(第Ⅰコリント 1:18)      大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」



十字架の言とは十字架の死と復活のイエスです。この死と復活が驚くべき力の根源です。ゴルゴダの十字架のまわりには祭司、律法学者をはじめ多くの人々が見ていました。全人類のための一度だけの歴史的出来事が起きていたのですが彼らにとっては全く無意味な馬鹿馬鹿しい出来事でした。パウロもそのように受け取っていた一人だったのです。彼は自ら述べています。「わたしはヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である」と断言する程のしたたかな自信家でした。



しかしイエスの愛の光に包まれて自分と正直に向き合った時「わたしは自分の欲する事は行なわず、かえって自分の憎む事をしている。わたしの欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。善をしようとする意志は自分にあるが、それをする力がない。わたしは欲している善はしないで、欲していない悪はこれを行っている。ならば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしのうちに宿っている罪である」と罪にとりこにされている自分に絶望したのです。



これは現代人も同じで、ここまで正直に自分と向き合い現実を絶望するまで取り組むとは実に勇気のある人です。人間共通の罪の原点に逃げずに取り組んでいるのですから。「わたしは何と言うみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから救ってくれるのだろうか」と主を信じて救われたのです。その瞬間、「神は感謝すべきかな」と讃美に変ったのです。彼は十字架を教理として、自分を生かすために信じたのではありません。罪の自分に絶望しキリストの十字架の死の中に自分を投げ出したのです。イエスの十字架の叫びの中に身を投じたのです。キリストと共に死んだ。そうしたらキリストと共に生きていた。「死は勝利に吞まれてしまった」の信仰宣言に至ったのです。



























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# by oume-akebono | 2018-04-08 15:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)      大谷唯信牧師



「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」



 先日、久しぶりの方からお電話をいただいた。「今、どこからですか?」「鹿児島です」。幼稚園教育のエキスパートである先生は日夜、全国で研修、講演で走りまわっておられる。「大坂です」「北海道です」と。いつ家に帰られるのかと思うほどだけに「お体にはお気をつけてください」と言う事になる。すると「実は昨年の暮れに脳梗塞をやりまして・・・」であった。「手のしびれが少し残るだけで軽く済みました。お陰でネ!」と続く「これからは食事・睡眠・適度な運動、仕事等すべてについて今の自分に何が一番大切なのかを身にしみて考え取り組んでいます」との事。「今までもわかってはいたんですけど、わかっていなかったんですねー」



 もう一般論ではない。言っている内容は当たり前の事であり誰もが知っている事だ。しかし今の彼にとっては常識論でも概念でもない。すべて自分の固有の出来事である。ここまで中々わからないのだ。今ここで生きているのは、現実の二度とない今と言う瞬間の自分固有の出来事なのに、一般常識の概念で生きていたのです。



 信仰()の領域も同じです。知識も考える事も学ぶ事も大切です。しかしそれが一般の知的概念として捕らえただけでその実体には触れていない、即ち、絵に描いた餅になっているのに気づかない。だから「文字は人を殺し」と聖書は語るのです。



 御言葉の「まず」とは常に最優先。神の国と神の義とは宇宙も自分をも越えた神としか言いようのない大いなる絶対の力と支配です。神の義とは同じく絶対の義、間違いも汚れもない完全な正しさです。求めるとは絶えずそれを信じ続ける事です。文句、不平、失望、疑う事なく求める。そうすれば得られる神の法則です。人は何故疑い争うのか。自分の知識に立とうとしているからです。人には主の復活は大きなつまずきです。敢えて神は「つまずきの石」を置かれたのでした。知識ではなく信仰に立たせるためなのです。


























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# by oume-akebono | 2018-04-01 15:23 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 8章8節)    大谷唯信牧師



「主よ、お言葉を下さい。そうすれば 僕はなおります。」



何という確信でありましょう。今、私達にはさらにこのような信仰が必要なのではないでしょうか。彼は主のお言葉には無条件で従う。普通なら当然起きてくる疑問や理屈は、突き抜けて全く問題にせず、喜びと確信をもって「主よ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」とすでに目の前に実体化しています。クリスチャンでもなくイエスの弟子でもないのに。



 一方、弟子のトマスは仲間に「今、復活のイエスに出会った」と言われると、その場にいなかった彼は声を荒げて「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘のあとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきの下にさし入れてみなければ、決して信じない」と全否定。イエスの弟子でありイエスを愛していたのにです。



 百卒長とイエスの弟子トマスとどちらがイエスを信じる信仰に立っていたのでしょう。勿論、百卒長です。イエスは「これを聞いて非常に感心され、イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と言われるほどでした。そして百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」。するとちょうどその時に、僕はいやされたと聖書は告げています。



 この両者から何が学べるでしょう。まず百卒長はローマの軍人です。この世の権力の象徴ローマ皇帝に仕える軍人でした。命令の言葉には命をかけての絶対服従がその務めです。神を知らずローマ皇帝を神として命をかけての捨て身の生き方は「自分を捨て自分の十字架を負って我に従え」と言われる信仰による服従と重なる面があります。これがイエスと結びついたとき、驚くほどの信仰の器となる可能性が見えます。一方、弟子であっても肝心な時にそこに居なかったトマスは、心はかたくなに不信仰になっていくのです。後の者が先となり、先の者が後になりました。私達は油断してはなりません。信仰の泉は普段の教会の交わりの中にあることを覚えてください。教会での交わりはイエスとの交わりそのものです。
























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# by oume-akebono | 2018-03-25 17:25 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 20章29節)       大谷唯信牧師



「あなたは見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである」



信仰による恵みは「見ないで信ずる者」が手にします。アダムがサタンにそそのかされて食べてはいけない「知識の実」を食べて以来、人間は自分の目で見て、手で触って確実な証拠を取ったものしか信じない習性が心深く刻まれているようです。この世の学びや人生経験、知識が増すごとに自分の考え、自分の納得できないものは受け入れにくくなるものです。



トマスは他の弟子たちから復活の主に「お目にかかった」と聞かされると「わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れみなければ、決して信じない」と断言したのです。これがこの世の普通の人です。常識のある堅実な人でありましょう。パウロも自分に対して絶対的な自信と確信を持ち自分の正しさに沿って生きていました。



しかしキリストに出会って心の目が開かれたのです。自分がいかに小さく不完全な罪深いものであるかに気づかされたのです。自分を超越した神の命の領域から自分を内面的に見る目が開かれたからでした。人生のあらゆる真理が現実から見えるようになったのです。今までの自分の誇り、数々の栄光その輝かしい業績も色あせたもの、まさにゴミのように見えたのです。全てを超越する真実のいのちを得たからでした。



どういう事でしょうか。パウロは言います。「わたしは信仰によって義とされキリストによって、神に対して平和を得ている」(ロマ5:1)「神との平和」です。現代人にはこれが無いのです。彼はどんな逆境の中でも「希望を持って喜んでいる。患難をも喜んでいる。なぜなら患難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み、それは失望に終わる事がないからだ」とすべてを感謝のできる人になりました。「神との平和」の中に生きたからでした。その秘訣は、まず神にあなたの心を開く事にあります。全開にして下さい。意識すれば誰にでも出来ます。日々の出発点といたしましょう。























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# by oume-akebono | 2018-03-18 17:19 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10~11節)  大谷唯信牧師



「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」



 私たちの教会が霊の命に目覚め、さらなる恵みを受けてくると、サタンは巧妙に働きかけ、主の霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)によってもっともらしい理由の元に互いに争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂させようとします。さらに霊的な事柄に於いても競争させ比べ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを秘かに起こさせてきます。また、教会一致、福音宣教を願うその中にも肉の思いを秘かに起こさせようともします。何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現しません。自分の存在を認めさせないようにします。彼にとっては、その方が働きやすいからです。そしてまた、神をも信じないように働きかけます。互いに相手の間違いを原因として争わせるためです。今や世界中がこの手に踊らされ、しかも自らは賢く正しいと思わせるのです。



 私達も気を付けましょう。「もしあなたがたの心の中に、苦々しいねたみや党派心をいだいているのなら、誇り高ぶってはならない。また、真理にそむいて偽ってはならない。そのような知恵は、上から下ってきたものではなくて、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものである。ねたみと党派心とのあるところには、混乱とあらゆる忌むべきこういとがある。」(ヤコブ3:14-16)のです。



 あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えましょう。「わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」(エペソ6:12)とあります。



 サタンは教会の群れからも離させようとします。群れから離れればサタンは簡単に信仰をも失わせ自分の都合のよい信仰に誘い込みます。礼拝、祈りを奪い教会から離れさせます。油断することなく、教会にしっかりつながり、神の約束を信じ、感謝しつつ信仰の祈りを捧げて参りましょう。




























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# by oume-akebono | 2018-03-11 18:49

(ヨハネの第一の手紙 4章15節)   大谷唯信牧師



「もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。」



 神は人をご自身に似せて、霊的な存在として造られました。イエスはぶどうの木とその枝に例えて「わたしにつながっているなら、豊かに実を結ぶ」と語られました。それは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制という御霊の実が豊かに実るとの神の約束です。これはぶどうの木から流れてくる命ですから、自分の努力ではなく上からの賜物です。



 しかし神を信じない人は、自分の肉(エゴ)の働きで頑張るしかありません。その肉の働きの根は「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐい」(ガラテヤ人への手紙 520)であり、本質は罪であるとしています。この世のほとんどの人が、この肉の働きで困っています。「気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう」(ガラテヤ人への手紙515)と聖書は語っています。肉は闇であり滅びです。



 私たちは神の導きによりイエスの福音に触れ救われました。教会も私たちも共に主の交わりの中で育てられ、日々感謝に溢れた生活をしています。これからは一人ひとりが御言葉からメッセージを聞き取り、主にお応えしていく事が大切なのではないでしょうか。次の御言葉からどのようなメッセージを受け取りますか。「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。律法の全体は、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』というこの一句に尽きるからである」(ガラテヤ人への手紙513-14



 先週学んだように、愛するとは、相手にあなたの心を開く事です。第一は神に心を開き、全開する。意識し、常に吟味しつつ全開するのです。すると他者に対しても、苦手と思える人にも心が開いて来るでしょう。さらに、これらいっさいのものの上に、愛を加える(コロサイ人への手紙314)のです。全員で取り組みましょう。教会に愛が満ち満ちてくると、どのような教会になるのでしょう。想像してみて下さい。それは、既に始まっています。


































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# by oume-akebono | 2018-03-04 17:43

(マタイによる福音書 22章35~40節)   大谷唯信牧師



「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。

これがいちばん大切な第一のいましめである。第二も同様である。『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』」



愛するとは心を開くこと。「まず“神”に心を開きない。全開です」これが全ての基本。



律法学者がイエスを試そう思って「律法の中では何が一番大切なのですか」と質問しました。実に良い質問をしてくれました。おかげで膨大な律法を端的に普遍的な本質を二点に絞り、しかも具体的な取り組みの行動、及びどこまでの深さ、高さにまで目指すのか目標をも示されました。学者達はその真意を汲み取る事もせず、「では、あなたの隣り人とは誰ですか」等と最もらしい問いをしてきたのです。



隣り人を本当に愛したと思って問うのは良いことでしょう。彼らは「自分の立場を弁護しようと思って」であり「イエスを試そうと思って」でありました。イエスは愛し合う基本を教えておられたのですが、その学者達の心には愛の心になろうとしている動きが見えるでしょうか。その真逆ですね。正に議論のための議論、真実の実体を求めるのではなく自分の主張、弁護の議論です。



しかしイエスはこの議論に巻き込まれませんでした。「よきサマリヤ人」の例話を出し、「強盗に襲われた人の隣り人になったのは誰と思うか」と逆に質問したのです。そんな事は当然わかっている事ですから、彼らは勿論正解を出しました。ところがその時すぐにイエスは言われたのです「あなたも行って同じようにしなさい」言われた彼らはどうしたでしょう。おそらく不愉快に沈黙するしかなかったでしょう。もうやる事がないのです。議論以外にはやる事がないのです。彼らの姿に私達現代教会の姿がそのまま見えて来ないでしょうか。イエスは社会平和や教会論、宣教論を論じているのではありません。



「まず、神に心を開け、

全開だ!

 これが全ての基本」



これは、新しい人生、成長する教会への入口です。

































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# by oume-akebono | 2018-02-25 16:35

(テモテへの第二の手紙 3章16~17節)     大谷唯信牧師



「聖書はすべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。それによって神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。」



聖書は人の創作によってではなく、神の選ばれた預言者、王、政治家、学者、農夫、羊飼い等の約40人の者によって前1400年~後200年頃の期間にそれぞれの地域と場所とその状況下で神の霊に導かれ書かれたものです。旧約はイスラエルの歴史の現実の出来事を中心に、新約は神の子イエス・キリストの働きと御言葉を中心に、詩篇はキリストの十字架とよみがえりの出来事を通して与えられた全人類の救い、福音が世界中に拡がるため教会を誕生させこれに一切を託された記録、その様子が使徒行伝に聖霊降臨ペンテコステの様子にそのまま記されているわけです。上からの一方的な聖霊の注ぎによって弟子達を始め、多くの人々、又、キリストの迫害者として一番恐れられていたパウロまでが回心し伝道者の器とされ、世界の福音の拡がる基礎となる宣教と教会の設立を各地に行ったのでした。これらすべて神の聖霊による導きであった事を聖書は伝えています


今日、私達が現在、青梅あけぼのキリスト教会に導かれましたのも、初代教会と同じく上からの神の導きでなくて何でありましょう。



もしこの世に聖書がなかったならばどのようにして神を知ったでしょうか。他の諸宗教のように人間の知恵、知識で想像した神を祀り上げ、自らを教祖と自任したりの偶像礼拝になるしかなかったでしょう。聖書があるから神を知りイエスを知り、聖霊の働きと教会に出会ったのです。神は全人類を救うため、イスラエルを用い預言者を用い、今は教会を用いています。教会はキリストの体です。私達はキリストに選ばれたキリストの体の肢体です。共にキリストの命に授かっているのです。何のためでしょうか。今度は私達がキリストの証人として世に立つためです。





































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# by oume-akebono | 2018-02-18 17:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 3章14節)        大谷唯信牧師



「神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたしたちは、その事の証人である。」



現在、私達の教会は沢山の恵みを受けております。皆様方の正直な祈りと信仰に神は応えて下さっておられます。心から感謝の祈りと讃美を捧げましょう。そういうこともあって、さらに私たちが何を求め、どのように歩んだらよいのかを知るため、祈祷会では再度、使徒行伝を読むことにしました。弟子達の、聖霊によって歩むその信仰姿勢に触れるためです。



 初代教会の弟子達とその一団は決して名のある人達ばかりではありませんでした。有能な指導力のある人達でもありませんでした。では、何故あのような目覚ましい働きと多くの実を結ぶことになったのでしょうか。当時の時代背景、その状況を見ても決して伝道に恵まれているとは思えません。それどころか最悪です。それに比べ今の私たちの時代はどうでしょう。戦前、戦中のような迫害も特高警察の厳しい取り締まりもなく、宗教も言論も保証され生活も豊かで自由です。



 しかし、何不自由のない豊かな生活になるほど、次の課題が足下にあることが分かります。イエスがラオデキヤの教会に語っている御言葉から私達にも当然起こってくる問題を明確にしました。「あなたは冷たくもなく、熱くもない。なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録315-17)と言われたのです。



 「人の四つの領域」で見るならば、④の霊以外の三つは肉の働き(ガラテヤ519-21)の領域です。人は何故争うのでしょう。肉の働きになってしまうのです。御言葉は「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ロ-86)と語っています。

 実は②と④は本来、神の愛に満たされた心で一つのものでした。罪の中に霊が閉じ込められているのです。私たちが生きるのに一番大切なことは、聖霊の導きを信じ④に聖霊を受け入れ、聖霊によって祈り、聖霊によって御言葉を味わい従うのです。そうすれば三つの領域の霊的成長が始まるのです。




≪≪ 私たちの存在を支える人の4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  






























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# by oume-akebono | 2018-02-11 19:22 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章13節)        大谷唯信牧師



「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」



信仰生活で日々大切なことは「肉の働き」への対処の仕方です。主は聖霊を助け主として与え、導いて下さいます。「それが来たら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」と言われました。開くとは「自らを責めさせる」の意味です。そうなればこの世はリバイバルでしょう。しかし現実としては、その前に自分の肉の働きに目が開かれて心が痛み、救われたはずなのに以前よりもっとひどく肉の働きの罪が自分の中にまだまだあることを発見し、何とかそれを取り除こうと戦い、敗北し、惨めな思いを経験する。そんなことはないでしょうか。多くのクリスチャンが無残にも敗れ、敗北感を心に秘め、確信を失っているのを見ます。



 「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」(Ⅱコリント5:17)



 それなのに、なっていない自分を見て焦るのです。人の四つの領域を思い出して下さい(1月14日、21日参照)。①②③はすべて肉なのです。④の魂()の領域に、信仰によってキリストが新しい命となって入って下さいました。国籍は天に移され、神の子とされたのです。これは自分の存在の土台ですから、自分の存在そのものが天に移され、新しくされたのです。基準が心ではなく霊に移りましたから、心の肉が明確に見えるのです。



 肉の働きが見えるのは、霊の命に立っているからです。聖書中の人物でアブラハムからキリストの弟子達まで、肉の働きのなかった者はほとんどいません。霊が成長し深められるほど、肉の働きがさらに分かります。肉の働きがなくなったらどうなりますか。すべてに満足し信仰が駄目になり、黙示録3:17のようになります。肉の働きを嘆いて自分で戦うとこれも肉の働きとなります。Ⅰペテロ2:1のように十字架のもとに捨てる信仰(意識)をもつのです。罪の発見は成長の課題であり、恵みです。喜んで感謝して捨てる。これがディボ―ションとなります。












































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# by oume-akebono | 2018-02-04 19:14 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 6章7~8節)       大谷唯信牧師



「人は自分のまいたものを刈り取るようになる。即ち、自分の肉にまく者は、肉から滅びを刈り取り、霊にまく者は霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」



私達、あけぼのキリスト教会は現在、神のあわれみと恵みによって大きな霊的な祝福が与えられています。「わたしの名によって二人または三人が、集まっている所には、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、即ち、わたしにしたのである」(マタイ25:40)と主は言われました。



私達教会が祝福を受け神の御臨在に満ちた礼拝が与えられているのは、教会の中にこれらの御言葉を祈り実践しておられる「二人または三人」の方がおられると言う事です。何と感謝でしょうか。教会につながり祈りを共にして下さる方、「二人または三人」の方々の御陰で「良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」(マタイ25:21)と主は粒の小さな信仰を喜ばれる方です。その喜びが私達教会全体の恵みとして与えられているのです。



人ひとりの小さな働きが主に捧げられていく時、大きな恵みとして神は臨んで下さいます。「わたしの名によって集まる二人または三人」とは教会の事です。私達の働きが、決してわたし一人の個人プレーではなく、たとえ一人で行動している時も、常に教会の出来事、主と共にある出来事としての信仰(意識)に立つ時祝福されるのです。この二人、三人が段々と10人、20人…やがて全員になる事を主は願っています。



働きは一人ひとり異なるでしょう。大きい小さいもあるでしょう。大切な事は私達の生活のすべてが心を尽くして主を愛する心でされる事です。「あなた方のからだを聖なる供え物として献げよ。それが霊的な礼拝である」(ローマ12:1)。こうして先週までお話しした第四の霊の領域が深められ全体が霊的に成長するのです。互いのために祈り合いましょう。




























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# by oume-akebono | 2018-01-28 16:00 | 週報メッセージ

(箴言 4章4:23)         大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



人間は四つの領域を持った存在である事を先週語りました。聖書はその四つの領域(下部参照)の④を特に取り扱っています。④は他の三つを突き抜け超越した存在であり同時に三つの土台となってそれを支え統合しそれぞれの働きを健全に調和させていく力を持っていたのです。



しかし、アダム達はサタンの誘惑に乗り神に逆らいその罪によって神と断絶し、本来の自然体であった神中心から、自己中心となりました。以来、魂の中には「霊」(神我)ではなく「肉」(自我)で満たされ現在も同じです。これがエゴとなって世界のあらゆる場で悲惨な問題を起こしています。その元凶は人間のエゴでありその後ろをサタンが支えている事を聖書は示しています。



人は霊的存在として造られていますから霊の領域に神の霊が注がれてはじめて生ける者となります。イエスは「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる」(マタイ44)又、「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない。私があなたがたに話した言葉は霊であり、また命である」(ヨハネ663)と警告しています。「わたしは命のパン、天から下って来た生きたパンである。それを食べる者はいつまでも生きる」(ヨハネ651)とも語っています。「食べる」とは信じる事です。



①は自分の知識、理解、納得の領域、②は五感等で感じる領域、④は信じ受け入れるしかない領域です。「キリストを受け入れた者、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた」(ヨハネ112)と聖書は語っています。



冒頭の御言葉は大切です。心を守れ、とありますがどう言うことでしょう。信仰に立つと御霊は②と④を一つにします。④は霊が深まるほど②の肉の自分の罪深さが見えて来ます。これは恵みです。悔い改めさらに豊かにされる恵みです。パウロは自らを罪人のかしらと言いました。人の心の中で肉と霊とがぶつかり合う。ここに日々新たな命が発現する不思議があるのです。





≪≪ 私たちの存在を支える4つの領域  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  











































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# by oume-akebono | 2018-01-21 15:44 | 週報メッセージ

(創世記 1章27節、2章7節)    大谷唯信牧師



「神(キリスト)は自分のかたちに人を創造された」


「主なる神(キリスト)は土のちりで人を造り、命の息()を吹き入れられた。そこで人は生きた者(=キリストの入る器)となった。」



聖書による人間観は猿からの進化ではなく神による創造です。即ち、単なる動物的存在ではなく神の霊の命を土台とする霊的存在である事を語っています。



下に「私たちの存在を支える四つの要素」としてその領域を示しました。この世の一般の常識では頭、心、からだの統合としていますが聖書ではさらにこの三つの領域を統合しそれぞれの機能をバランスよく機能させ、そのエネルギーの土台となる魂(神の霊なる命を宿す器)を示しています。神の霊なる命とは神のひとり子イエスであり、これを信ずる者の中に聖霊となって住んでくださいます。



故にパウロはイエスを信じ受け入れた方々に「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っている事を知らないのですか」と語っています。魂に宿っている御霊は他の三つの領域()を超えており神の霊と直結しています。この次元は肉の領域では感知できません。ブドウの幹につながっていない枝は命が流れないのと同じです。つながっている枝は豊かに実を結びます。



その実とは、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制等の九つの実です。これらは自分の肉の努力ではなく、キリストを迎え神の宮として立っている者に与えられる神からの霊の賜物です。努力で得たものは肉(エゴ)の力となり良い事でも「肉の働き」になってしまうと注意しています。肉の働きとは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り…」私達の内面のネガティブなものすべてです。勿論、信仰を持っても肉の働きは出て来ます。しかし心の奥の土台には私達の命に至る水が湧き出す泉があるのです。



「油断する事なくあなたの心を守れ、命の泉はこれから流れ出る」(箴言4:23)。キリストの力です。今年は、この霊性を深める取組みをいたしましょう。





≪≪ 私たちの存在を支える4つの要素  ≫≫


① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
































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# by oume-akebono | 2018-01-14 18:59 | 週報メッセージ

(歴代志下 20章12節)       大谷唯信牧師



「…われわれはこのように攻めて来る大軍に当る力がなく、またいかになすべきかを知りません。ただ、あなたを仰ぎ望むのみです。」



ユダの王ヨシャパテは攻めて来る大軍を前にして、祈るしかなかったのです。国の存亡の危機に瀕し、全国民が心を一つにして祈りました。「ユダの人々はその幼な子、その妻、および子供たちと共に皆主の前に立っていた」。(歴代志下20:13) これが大切なのです。敵に応戦するため会議をしたり、武器を集めたり、ではありませんでした。



「アブラハムの子孫は与えられたこの地に住み、あなたの名のためにここに聖所(教会)を建てて言いました。『つるぎ、審判、疫病、ききんなどの災がわれわれに臨む時、われわれはこの宮の前に立って、あなたの前におり、その悩みの中であなたに呼ばわります。すると、あなたは聞いて助けられます。あなたの名はこの宮(教会)にあるからです』と」(歴代志下20:8-9)現代でも、このような状況に立たせられている方が沢山おられるのではないでしょうか。世界情勢は勿論ですが、私たちの身近な生活のなかに、です。



昔も今も信仰の基本は同じです。「第一のものは第一に」、「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられる」。(マタイによる福音書633)到底信じられない事を主の名によって信じる、これを信仰と言います。自分の力量で計れる範囲は何とか信じられるかも知れません。しかし、主ははっきりと不可能を信ぜよと言われます。ダビデは「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです」(詩篇234)と言いました。その信仰の力はどこから来るのでしょう。



「わたしはみ言葉によって望みをいだいたからです」(詩篇11974)と御言葉を自分の信仰告白にしているのです。ヨシャパテも預言者を通して「この大軍を恐れるな、これはあなた方の戦いではなくて、主の戦いだから」と言われた。「彼は地にひれ伏した。」(歴代志下20:18)とあります。今年は私たちも「御言葉で考え、御言葉に立つ信仰告白の恵み」を得る1年にいたしましょう。





































































































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# by oume-akebono | 2018-01-07 17:19

(エペソ人への手紙 4章1~3節)   大谷唯信牧師



「あなたがその召しにふさわしく歩き、できる限り謙虚で、かつ柔和であり、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて、聖霊による一致を守り続けるように努めなさい。」



今年もいよいよ最後の主日を迎えました。今日は普段とは違い、時の流れを一段と厳粛な想いで過ごす時ともなりましょう。世界中が泣いても笑っても、時は確実に刻まれ過ぎ去っていきます。物理的、無目的な時の流れ、移り行くその中に、創造主なる神の愛――イエス・キリストの十字架の愛が今も自分に向けられていることを認めるなら、人生は一変します。



聖書は語っています。「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」と。「生まるるに時があり、死ぬるに時があり、…愛するに時があり、憎むに時があり、戦うに時があり、和らぐに時がある」と語り、結局、「働く者はその労する事により、何の益を得るか」と問いかけています。彼は誰よりも大いなる者となり大きな事業、多くの財産、あらゆる快楽を得たが、皆、空であり風を捕えるようなものと告白しています。しかし神を認め、信じ、神と共に歩む時、すべてのものが新しくされ、「神のなされることは皆、その時にかなって美しい」と告白するまでになったのです。心の霊的な目が開かれると物事を自分の側からだけで見るのではなく、神の側から見て自分の立ち位置が広く客観的にも見えるようになってきます。しかも「神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終わりまで見極めることはできない」(伝道の書3:1-11)と語っています。



神の世界を私達は見極めることはできません。しかし、信じることは幼な子でもできます。「神は霊であるからあなたがたも霊とまこととをもって礼拝しなさい」とイエスは言われました。心で信ぜよということです。



この時の流れの中にも、私達の生活の中にも主はおられ、内なる声となって導いておられます。「今の時」を主と共に、です。






























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# by oume-akebono | 2017-12-31 23:22