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(ローマ人への手紙 7章18節)    大谷唯信牧師



「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」。



人間、誰でも思ったほど強くはない。しかし思ったほど弱くもないのである。どういう事か。人間、不思議なことだが自分の弱さに徹した時、実に強いものである。



一方いつも強くあろうと意識したり、強くなければと思い続けている者は意外と弱い。そこでまた強そうに振るまう悪循環、実に疲れるのだ。しかも無理しているから傷つきやすくもなる。そこでつい表面的になってしまう。



もし、信仰生活にこんなやり方を取り入れてしまったなら本当に惨めな信仰生活になってしまうから気をつけよう。信仰生活は強さではなく弱さに徹するところから始まる事を知ろう。御言葉は確かに私達を励まし強くする。しかし、単に慰め励まされているのであれば成長はない。大切な事は、御言葉によって自分が引き裂れ砕かれてしまう事なのだ。



パウロは「私は何というみじめな人間なのだろう」と主に叫んだ。弱さを自分でかかえ込むのではない。自分で強くするものでもない。主のもとにおろすのだ。


















# by oume-akebono | 2019-07-07 14:32 | 週報メッセージ

(テサロニケ人への第一の手紙 5章16~18節)    大谷唯信牧師



「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りさない。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである」。



近頃、積極的思考とか積極的な生き方等と盛んに言われるようになった。本来、信仰に生きる事ほど積極的に生きる事はないのではなかろうか。



もし、信仰を持っているという人が、いつもクヨクヨし、心配と悩みの中で生きているとしたら、こんなに勿体ない事はない。御言葉は信ずる者には神の力である。神が必ず最善に導き、万事を益とされる事を固く信じ、この御言葉通り「常に喜び、祈り、感謝」して見よう。



喜べる事を待ってからではなく、先へ先へと、とにかく喜びすべてを感謝していくのである。目先の出来事に左右される事なく、まず感謝する。本気でやって見ると、心が積極的に変化して来るのがわかる。心の霊的覚醒である。



あなたは自分の心が積極的になった時の凄さを知っているだろうか。同じ一度きりの人生なら、一度体験して見る価値はあると思うのだが、どうであろうか。















# by oume-akebono | 2019-06-30 14:29 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 12章 1節)     大谷唯信牧師



「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」



今日は気分がいいとか悪いとか、落ち込んだ、イラだっている、やる気がない、祈れない等々の気分に振りまわされている人が何と多いことか。そんな事はどっちでもよいのだ。生きていれば近頃の天気のようにいきなり雨が降ったりやんだり、雷が鳴ったり地震があったりで何でもありが人生である。自分にしがみついてはいけない。自分を解放し手放すのだ。「自分の命を得ようとする者は失い、捨てる者が得る」とは命の原則である。私達は仕事をするのも休むのも、飲むのも食べるのも、生きるのも死ぬのも主のため、とパウロは語っている。



即ち、私達は日々、生活の出来事に向かっているわけだが単にそれをしているのではない。それらを通して神と出会い、神への応答として神のためにしていると言う意識(信仰)を持つ事が大切なのだ。普通の人はただ仕事をし自分のため、人のため、金のためで生きている。私達はすべての事がそこで留まらず、何をしていても神のため、神の出来事として行うと言う意識に持っていく、自分とか人とかの次元ではなく神との出来事としての信仰によって取り組むのである。



するとサタンは「そのような信仰が本当にあるのか」「あなたは聖なる供え物となっているのか、もう少し準備をしてからにしたら…」等ともっともな事を言って足を引っぱるから気をつけねばならない。そんな事はどうでもいいのだ。現実の有りのままの自分をそのまま主の前に投げ出し、主を拝していく、その時主がそれを聖め生きたものとして下さるのである。自分で自分を聖める等できる訳がないではないか。ただその信仰で心を尽して主に捧げていくのである。



自分にしがみついてはいけない。自分を手放す程に聖霊が入り信仰の世界は拡がり確実なものになってくるから不思議である。


























# by oume-akebono | 2019-06-23 18:24 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章5~6節)    大谷唯信牧師



「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」



私達クリスチャンの一番の力は、「いのちと平安」が与えられている事である。これは自分で造り出すものではなく上から与えられるものなのだ。自分の空しさを知り主イェスを仰ぎ望む時いつでも注がれ「いのちと平安」を味わい楽しむことができる。



これはクリスチャンならではの特権ではないだろうか。しかしこれが意外と失われている人が多い。しかもその自覚が無いのが特徴である。諸教会のほとんどの問題は霊の事を肉でやっているために起きている。しかもそれに気付くどころか、霊にいると思っているから問題は深くなる一方である。これなら世の人と何ら変わらない。もし霊にあるならば、自分は肉にあるのではないか?との自分への問いと痛みが出てくるものである。そうすればいつでも霊に切り替える事ができるのだ。



私達は御霊によって歩こうではないか。いのちある者は必ず成長する。死人でいれば何年たっても成長は無い。信仰も同じである。私達は世の人に、いのちと平安に満ちた生活を見せてあげようではないか。すでに「地の塩」、「世の光」とされているのだ。信仰生活が重く苦しい時がある。肉に傾いている時だ。だからこそ、日々新たに、霊から霊に歩む者となろう。



















# by oume-akebono | 2019-06-16 18:21 | 週報メッセージ

6月9日 神の力を得よ

(コリント人への第一の手紙 1章 18節)  大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」


どんなに立派な人間であっても、神の目から見るならば、不完全、未熟で罪深き者であろう。それなのに「我に罪なし」と言い張る者、又、罪は認めても、神の前に悔い改める程の事ではない、まあ自分なり正しくやっていけば良いのだと思っている人を「滅び行く者」と聖書は言っているのである。



このような人は、自分は正しいという前提の中に身を置き、神ではなく自分を中心にしているので、一寸した厳しい事を言われたりすると、腹を立てたり、心を閉じたり、献身的にやっていても、ポンと投げ出したりするものだ。被害者意識になりやすい。



未熟な信仰も同じ事がいえる。だから、絶えず御言葉の光に照らしての自己診断が必要。肉の実を見つけたら大胆に捨て、主に従う事だ。その度に十字架の言が神の力となってくる事がわかる。
















# by oume-akebono | 2019-06-09 15:17 | 週報メッセージ

6月2日 根源的な問い

(使徒行伝 16章30節)     大谷唯信牧師



「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか。」



自殺しかけた獄吏が囚人パウロから声をかけられ、思わず口から出た問いであった。



人間だれでも、順調に何事もうまくいっている時より、嵐に遭い船が沈みそうになった時、希望の光は消え、絶望するしかない時のほうが、このような問いが出るものである。この問いこそ、人間としての根源的な本質的な価値の深い問いなのだ。自分の存在そのものが揺さぶられる時に起こる問いである。



しかし、少しでもうまくいけると思えている時は、なかなかこのような問いまでは出て来ないものだ。そのうちに何とかなってしまえばなおさらである。しかし、問題は未解決のままなのだ。そして今や、この未解決にしてきた多くの問題が、全国で吹き出しているのではなかろうか。これを人はまたもや国や制度の問題と言う。しかしそれは違う。人間の問題である。人間の罪の問題なのだ。獄吏の叫びは無意識にしろ、罪からの根源的な問いなのである。私達もこの問いを大切にしようではないか。



















# by oume-akebono | 2019-06-02 15:13 | 週報メッセージ

5月26日 人生の逆転

(ヨハネによる福音書 3章3節)    大谷唯信牧師



「…だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。



今や、政治、経済、教育とあらゆる面で改革が迫られ、テレビでの国会中継にも、今迄になく真剣さがあるようにも思える。しかし、世界の改革は個人からと言うように、私たち一人一人の内面の変革なくして、どうして国の変革があるだろうか。



変革は相手ではなく、まず自分なのだ。もしも、ここで教育行政が何とかなったならば、いじめ、不登校、自殺等が治るとでも言うのだろうか。そんな事はあるまい。これらは行政とか学校の在り方以前の、個々人の在り方の問題であり、現在それが崩れてしまっている事にある。



我々クリスチャンは、この事に一番気づいている筈だ。しかし、今一つ弱い。何故か。あの放蕩息子の兄のような信仰生活をしているからではないか。まじめで、一見、模範的だが弟の帰還により本性が出る。弟は自らの罪業に追い込まれたお陰で砕かれ、結局、本心に目覚めていく。



人生は常に「逆転」なのだ。だから面白い。





















# by oume-akebono | 2019-05-26 15:00 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)   大谷唯信牧師



「愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである」



私達教会の願いは、他の諸教会も含めてもっと霊的に成長し、キリストの命があふれ、魂を救う力のある教会になる事である。



イエスは福音を全世界に伝えるために教会を起こし、福音宣教のすべての働きを教会に託された。私達が今、教会にあるのは神から託された福音宣教の使命を果たすためなのだ。決して、救いの喜びを自分の中に留めておくためではない。神は教会を通し、人を通して伝道する。即ち神は人を必要としておられるのだ。これが神の方法であり、神の御心なのである。私達は神の御心に従おうではないか。



もし、私達がこの使命をおろそかにするならば、神の計画をとめてしまう事になる。神は私達以上に教会を愛し、教会を信じ、教会に期待しておられる。何故ならば、私達教会はキリストのからだであり、キリストの命が与えられているからである。



即ち、神の独り子イエスが私達の教会の中に御臨在下さっておられるのである。しかし、敢えて問うのだが、今の私達の教会にはキリストの生きた命があるのだろうか。これは日々新たな目をもって見張らねばならない事なのだ。サタンが目をくらまし、いつの間にか私達の働きの中に肉をすべり込ませてくるからである。どんなに正統的な聖書理解や説教でも、又、善意に満ちた美しい行為であっても、そこに生きたキリストの命がない事があり得るからだ。



実に、現代教会の無力さはここに原因がある。だが、多くは気付いていない。肉では肉も霊も見えないのだ。霊だけが、肉と霊を見分ける事ができるのである。「自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は永遠の命を刈り取る」(ガラテヤ6:8)のである。私達は日々霊的成長を優先して求めよう。そして、霊にまく者となろう。サタンの罠にかからないためである。




















# by oume-akebono | 2019-05-19 16:23 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)      大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」



朝、ふとんの中で目覚め起きようとする時、心に何か言いようのない暗さ、重さ、空しさを感じたりする事がないだろうか。昨日迄、何事もなくエネルギッシュに活躍していた人でも、ある朝、突然に心に鉛のような重さを感じたり、ある人は心が空っぽになったようで気だるく、無気力で何も感ぜず、まるで自分でないようになってしまう事がある。



焦って何とかしようとやる気を出そうとするのだが、カラ回りして、なお暗い深みに落ちていく。心臓は速く打ち、冷汗が出たり、のどが渇いて呂律(ろれつ)がまわらなくなったりもする。病院に行けば確実にいろいろな病名をつけられて薬を沢山もらう事になるだろう。



しかし、本当は病気の人はごく少ない。ほとんどの人は病気ではないのだ。では何が原因でこのようになるのか。それは人間の内面のさらに深い根源的な霊であり「霊のいのち」の問題であるのだ。真面目な責任感の強い人ほどこうなるのもそのためである。正直で調子よく振るまえずま責任の全部をしょい込んでしまう。その重荷に霊のいのちが完全に渇き切ってしまうのである。



しかし、これは本来の自分に気づくチャンスなのだ。「心の貧しき者」、「義に飢え渇く者」は幸いであるとイエスは言われたではないか。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」とも言われている。即ち、「パンではなく神の言葉」である。まずは霊の命を得る事であろう。






















# by oume-akebono | 2019-05-12 18:28 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章24節)  大谷唯信牧師



「わたしは、何と言うみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」



 誰でも本来の自分、真実の自己に出会うためには必ず通らねばならない地点である。愛する人、温かい家族に囲まれていても、又、たとえ輝かしい経歴や能力があっても全て役に立たず、自分の無力さと孤独の中に独り閉じ込められ、真暗で不安な危機的状態となる。何かのきっかけでなる時もあり、予測しない時に突然なる時もある。こんな苦しい事は無い。



 しかし、イエスはこれを喜べと言う。今迄の自分、古い殻を破って新しい自分になる時としての神からの恵みと言うのだ。自分と正直に向き合う事は時には実に苦しい事であるが自分を超えた神と向き合う事に通じる入口であり、神との出会いを得る絶好の機会とも言える。



 しかし、多くの人がそこ迄高める事をせず、ただ苦しんで通過してしまう場合が多い。人間の成長は従来の自分を突き破っていく所にある。そこには祈りと叫びしかない。全くの無力の中での独りずもうになるからである。しかし、その自己の破れ目から、上からの光が射し込んで来るのだ。必ず来る。



 イエスは「心の貧しい人は幸いである。天国は彼らのものである。悲しんでいる人は幸いである。彼らは慰められるであろう。義に飢え渇いている人は幸いである。彼らは飽き足りるようになるであろう。喜び、よろこべ、天において受ける報いは大きい。」(マタイ53-12) と語られた。決して自分の中からの発想にはない。天からの神の言葉なのだ。神の言葉とは神の命である。この命こそ私達を生かす力なのだ。今こそこれを本気で求めるチャンスとしよう。自己との出会いが神との出会いと一つとなる時本物となる。






















# by oume-akebono | 2019-05-05 17:32 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 4章10節)   大谷唯信牧師



「いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身にあらわられるためである」



パウロはその生き方を常にキリストに倣って、キリストの追体験をしていた。それはキリストが「誰でもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者はそれを見い出すであろう」と語ったからである。



これは神学、哲学等の知識ではない。現実の日々の命の営みである。聖書の御言葉は命のパンとして食べる。それはイエスを信じすべての生活の出来事を「イエスの名によって」敢えて取り組む事なのである。自分の納得、理解で進むと、パウロはイエスの迫害者となり、ペテロは「サタンよ退け、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで人の事を思っている」(マタイ16:23)と叱られた。



知識、分別はこの世では大切なものだがその土台は肉である事を知っておかねばならない。復活の主に出会った弟子達の喜びの証しはトマスは受け入れる事が出来ず不機嫌となり反発した。自分の理解度を超えたものは受け入れられないのだ。自分の理解度が中心であり主に従っているつもりでも自分の理解、結局は自分の思いに従っているだけである。自分のものさしで神を測り存在するとかしないとかを決定していく。自分を基準にしているのだ。これがどんなに愚かで高慢な事かに気づくどころか、その逆で自分は正直で賢く謙虚にさえ思えたりする。



イエスはトマスに「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」(ヨハネ20:29) イエスの故郷の人達はイエスを見ると「これはヨセフの子、大工のイエスではないか?」と見え、知っているが故にイエスの実体が見えなくなっているのだ。何年もの信仰を持っている者にも同じ事が起るから気をつけよう。イエスの命がこの身に現れるためには日々霊によって「からだの働きを殺す」(ロマ8:13)と秘訣を語っている。

























# by oume-akebono | 2019-04-28 17:37 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章13-14節)    大谷唯信牧師



「…肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。」



 この御言葉に「あなたがたは死ぬ外はない」と言う言葉と「あなたがたは生きるであろう」という全く正反対の言葉が語られている。この観点で聖書を見ると、ほとんど究極の事として、「死」と「生」について語られている事がわかる。



それも単なる死とか生とかいうのではなく、肉体を超えての永遠の滅びである死と、永遠に生きる命についてである。しかも全人類が例外なく、既に永遠の死に定められているという事。しかし、選びようによっては、望む者にはもれなく永遠の命が得られるように、既に準備されているという事。この情報を提供しているのが、聖書であり、その取次店としてあるのが教会である。



神は私たちを選び教会を誕生させ、滅びゆく人々を救う御業を、この教会を通して進めようとしておられるのである。これは驚くべき事であるが、神は私たちがこれを信仰によって受けとめ、応じる事を願っておられる。冒頭の御言葉はすべての人々に語られると同時に、私たち教会にも語られているのだ。




「肉という我流で生きるなら、死ぬ外はない、神のやり方によって我流を殺すなら生きる。神の導きで生きる者は神の子である。」との約束である。新年度を迎え、私たちはすべての働きをこの「生きる」という一点に向け取り組もうではないか。まず教会を信じ礼拝、祈祷会、献金を聖別し、内側を整える事を主に願おう。
























# by oume-akebono | 2019-04-21 17:44 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章19-20節) 大谷唯信牧師



「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。それはわたしの内に宿っている罪である。」



パウロは、自分の意志に反し自分を支配している罪を見、何とかこれを排除し、清い自分になろうと努めたが、全くのお手上げであった。「罪の値は死である」との律法の中で「わたしは何というみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるのだろうか」(ローマ7:24)と絶望のドン底から十字架のキリストを見上げ、ただ主に頼るだけの思いでキリストに触れたのだ。長血の女がキリストの衣の裾に触れたように触れたのだ。



その瞬間、罪から解放され、「わたし達の主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」(ロマ7:25)と喜びの声をあげたのである。群衆の押し迫る者としてではなく、罪に絶望した者として、即ち、「わたし達の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それはこの罪のからだが滅び、私達がもはや罪の奴隷となることがないためである。それはすでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」(ロマ6:6-7)ということが起きたのであ



私達もイエス・キリストを信じる信仰によって罪ゆるされ義とされたのだ。かと言って、私達が罪を犯さず完全な人間になったわけではない。罪があっても、キリストの贖いによって神の法廷に於いては無罪とされたと言うこ

とだ。



一体人間は何故罪を犯すのだろうか。それは神を離れ、肉となり罪の支配に身を委ねてしまったからである。クリスチャンになっても、この世では肉の幼さが常に私達を支配してくる。これは毎日の現実である。しかし恐れる必要はない。御言葉が、「死人の中から生かされた者として、自分自身を神に捧げ、自分の肢体を義の武器として神に捧げるがよい。そうすれば、罪に支配されることはないからである。」(ロマ6:13-14)と約束して下さっているからである。























# by oume-akebono | 2019-04-14 17:48 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章22-23節)   大谷唯信牧師



「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。」



昔も今も変わらないことがわかる。人間はどこか神秘的で神がかり的な力を求めそこに嵌まる。一方、最も進んだ科学的知識や人間としての深い知恵や教訓から自分の納得した生き方を求め何らかの平安や自信を得ようと自分なりの努力をする。このような風潮の世の人々にパウロは「十字架につけられたキリストを宣べ伝える」と言うのだ。世の人々の反応はどうなのだろう。パウロは語る、「このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが・・・」と。



全く今も昔も変わらないではないか。その通りである。この世は変わらないのだ。神から離れてしまった我々人間は、常にしるしを求め知恵を求めるが、所詮、自分の空腹を満たすためであり、決して神の御心を満たすためではないのである。二千年前もそうであり、これから二千年たっても同じであろう。パウロはこれに気がついたのである。どんなに立派な宗教家になっても、博識ある学者になっても、又、人のために尽くしても結局は自分の満足のためを脱してないことを。



パウロは十字架のキリストの中にこそ自分の探していたものがある事を発見したのである。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である」と身をもって体験したことを語っているのである。すぐれた言葉や知識を用いない。キリストの十字架を無力なものにしないためであった。


























# by oume-akebono | 2019-04-07 17:51 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 12章25-27節) 大谷唯信牧師



「あなたがたは、キリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわり合うためなのである。もし一つの肢体が悩めば他の肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、他の肢体もみな共に喜ぶ」



ここに私達の目指す教会を見る。信仰の出来事である。教会には人の数だけのタイプの方々がおられ、これらが一つになる事はまず出来るものではない。



しかし、キリストの教会では、もし私達が切に願い求めるならば出来るのである。それは組織ではなく、人の信念や理想でもなく、また人の主義、価値観でもない。それでは何か!これこそ御霊なるキリストの命によって得られる一致であり、あらゆる違いを超えて一つとされていく神の力、神の恵みなのである。



人は普通、意見の一致、理解、納得によって一つとなろうとする。人との関係だけである。これでは弱い。崩れやすいのだ。私達は、イエスを信ずる信仰によって湧き出る命の泉を持っているのである。井戸はそれぞれ違っても、地中深くでは同じ地下水でつながっている。互いに同じ命の水で生かされている。私に与えられている命が、相手の中にもある。この不思議を、パウロは「キリストのからだなる教会」と言った。



これは教理、神学ではない。キリストの命の自然な営みを言ったのである。議論や研究で深まるものではなく、ただキリストを信ずる幼子のようなひたむきな信仰によって得られるのである。
















# by oume-akebono | 2019-03-31 14:20 | 週報メッセージ