形が少しではあるが見えるようになってきた。これは主の憐みである。私達は実に弱く未熟な者の集まりである。だからよいのだ。私達は弱く未熟であるが故に主は捕えて下さり、これを教会として下さったのだ。教会には神の命があり、救いがあり、私達の思いをはるかに超えている力がある。



教会は主が頭となって未熟で弱い私達を御自分の体とし、世に対する神の救いの遠大な御計画の実践を託されたのである。私達は神に選ばれたのである。さらにまだクリスチャンになっておられないあなたにも神の選びは向けられており、招かれている事を知ってほしい。神は全人類の救いのために私達やあなたを必要とされ、御自分の救いのプロジェクトのメンバーとして用いたいのである。



私達は教会をキリスト教的文化団体としてはならない。今やその分岐点にある。この世は神の光を失い闇につつまれ、人々は罪の滅びの海に投げ出されている事を知ろう。独り子イエスによって救いの御業はすでに成し遂げられている。イエスはノアの箱舟となって人々を招いておられる。「あなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5:11)この御言葉を受けとめる者は誰か。
















# by oume-akebono | 2018-11-18 16:35 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 1章1節)      大谷唯信牧師



「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」



わたし達クリスチャンはすでに神の側に召されて立っている者です。どう言う事でしょうか。わたしはわたしであってわたしではないのです。



パウロは自分の自己紹介の一番に自分の事をキリスト・イエスの僕、即ち奴隷と言ったのです。奴隷は言うまでもなく自分を中心に自分の思いのまま動くのではありません。自分の仕える御主人の手足となって忠実に仕える者です。常に自分の側ではなく御主人の側に立ち御主人の心、言葉を聞き、従う者です。この関係の中にいる限り御主人の僕としての身分も安全に保障され御主人の守りの中にいる訳です。「わたしにつながっていなさい。そうすればわたしはあなたがたとつながっていよう。その人は豊かに実を結ぶようになる」とキリストが保障して下さっているのです。



イエスの弟子達は同じ船の中にいながらも突然の嵐に驚き「主よ、助けて下さい。わたし達は死にそうです」と泣きついたのです。主は「何故こわがるのか。信仰の薄い者よ」と言いながら嵐を沈めて下さいました。ルカ八章の同じ記事では「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われています。弟子達は困難にぶつかると瞬間に神の側ではなく自分(肉)の側に立ってしまったのです。



信仰とは神の側に立ち続ける事です。箴言四章では「油断することなく自分の心を守れ」と言われています。どう言う事でしょう。わたしはわたしであってわたしではないのです。キリストの僕です。すべての事をわたしではなくキリストの名によって取り組むのが忠実な僕です。パウロは「今立っているこの恵みに信仰に立って導き入れられ、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる」と語り、さらに「患難をも喜んでいる」何故でしょう。患難を喜べる人はいません。しかしイエスの名によって患難を喜んで取り組む時、患難が忍耐を忍耐が練達を、練達が希望を生み出す事がわかったのです。「神の側に立つ」恵みです。




























# by oume-akebono | 2018-11-11 16:30 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 18章20節)   大谷唯信牧師



「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。



 このイエスの言葉こそ私たち教会の力の原点である。「集まって」とは単に物理的に集まっている事ではない。一人ひとりが心を開き、互いに向き合い、互いに認め、理解し、受け容れ、尊敬し合う…ここで注意すべきは「ふたりまたは三人」とは「私たち」の事だ、という事である。私たちが主の名によって集まる所には、主御自身が御臨在下さるという約束であり、それは私たちの主体性に委ねておられる事だ。実際にこの事を信仰で明確に意識していただろうか。信仰は常に「主と共に」の意識であるからだ。



 マルチン・ブーバーは人格的出会いを「我と汝」と言い、これが究極的に深まってくると、人間を超えた神との出会いにまで通じると述べた。しかし、人間はこの人格的な出会いを失い、「我とそれ(物)」との関係になっていく、と警鐘を鳴らした。85年も前である。「我とそれ」とは人格的関係ではなく、物との関係、即ち、物は自分の目的のためにあり、自分の必要な時に必要な形であればよく、必要がなくなれば要らない、という典型的な自己中心の考えである。しかも、その関係が人間との関係でも起きてくるとの警告であった。



 ところでどうであろう。今や家庭や教育の場も、どこもかしこも人格的関係ではなく、「我と物」との関係になっているのではなかろうか。先日の新聞(朝日1026日付)で昨年度の小中高のいじめは約414千件で過去最多と文科省が発表と報じている。特に小学生の増加幅が大との事である。



 この世にある以上、教会であっても油断できない。いつの間にかこの世の流れは巻き込んでいくからである。だからイエスは、「わたしの名によって集まるなら、わたしもその中にいる」と言われた。これが大前提なのだ。イエスの名によって向き合うその中に主御自身が御臨在くださり、いかなる時も「万事を益として下さる神」として私たちを導いて下さるのである。



















# by oume-akebono | 2018-11-04 18:27 | 週報メッセージ

(イザヤ書 43章 18~19節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道をもうけ、砂漠に川を流れさせる。」



パウロはパリサイ人であり、律法学者であり、神の言にはすべてに通じている者であったが、本当の意味は分からなかったのだ。その証拠にイエスを迫害する者になっていった。彼は神の律法に取り組み忠実であろうと、誰よりも真剣だったのである。それだけに苦しかったと思う。


でも何故本当の意味、聖書の語る真実が分からなかったのだろう。それは聖書の言葉を自分の知識で理解し、自分の頭で納得し、自分の力で行うことができるように努めていたからである。


彼は気付いたのだ。神の言葉は自分の知的理解で制限するのではなく、まず信じて受け入れ、そのまま味わってみる。そういう謙虚で素直な幼な子のような心が必要だと。その時その言葉を語られている御方の心の真意が伝わってきたのである。「自分なりに」とは聞こえは良いが、受け入れきれないものは拒絶し、反発し、批判し…と心は閉じてしまう。これでは自分以上のものは受け取れない事だ。成長とは自分の殻を破る時に起こる。するとパウロは実感した。「誰でもキリストにあるならば新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。



初代教会の「使徒信条」を記しておこう。


「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」



































# by oume-akebono | 2018-10-28 18:08 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 4章19節)      大谷唯信牧師



「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」



パウロはガラテヤの諸教会の不信仰を嘆いて語っているのだ。何が原因なのだろう。もう少しパウロの言葉を聞いてみよう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ3:1)と大変な剣幕である。「わたしは、ただこの一つの事を、聞いてみたい。」「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。」と激怒しているのである。パウロは多くの事を言っているのではない。「ただ、一つの事を…」と言っている。問題はこの一点なのである。



 これはわたし達にとっても他人事ではない。謙虚に自分の事、私たちの教会の事として受け取るべき事ではないだろうか。確かに私たちの教会は神の祝福を沢山受けている。先週の及川久・恵子夫妻の結婚式にも、わたし達の想いを超えた主の恵みを見た。正に奇跡の連続である。サタンが入り込むのは、こういう時なのだ。わたし達の思いを肉に引きずり込むのである。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。」とこれは叱咤激励である。ペテロも最後の晩餐の時、優位に立って忠誠を誓った直後の言動でイエスから「サタンよ退け、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り飛ばされている。いずれも肉と霊の問題なのだ。


わたし達はさらに肉を捨て霊に生きる事を主に祈り信仰によって歩もうではないか。御霊は御言葉を信じ従う信仰の中に働いて下さる。すでに主は救いを完成させ御霊の九つの実を私達に与えて下さっておられるのだ。肉を見たなら嘆くのではなく、感謝して主の十字架に捨てる事を覚えよう。


























# by oume-akebono | 2018-10-21 13:04 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章19節)    大谷唯信牧師



「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



私達は常に教会の成長を願っている。子供の成長と同じく教会は日毎に変化し成長していく。何故なら教会にはキリストの体としての神の命が注がれているからだ。つまり私達に神の命が注がれていると言う事である。神は愛である。「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)「彼によって私達を生きるようにして下さった」(Ⅰヨハネ4:9)



愛する愛も、生きる命も根拠は自分ではなく神でありキリストの十字架にあるのだ。世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きるのである。またどんなに善い事をしても愛しても自分が根拠であるからエゴを脱する事が出来ない。



人間を駄目にし不自由にしているのはこの自分の中にいるエゴなのである。しかし世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。自己実現は嬉しいものだ。喜びである。ところがどうだ、エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。これこそ悲劇ではないか。これほど本来の自分の立つべき所からズレてしまっているのだ。今の世の政治・経済・社会をこの観点から見るとあらゆる問題が、即ち国際問題から個人一人ひとり、夫婦親子の問題までこの本質からのズレが原因と見えてくるのではなかろうか。しかし私達は他者にある問題点は見事に見えるのだ。肝心な自分の中にあるエゴには目が向かない。「自分なり」の正しさの中にいるからだ。捨てるべき自分を良くも悪くもかかえ込んではいないだろうか。



もう一度初心に帰ろう。教会は得る所ではなく捨てる所なのだ。パウロは「わたしは何とみじめな人間か」と投げ捨てた瞬間、主の光の中にすでにいる事がわかった。神がまず私達を愛して下さっておられるからである。





























# by oume-akebono | 2018-10-14 13:12 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 3章16-17節)    大谷唯信牧師



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」



神がわたし達に賜った救いとその恵みは、わたし達の思い、考えをはるかに越えている霊的存在である。キリストの十字架の御業は単にわたし達を救って下さると言うだけではない。それは神の選びによってこれから神の示す道を歩ませるためのアブラハムの第一歩なのである。誰でも「からし種一粒」の小さな信仰から始まる。誰でも人は赤ちゃんとして生まれるではないか。一人として大人で生まれてくるものはいない。



しかし人はニコデモのような立派な学識を持ち指導者として尊敬される地位を得る者になってもイエスは彼に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われた。神の命の世界ではこの世の知恵、地位は全て関係がないのである。さらにイエスは「誰でも幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言っておられる。



これらは霊の世界の領域なのだ。霊の領域をこの世の知識の尺度で計ってわかるものではない。霊の領域は幼な子のように純粋で素直に認め受け入れる。実に最も単純な幼な子で良いのである。もし「わたしも信仰を持って歩みたい、救われたい」との願いがあるならそのように決断し一歩進めるべきであろう。何故ならそれは御聖霊があなたをノックしておられるからだ。聖霊の働きかけがなければ人はイエスに対しても、救いに対しても全くの無関心で気にもならないのが普通である。教会にまだ来られた事の無い人でもこれらに関心の心が動くならばすでに御聖霊は働いておられる。まして教会に来られているなら確実に御聖霊は「内なる声」として語りかけておられる。しかも「からし種一粒」の信仰から30倍、60倍、100倍となる生命の力を約束されている。この一粒で聖霊の住まわれる「神の宮」とされているのである。






















# by oume-akebono | 2018-10-07 14:25 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)      大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



救われた信仰の根拠は自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。いつの間にか自分を見て評価し自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。



パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。



そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は十字架のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と重なり叫んで神に自分の真黒な体を投げ込んだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。



ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。

























# by oume-akebono | 2018-09-30 14:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4章13節)         大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。…」



あの弱かったペテロが驚くほどの変身を遂げた。私はこのペテロの歩みを見る時、いつも慰められ、励まされる。肉の人から霊の人へ変えられていく経過を、共感しつつ見るからである。



いつも失敗してはイエスに叱られていた。常に熱心で思った事はすぐに口に出し行動する。良かれと思ってのことが、結果的には失敗となってしまう。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分だけはと忠誠心を心から誓ったりした。いつも全力投球なのだ。しかし、ユダと同じ裏切りをしてしまう。どうしてこうなってしまうのか。誰でも自分の人生は、一歩一歩自分の足で歩き、身をもって体験し、初めてその意味が分かってくるものである。事の善し悪しだけならば誰にでもわかるであろう。



73回目となる長崎原爆の日の平和記念式典に史上初めて国連事務総長が参加され、次のように語った。「2017年には核兵器の近代化等に1兆7千億ドル以上のお金が武器や軍隊のために使われた。今までの最高額であり、世界中の人道支援に必要な金額のおよそ80倍にもあたる」と。(2018.8.8.朝日)



この世は平和を求めてはいるが、人を殺す武器の力で互いを牽制し合う中でしか、話しも進められないのが現状である。ダビデは3千年も前に「王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。…見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」(詩篇3316-18)と述べている。



肉と霊の問題なのだ。イエスは霊の次元で語るのだが、ペテロは肉の次元でしかわからなかった。どれほど熱心でも「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ人への手紙85-6)ペテロはこれが分かったのだ。


























# by oume-akebono | 2018-09-23 13:00 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 3章7節)     大谷唯信牧師



「今日、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」



主のみ声を聞くにはどうしたらよいのだろう。自分の中に起きる思い、内なる声…どれが自分の思いでどれが神のみ声なのか。その判断は頭で考えても分からない。しかし、聖霊により頼みつつ聖書の御言葉を心で味わい、信じ、自分の心の中で確かなものと信ずることができるまで、確信に至るまで祈るのである。聖書はたくさん読み、流れの全体を知るのも大切であるが、それ以上に大切なのは自分の心に響いた御言葉、自分もそのようになりたいと思えた御言葉を選び、何回も何十回も心で繰り返し、それがその通りだと信じ確信に至るまで、自分の思いとなりきるまで祈り味わう。一つの御言葉によって主を仰ぎ主と共にあり、信ずる信仰によって御言葉が主のみ声であり自分の思いもそれと一つになるように、ご聖霊の助けを願いつつ信仰によって信じ祈るのである。



「聖書は神の約束」「聖書はわたしの信仰」と言い切っていくごとに肉から霊の領域に入り込み、神の臨在に包まれ、自分を見、この世を見る時、そのギャップ、ずれが見えてくる。それが世に対しての生ける証し、メッセージとなるのである。御言葉の霊的世界に深く入るほど語り伝えるべき言葉が湧いてくる。その言葉は霊によって生きた言葉となる。肉の中にあるまま霊のことを語っても、それは単なる知識、情報程度の知識や文字であり、魂を救う力とはならない。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)。パウロが信仰を通して神からの啓示を受けての神の言葉である。



求める者には誰にでも与えられる。それはイエス・キリストを信じることが入口である。信じるのは自分の意志で決めれば、今すぐでも新しい人生が始まる。自分で決めなければ何十年たっても始まらない。決めることだ。あとはご聖霊が内なる力、声となって、一生導いて共に歩んで下さるのである。



























# by oume-akebono | 2018-09-16 16:05 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 4章 11節)   大谷唯信牧師



「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。すれはいえすのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」



 「強く生きる」とは多くの人が求めているものの一つであろう。しかし得てして霊的ではなく肉的な強さを求め、結果的には自分を失う事になりかねない。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ86)



 パウロはイエスと出会い従い行く中で、次々と生きるいのちの法則を体験的に啓示を受けていくのである。「わたし達生きている者はイエスのために死に渡されている」と語る。もう自分を強くしようとはしない。否、弱い方がよい。自分は無価値な「土の器」に徹する。それは自分の生命を日々十字架に掛けて死に渡してしまう事。もはや、強いとか弱い、できる、できない、自分の都合がどうなのこうなの、信仰が弱くて…等々の次元ではない。そのままの自分をイエスと共にイエスの十字架に手渡してしまっているのである。「いつもイエスの死をこの身に負っている」の意識だ。それは「イエスのいのちがこの身に現れるため」であり、さらに「イエスのいのちが、わたし達の死ぬべき肉体に現れるため」と繰り返している。



 正にイエスの語られた「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」(マタイ1625)のイエスの「命の法則」を見るのである。



これらを実現させて下さるのは聖霊の導きにある。聖霊は十字架を通してのみ働く。肉は正しく力ある働きをしていても、やがてゴルゴダにさしかかると弱くなりついて来られなくなる。

肉の力では神の要求を満たすことはできない。弟子達も「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ2641)と言われてしまった。しかしこの弱さから、弱さに立ったところから新しい出発があるのだ。十字架の死に立っていることを新たにし、聖霊のキリストに従おうではないか。
























# by oume-akebono | 2018-09-09 13:30 | 週報メッセージ