【聖書箇所】コロサイ人への手紙2:12
「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」
救われた信仰の根拠は自分の中にではなく、キリストにあり、神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると、弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが、少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。
いつの間にか自分を見て評価し、自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く、自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は、彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると、道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。
そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んだ十字架のイエスが自分と重なり、神に自分の真黒な体を投げ込んだのだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。
ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり、恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためには、ローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。
大谷唯信牧師