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(ヘブル人への手紙 11章8節)      大谷唯信牧師



「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。」



信仰は常に自分の殻から飛び出す力となる。人はどうしても自分の知識や経験、これまでに築いてきた地位、立場にしがみつく傾向があるものだ。安全を求めるからである。確かにそれらは大切なものだ。粗末にする必要は無い。しかし私達は生き、前進しているのだ。



本当に命を燃やし、新しく生きようとするならば、それらのものを心の中ではいつでも捨てられる、否、捨て切っている。その思いが必要なのだが、どうであろうか。持っているものは、持たないかの如くに手放している。ここに自由、自立が生じ、未来に対して不安ではなく、期待と喜び、そして平和が与えられるのだ。



イエスは「自分を捨て、自分の十字架を負って私に従ってきなさい」と言われた。現代人の問題は、自分を投げ出せない事だ。過保護の子供が質問されるごとに、自分で返事はせず、親の顔を見ては助けを求める。中高生にも多い。すると隣の母親が、「この子は恥ずかしがりなんです」とか、「ふだんはこうではないんですが、緊張してしまうんです」等と弁明したりする。大人でも本当に自立している人は少ない。強そうにしていても、ただ知識で論理武装したり、自分の立場でものを言っているだけである。



確かに人間として、自分個人の思いを正直に誠意を持って、真実に行動するのは勇気の要る事であろう。だが今や、その真実すら見えなくなっているのではなかろうか。自分の立場から見る真実に、立っているからである。「目あれど見えず、耳あれど聞こえず」なのである。



アブラハムは主に従った。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう」(創世記121-2)。これは全人類に、わたし達一人一人に向けられている、神の招きである。神に従った時初めて人としての自立が起こり、真実の出会いが始まるのである。まずは甘えている自分を捨てるところから始めてみるのはどうであろう。








# by oume-akebono | 2022-04-24 18:41 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 5章4節)     大谷唯信牧師



「世に勝つ者は誰か。イエスを神の子と信じる者ではないか」



特に「信じる」に注目したい。知る、理解するのではない。尊敬する、愛するのでもない。「信じる」である。



「者」とは、「皆」とか、「人々」ではなく、私でありあなた自身である。この信じる信仰、即ち、イエスを信じる信仰を持てば、あなたは、世に勝つ勝利者となるとの神の約束である。からし種一粒ほどの小さな信仰でもよい。細い線でもつながっていれば電流が流れるように神の命は、確実に流れ込んでくる。



「信じさせて下さい」と願いつつ、一向に信じない人がいる。私がそれであった。「信じたい」との思いがあり、「信じるべきだ」との思いにさえなっているのに信じられないのだ。人からではなく自分の事として、もう苦しくなるほど「信ずるべきだ」と心に迫られているのに信じられない。もう一つ何か、自信がない、確証がほしい。何かあるのではないかと待っているのだ。待っていれば自然に信じられるようになるのではと思っていたのである。



しかし、どんなに待っていても自然に信じられるようにはならなかった。どんなに待っても「自然にわかる」ようにもならなかった。だが、わからないのに「信じます」等と言えば嘘になる。自分の心に嘘はつけないと思ったのである。高校1年生の時であった。しかし、これは間違っていた。これはわかって信ずるものではなかった。わかろうとしてはいけないのだ。わからないまま、否、わからないからこそ信じるのだ。しかも信じるのは自然の流れでは来ない。何かを待つのではなく、ただ自分の心で決定すればよいのである。心の冒険だ。驚く事に信じてからいろいろな事がわかり、必要に応じてクリスチャンとしての道が整えられ歩みが始まった。決めるまでは何も始まらなかったのである。











# by oume-akebono | 2022-04-17 17:30 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章11-13節)    大谷唯信牧師



彼は、ある人を牧師、教師として、お立てになった。それは聖徒達を整えて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、私達すべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである



 すべてが神の御業で始まっている。決して私個人の始めた事ではない。普通はこの事だけでも驚きである。何故なら自分の人生は自分で歩むものと思うからだ。しかし、私達いのちの根源の霊的世界の次元では私達の考えをはるかに超えて、すべては神から始まっており、神に目覚めた者として私達が選ばれたと言うのである。



イエスは言われた「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。それは、あなたがたが行って実を結び、その実がいつまでも残るためであり…」と。(ヨハネ15:16)



かと言って私達は盲目的に機械的に従ったのでない。全人格的な主体性をもって主の選びに応答する意思決定によってである。即ち、イエスの選びと私達の意志とが一つとされ出会いが起きているのだ。霊的に見るならば、これらはすべて神との出来事、教会の出来事であり、これを信仰で受けとめ始めるとその信仰の程度に応じて次々と神の御業がはっきりと見えてくるのである。



イエスは私達を招きキリストのからだなる教会につなげて下さり、教会というキリストの命の共同体として下さった。この教会こそが人生最高の人間教育の場であり成長の場である事を覚えてほしい。「私は何が出来るのか」と問うのではない。「神は青梅あけぼの教会で私に何をさせようとしているのだろう」と問うのである。一つやれば次が見えてくる。深まる場が与えられている。信仰の出来事として取り組もう。







# by oume-akebono | 2022-04-10 17:36 | 週報メッセージ

4月3日 神の愛に帰れ 

(イザヤ書 1章2-6節)  大谷唯信牧師



わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた



 これは神が親子の断絶のみならず、天地の創造主なる神と私たちとの断絶が、親としての悲痛な叫びとなって預言者イザヤに語らせているのである。小さな陰での出来事ではなく全宇宙的な、全人類の滅亡の出来事として全世界に語っているのだ。「天よ聞け、地よ、耳を傾けよ」との語り出しから見ても神の胸中を窺い知る事ができるのではなかろうか。



正に「親の心子知らず」である。イソップ物語りのような昔話ではない。何年経とうが本来あるべき神中心の人間が、いつの間にか神を捨て自分を中心に生き、今やそれが当然の事として、恥じることも無く却って自己の誇りとさえ感じる迄に、又、完全に自己中心の罪に捕らえられ、罪の奴隷よろしく振りまわされているのを自由とさえ感じる、哀れな姿を神は嘆いておられるのである。



教訓ではなく今の人間の現実を語られているのだ。現代も昔も人は全く変わっていない、「彼らは悪を呼んで善と言い、善を呼んで悪と言い、暗きを光として、光を暗きとして苦さを甘しとし、甘さを苦しとする」「無知のために、とりこにせられ、その尊き者は飢えて死に、もろもろの民は、かわきによって衰えている」、「おのれを見て賢しとし、自らを顧みてさとしとする」。イザヤが神の啓示によって語った言葉は年代も国もすべて超えて人間に語られているのだ。私たちに語られているのである。



「あなたがたは、どうして重ね重ねそむいて、なお打たれようとするのか。その頭はことごとく病み、その心は全く弱り果てている。足のうらから頭まで、完全なところなく、傷と打ち傷と生傷ばかりだ」と人間よりも神御自身の方が苦しまれておられる事を御存じだろうか。ついに神は独り子イエスを私たちに送って下さり十字架の御業によって救いの道を備えて下さったのだ。今こそ神の愛に帰ろうではないか。神の愛に生かされようではないか。








# by oume-akebono | 2022-04-03 17:40 | 週報メッセージ

(コリント人への手紙Ⅰ 12章25-26節)     大谷唯信牧師



「あなたがたは、キリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ。」



ここに私達の目指す教会を見る。信仰の出来事である。教会には人の数だけのタイプの方々がおられ、これらが一つになる事はまず出来るものではない。しかし、キリストの教会では、もし私達が切に願い求めるならば出来るのである。



それは組織ではなく、人の信念や理想でもなく、また人の主義、価値観でもない。それでは何か!これこそ御霊なるキリストの命によって得られる一致であり、あらゆる違いを超えて一つとされていく神の力、神の恵みなのである。



人は普通、意見の一致、理解、納得によって一つとなろうとする。人との関係だけである。これでは弱い。崩れやすいのだ。私達は、イエスを信ずる信仰によって湧き出る命の泉を持っているのである。井戸はそれぞれ違っても、地中深くでは同じ地下水でつながっている。互いに同じ命の水で生かされている。私に与えられている命が、相手の中にもある。



この不思議を、パウロは「キリストのからだなる教会」と言った。これは教理、神学ではない。キリストの命の自然な営みを言ったのである。議論や研究で深まるものではなく、ただキリストを信ずる幼子のようなひたむきな信仰によって得られるのである。







# by oume-akebono | 2022-03-27 17:44 | 週報メッセージ