人気ブログランキング |

(ローマ人への手紙 12章10-12節 )    大谷唯信牧師



「…互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」



 教会の成長と私達の成長は一つである。しかも成長は神から賜った生命によって神が成して下さるのである。これを受けるには私達が祈りの中で御言葉を実践し、一人一人が生活の中でこれを味わい、自分の体験としての証しを持つことであろう。「この御言葉は本当だった」と確信を持って言い切れるあなたになることだ。サタンの巧妙さに陥らないためである。



サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ、信仰を駄目にする事である。それにはまず喜びと祈りと感謝を奪うのが一番手っ取り早い。気をつけよう。とにかく祈るのだ。常に祈り、主と共にいる思いを持ち続けよう。祈りによって教会に仕えるものは決してつまずかない。御言葉による祈りには神の力が注がれ、困難や障害さえも神の恵みとして感謝に変えられる。



しかし、感謝のできない出来事にぶつかることも勿論あるだろう。その時こそ信仰によって神に感謝し、神の最善を信じ祈るのである。次に大切な事は霊に燃える事である。赤々と燃えるストーブは何と暖かく何と魅力的であろうか。私達はそのような自分、そして教会になろうではないか。すでに火種は灯され、霊の火は燃えているのだ。これを信仰によって受けとめ大切にしよう。



主の願っているように霊に燃え、主に仕えよう。今や私達が熱源となって互いに尊敬し合うのだ。誰に対してもいつくしみと尊敬の思いをあふれさせよう。受けるより与える者になるのだ。信仰を持って天に宝を積む者となろう。日々、御言葉を実践する者となれ。人からの報いを求めてはいけない。そうすれば神の時の中であなたの人生の流れが静かに、しかし確実に大きく変化していく。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈り続けようではないか。



























# by oume-akebono | 2019-02-24 14:00

(エペソ人への手紙 4章16節)     大谷唯信牧師



「キリストを基として全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである」



何と力強い御言葉であろうか。これは、私達がキリスト者としての成長と同時に教会の成長を語っているのである。この両者は決して分離する事はできない。教会なくしてキリスト者の成長はあり得ず、又、キリスト者なくして教会の成長はあり得ない。



何故なら両者はキリストにあって一つのものだからである。しかもキリストが頭であり、私達はそのからだであってその逆ではない。その命はキリストから流れ込んでくるのである。「わたしにつながっていなさい。そうすれば実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである」(ヨハネ15:5)



これはキリストによる御霊の命の働きについて示しているのだ。電源につなげば電流が流れるように教会につながっていれば御霊の命が注がれ「御霊の実」が豊かに結ばれる事になる。さらに「あなたがたが豊かに実を結び、そしてわたしの弟子となるならば、それによって、わたしの父は栄光をお受けになるであろう」(ヨハネ15:8) と主は語られる。



私達は父の栄光を現わす教会となる事を祈ろうではないか。御聖霊は私達の肉の働きに気づかせて下さる。互いに許しあい励まし合って仕え合うのである。「わたし達は、お互いに肢体なのであるから」(エペソ4:25)。サタンにつけ込まれないように御言葉に立つことにしよう。

























# by oume-akebono | 2019-02-17 15:14 | 週報メッセージ

(詩篇 23篇4節       大谷唯信牧師



「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。」



 聖書、特に詩篇を読むごとに新鮮な驚きがある。ダビデの絶対的な神への信頼姿勢である。どんな窮地に追い込まれようと、どんな逆境に立たされようと神への信頼はゆるぎなく絶対的な信頼として保持していくその姿勢である。嬉しくても悲しくても、強い時、弱い時、もう何もかも信じられなくなってしまった時、ますますダビデは神への信頼を絶対的なもの、生きている自分の命の大前提として位置づけていくその信仰には圧倒されるのである。



「まず自分の内側を整える」とはこう言う事なのだ。自分に今、信仰があるのか、どうか、自分は肉なのか霊なのかを自分に問うのではない。そんな事は何の役にも立たない。自分に不信仰、肉を見たならば直ちに自分から目を離して主を仰ぎ見る事が大切なのである。自分を整えてから主に従えとささやくのはサタンである。



のどが渇いたなら水を飲むではないか。「何故、のどが渇いたのか、渇くとはどういう事か?」等といつまでも議論をしているだろうか。「とは言っても水にもいろいろある・・・」と議論は際限がない。水は単純に飲む者であっても信仰となると議論ばかりを延々として一向に飲まない人や教会が増えている。しかも議論をして何か納得すると飲んだ気になってしまうから困るのである。サタンの思う壺だ。



ダビデは直ちに「主よ、わたしをあわれんで下さい。わたしは弱り衰えています。悩み苦しんでいます」と主を仰ぐ。これが「霊の思い」とされ真実な生き方に目が開かれる時なのである。


























# by oume-akebono | 2019-02-10 14:10 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 3章1節)   大谷唯信牧師



「…あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。…上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。」



 神は私たちが日々新しく造られる事を、願っておられる。神はそれがお出来になる御方である。しかし、神は一方的にそれをなす事はされない。私たちの協力を必要とされている。それは私たちの思う「思い」なのである。すべての行動は、行動を起こす前のこの「思い」から出て来るからである。私たちは常に変化する現実の中で、いろいろな思いが絶えず出て来る。ここで大切な事は、良きにつけ悪しきにつけ、その中のどの思いを選び取るかによって、自分の行動が全く違ってくるという事だ。



そこで御言葉は語るのである。「あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない」と。初めは「そう言われても、地上のものに心を引かれてしまう」との思いも出てくるだろう。だからこそ、それ以上に上にあるものを求め、上にあるもの、その時心の内に示されているものを思い続けるのだ。必要に応じて御言葉を味わい、集中して思い続ける。忙しく動き回るのでなく、心を静め御言葉に深く沈み込み、御言葉が自分の思いと一つになるまで思い続けるのである。



「信じなさい」「託しなさい」「愛しなさい」等の御言葉に接し、自分の課題として示されたならば、読み流してしまうのではなく、御言葉を通し自分の内面を深く吟味するのだ。足りないところを突き示されたならそれを直視し、自分ではどうにもならないと観念して、あの放蕩息子のように、「私はここで死のうとしている。父よ許してください。」と上を仰いで悔い改め、十字架の主にそのまま全託するのである。



主の前に砕かれることである。主に委ねて、主に従う決意を新たにした時、ご聖霊が助け満たし平安に変えて下さるのである。反省して自分で何とかするのではない。主の前で砕かれるのだ。自己破産して主に任せるのである。



























# by oume-akebono | 2019-02-03 17:06 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12章10-12節)     大谷唯信牧師



「…互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい。熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。」



 教会の成長と私達の成長は一つである。しかも成長は神から賜った生命によって神が成して下さるのである。これを受けるには私達が祈りの中で御言葉を実践し、一人一人が生活の中でこれを味わい、自分の体験としての証しを持つことであろう。「この御言葉は本当だった」と確信を持って言い切れるあなたになることだ。サタンの巧妙さに陥らないためである。



サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ、信仰を駄目にする事である。それにはまず喜びと祈りと感謝を奪うのが一番手っ取り早い。気をつけよう。とにかく祈るのだ。常に祈り、主と共にいる思いを持ち続けよう。祈りによって教会に仕えるものは決してつまずかない。御言葉による祈りには神の力が注がれ、国籍の違いや障害さえも神の恵みとして感謝に変えられる。



しかし、感謝のできない出来事にぶつかることも勿論あるだろう。その時こそ信仰によって神に感謝し、神の最善を信じ祈るのである。次に大切な事は霊に燃える事である。赤々と燃えるストーブは何と暖かく何と魅力的であろうか。私達はそのような自分、そして教会になろうではないか。すでに火種は灯され、霊の火は燃えているのだ。これを信仰によって受けとめ大切にしよう。



主の願っているように霊に燃え、主に仕えよう。今や私達が熱源となって互いに尊敬し合うのだ。誰に話してもいつくしみと尊敬の思いをあふれさせよう。受けるより与える者になるのだ。信仰を持って天に宝を積む者となろう。日々、御言葉を実践する者となれ。人からの報いを求めてはいけない。そうすれば神の時の中であなたの人生の流れが静かに、しかし確実に大きく変化していく。望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈り続けようではないか。






























# by oume-akebono | 2019-01-27 14:52 | 週報メッセージ

(ヨシュア記 1章8節)     大谷唯信牧師



「この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い‥‥」



私達は自分の中で思う「思い」をサタンに支配されてはならないのだ。サタンはエバを誘惑する時、心に働きかけたのではない。もう一歩深く「思い」に入り込んで来たのである。「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ」(3:6)とある。心はどんなに強くてもその中にある「思い」によってどうにでも動いてしまうのだ。心を過信してはならない。



神はヨシュアに「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共におるであろう。わたしはあなたを見放すことも、見捨てる事もしない。強く、また雄々しくあれ。主が共におられるゆえ、恐れてはならない、おののいてはならない」と約束され、その言葉を「昼も夜もそれを思い」と語っているのである。



サタンは常に私達の「思い」を支配しようと狙っている。サタンは実に狡猾だ。だから箴言4章では「油断する事なく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」と述べている。しかも「わたしの言葉を心の内に守れ、それは得る者の命であり、又、全身を健やかにする」と語っている。「思い」の中に御言葉を満たすのだ。御言葉に満ちた「思い」で心を支配させる事である。そうすれば必ず身も心も元気になり中心感覚が目覚めどんな時でも安定してくるのである。






















# by oume-akebono | 2019-01-20 15:48 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)     大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」



誰もが自分の人生がより豊かに、幸せになることを求めていると思う。しかし、神は私達以上に切実にそれを願っているのである。預言者イザヤを通して神は語られた。「わたしは子を養い育てた。しかし彼らはわたしにそむいた」(イザヤ1:2)。その結果「すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない」(ローマ3:1617)と現在も変わらないこの世の姿を語っているのである。



そういう中にあってイエスは人間としての本来の在り方、その生き方を示された。それはその人の必要をも満たされる豊かな生き方として示されたのである。


しかし、この世の人から見ると不思議に見えるものであった。何故なら、それは人に対する事でも物に対する事でもなかったからである。「まず神の国と神の義とを求めよ」と神に対応する関係を整える事であった。神の国とは神の支配であり、今日では教会生活である。神の義とは自分の義、人間の義ではなくイエスの十字架によって与えられた義、即ち、十字架のイエスの事である。



これらを求め神の国との関係を深める事によって、必要なものはすべて与えられるとの霊的な法則を示されたのである。まずこれを実践し、霊的法則を体験し霊性を深めようではないか。教会生活のあらゆる出来事の中に霊性を深めるメッセージが隠されているのだ。無駄な事は何一つない。すべてがあなたに必要だから起きている出来事なのである。自分の一番奥深い霊で信仰によって受けとめよう。


















# by oume-akebono | 2019-01-13 13:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 12章25~27節)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、キリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ」



ここに私達の目指す教会を見る。信仰の出来事である。教会には人の数だけのタイプの方々がおられ、これらが一つになる事はまず出来るものではない。



しかし、キリストの教会では、もし私達が切に願い求めるならば出来るのである。それは組織ではなく、人の信念や理想でもなく、また人の主義、価値観でもない。それでは何か!これこそ御霊なるキリストの命によって得られる一致であり、あらゆる違いを超えて一つとされていく神の力、神の恵みなのである。



人は普通、意見の一致、理解、納得によって一つとなろうとする。人との関係だけである。これでは弱い。崩れやすいのだ。私達は、イエスを信ずる信仰によって湧き出る命の泉を持っているのである。井戸はそれぞれ違っても、地中深くでは同じ地下水でつながっている。互いに同じ命の水で生かされている。私に与えられている命が、相手の中にもある。この不思議を、パウロは「キリストのからだなる教会」と言った。これは教理、神学ではない。キリストの命の自然な営みを言ったのである。議論や研究で深まるものではなく、ただキリストを信ずる幼子のようなひたむきな信仰によって得られるのである。




















# by oume-akebono | 2019-01-06 14:03 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)     大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



教会は魂が救われ永遠の命が与えられるだけの場ではない。人間としての人間性、人格が常に成長し、「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達する」(エペソ4:15)場でもある。



この世に於いても人間的成長については以前より関心が持たれているように思う。それは教育的と言うより社会的な課題にさえなって来ているのではなかろうか。多くの人々は社会的問題、教育的問題、学校の有り方、家族の有り方等に解決の道を求めようとするが、どんなに研究され議論されてもその流れは変るものではない。肉は肉だからである。どんなに磨いてもガラスはガラス、決してダイアモンドにはならない。エゴはどんなに着飾ってもやはりエゴで変わらないのである。



しかし、イエスの十字架の力はエゴを砕き、私達の内面を神のいのちに代えて下さるのである。イエスを信じる信仰に神のいのちが注がれるからである。もし、イエスの十字架を私の人生への出来事として信じ受け入れるなら、誰もが神のいのちが注がれて新しくなる事ができるのだ。



もし、これを本当に必要としているのなら、自分の常識では受け入れられないと思っても思い切って信じて見るべきであろう。自分の殻を捨て新しい自分にして下さいと神に本気で求めるなら、思いもよらない時に、「あっ、これだ!」と本当に信じられる事が起るのである。チャレンジしてみてはどうだろう。





























# by oume-akebono | 2018-12-30 15:03 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18-19節 )      大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。わたしたちが愛しあうのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



クリスマスとは「神がまずわたし達を愛して下さっておられる」ことの出来事である。どれほど愛して下さっておられるのか。「独り子を給うほどに」である。それも神は「わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」と語られている。



もし、あなたがこのキリストを受け入れ、自分の罪を悔改めバプテスマを受けるならばあなたは救われ、罪許された者として神の子とされ神の愛が豊かに注がれる事になるのだ。神の愛は完全な愛である。私達はこれを信じ受け入れようではないか。新しく人生が始まる事になる。愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。これが現実にあなたの中に起ってくるのである。



この世は恐れと疑いに満ちている。国と国が、人と人が恐れ、疑い、争い、怒り、憎しみの縄目から出られないではないか。何とか平和のバランスは取っているがいつ爆発するかわからない状態がこの世であり私達ではなかろうか。互いにつかず離れずの安全距離を保っているに過ぎない。



しかし、神は人間を本来、神の愛そのもので創造されたのである。だから私達の中に切に愛を求める心があるのだ。愛は神から出るものなのである。しかし、人は神を認めず信ぜず、信ずるのは自分だけとなり神中心の本来の姿から自分中心のエゴと言う聖書では罪と言う姿になってしまっている。今や全ての人が生まれつきそうなっているのでそれが当り前で別に悪くはないと思っている。しかも自分は他よりも正しいと思っているのだ。これがエゴの特徴である。エゴは自分の罪に対して盲目にする。神の愛は目を開くのである。イェスが来られた。あなたの心をノックしておられる。これが本当のクリスマスなのである。




























# by oume-akebono | 2018-12-23 21:58 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章21節)     大谷唯信牧師



「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。…」



パウロは、キリストを信じる信仰によって得たイエスからの知識に余りにも絶大な価値があるが故に、今まで最高の権威と自信になっていた全ての業績や誇りが、損と思うほど無価値な意味のないものに見え、全てがふん土のように見えると言ったのである。



彼の誇りは民族、家柄、さらにはへブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者、即ち完全無欠と誇っていたのである。それを言い切れるほどの実力者であった。現代のノーベル賞、オリンピックの金メダルの段ではない。その歴史、伝統、人間としての尊厳、しかもあらゆる知識にも通じ、同時にテント職人としての技術も持ち、貧にも富にも処して生きることが出来る、正にユダヤ人特有の最高の教育訓練を受けた者であったと言える。だから神は彼を伝道者として召したのであろう。



パウロはキリストの愛に触れ、一瞬にして魂が砕かれた。それはキリストを迫害せずにおれないほど神を求め真実を求め、命がけであったからだ。何を求めても心を満たす平安が得られず、この世の富も地位も神の律法の中にも見い出せず、渇いていたのである。故に主の光が入った瞬間に、自分の全ての内にキリストの命が入った。全てが変わった。「わたしは福音を恥としない」、「生きるのも死ぬのも主のため」、「わたしはキリストと共に死んだ。わたしが生きているのではない。キリストがわたしの内に生きておられる」と次々と自分の生きる意味、否、全人類の本当の生きる意味と救いが明確に見えてきたのである。それは何故か。自分の側から神の側に立ち返ったからである。



受胎告知を受けたマリヤも自分の側から神の側に立ったのだ。初めは「まだ夫がありません」と動揺した。しかし、聖霊の御業と聞くと、「お言葉通りこの身になりますように」と受け入れた。神の側に立ち、素直に従ったのである。






























# by oume-akebono | 2018-12-16 21:54 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 3章12節)      大谷唯信牧師



「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである」



心に渇きを覚え、さらにイエスの命に満たされたいと願うのは、それ自体すでにイエスに捕えられているからだとパウロは語る。しかし自分の実感としては、自分の罪深さによってイエスから遠い者と思ってしまう。そんな事はないと言われても「やっぱり救われていないのでは…」と思えてしまう。



サタンはこの時、この思いに入り込むから気を付けよう。サタンは信仰に立つのではなく、自分の実感からの感情に立たせようとする。御聖霊はさらに深く信仰に立たせようとされる時、まず「罪と義と裁きとについて目を開く」(ヨハネ16:8)のである。自分の罪や汚れが今まで以上に見えてくる。喜びや平安も消え、暗い中で自分の弱さばかり見え、何とかしたいのだがどうにもならない。



実はこの「どうにもならない」ところに主の訓練があるのだ。今までの救いについての教えは、他の人から教えられ聞いたものであろう。それは一つのきっかけであり入口なのだ。ここからが自分の本物になるための主の訓練が始まるのである。自分の感情や感覚に振り回されるのではなく、信じる信仰に立つ事を学ぶのである。自分の力で何とかするのではない。自分の罪と弱さに正直に直面し、キリストの十字架を見上げ、すべての罪と共に十字架のキリストに託するのである。



「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。即ち、私たちはその死にあずかるバプテスマによって彼と共に葬られたのである」(ロマ6:3-4)。即ち、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる信仰に立つのである。そうすれば、あなたは自分の体験としてイエスの実体に出会う事になる。これを求めること自体、すでにイエスに捕えられているのだ。





























# by oume-akebono | 2018-12-09 23:46 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 3章21~22節)    大谷唯信牧師



「しかし今や、神の義が、律法とは別に、現された。それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。」



私達教会がここ迄成長してきたのは神の導きであり、一人ひとりの祈りと奉仕への恵みである。しかしどうであろう。近頃、信仰生活がどこかマンネリ化している事はないだろうか。日々成長している新鮮さや今取り組んでいるものへのドキドキ感、主にあっての自分への張りのある期待感、解放感があるのだろうか。



人生全般にも言えることだが、マンネリ化は誰にでも起こり得る。信仰生活では特に起きやすい。いつの間にか状況に流され受け身になっている。取り組んでいることに慣れてしまって、可もなく不可もなく順調ではあるが何か物足りない。どうか自分でチェックして欲しい。生きているのは自分なのだから、「自分は今自分の心に納得した生き方になっているか」又、「自分はどう言う人間、また、クリスチャンになろうとしているのか」、即ち信仰の目標と課題を持つことだ。



同時に教会のメンバーなのだから「教会は今どんな状態なのか」、「自分はこの教会をどんな教会にしたいのか」「そのために、自分は何をしたら良いのか」等と自分個人の目標と教会全体の目標という二つの課題を捕らえて自分の役割を把握することは大切だ。そうすれば傍観者とはならず、すべての働きが意味ある新鮮なものになってくると思う。



ところが実際、諸教会の多くがそうなってはいない。無気力の中に漂っている感じである。何故だろうか。御言葉に帰ろう。信仰生活の基盤は神の義である。それは私達に対するキリストの十字架の血による絶対的な贖いによる赦しにある。パウロは「物わかりの悪いガラテヤ人よ、十字架につけられたキリストがあなたがたの目の前に描き出されたのに…」と嘆いている。十字架の出来事は過去ではなく「永遠の今」と言う今、現在の霊的出来事だ。あなたには、自分のために血と涙を流して叫んでいる十字架のイエスが見えるだろうか。思い描き、祈るのである。






















# by oume-akebono | 2018-12-02 17:48 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 3章25~26節)      大谷唯信牧師



「神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。こうして神みみずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」



信仰に立つとは神の側に立つ事だ。肉から霊の領域にすでに移されている。



先日聖書の会である婦人に「あなたは神の側に立っていますか」と尋ねると少し考え遠慮がちに小さな声で「えー…、神の側に立つように努めてはいるのでですが、なかなか…です」との返事。信仰歴をお聞きすると10数年、教会でも率先して証しをし奉仕も積極的にこなして下さる中心メンバーの一人である。「あー、真面目に頑張っているのだなあ!」と受け取ったわたしは思わず「そのように感じているのですね。それはネー、わたしの問題です。わたしの牧会の仕方、御言葉の解き明かしに問題がどこかにあるのです」と新たな足もとからの宿題を与えられショックを感じての言葉であった。その婦人は「わたしの勘違いでした」と言って下さったが「あゝそうですか!」と言う訳にはいかない事で両者が取組まねばならない事と思った。



確かにわたし達日本人には謙譲の美徳と言う謙遜の常識的礼儀がある場合がある。普段手が出ないような上等な物でも「お口に合うかどうかわかりませんが…」とか「お口汚しでしょうが…」とか、又、「あなたは永年のクリスチャンだそうですね!」「いや永いのは年数ばかりで信仰はいいかげんでお恥ずかしい限りです」等々の会話は身に覚えはないだろうか。



自分に属するものや自分の事は謙遜して良いが自分に属さないものを謙遜するのは失礼な事である。信仰はどうであろうか。「信仰によって義とされる」「神の義とされるため」と言う神との関係がいつの間にか、私から見た「私と神との関係」即ち、私の信仰で得た義を私の力で支え保持しようとしてはいないだろうか。これは神の側から私達に対しての「神と私との関係」であり神からの賜物なのである。私達はただ神に感謝して受け取り確信を持って生きるべきであろう。






















# by oume-akebono | 2018-11-25 15:39 | 週報メッセージ

(箴言24:11)      大谷唯信牧師



「死地にひかれゆく者を助け出せ、滅びによろめきゆく者を救え」



私達は福音のメッセージを聞く時にいつの間にか一つの文化講演を聞くのと同じように聞いてないだろうか。聖書の学び会も一般の読書会のような単なる文化会の一つのようになってないかと自らを問うてみる事は大切である。メッセージを行う者はなおさらのことだ。



私達青梅あけぼのキリスト教会は主の恵みによって育まれ、ある程度の形が少しではあるが見えるようになってきた。これは主の憐みである。私達は実に弱く未熟な者の集まりである。だからよいのだ。私達は弱く未熟であるが故に主は捕えて下さり、これを教会として下さったのだ。教会には神の命があり、救いがあり、私達の思いをはるかに超えている力がある。



教会は主が頭となって未熟で弱い私達を御自分の体とし、世に対する神の救いの遠大な御計画の実践を託されたのである。私達は神に選ばれたのである。さらにまだクリスチャンになっておられないあなたにも神の選びは向けられており、招かれている事を知ってほしい。神は全人類の救いのために私達やあなたを必要とされ、御自分の救いのプロジェクトのメンバーとして用いたいのである。



私達は教会をキリスト教的文化団体としてはならない。今やその分岐点にある。この世は神の光を失い闇につつまれ、人々は罪の滅びの海に投げ出されている事を知ろう。独り子イエスによって救いの御業はすでに成し遂げられている。イエスはノアの箱舟となって人々を招いておられる。「あなたは人間をとる漁師になるのだ」(ルカ5:11)この御言葉を受けとめる者は誰か。
















# by oume-akebono | 2018-11-18 16:35 | 週報メッセージ