(マタイによる福音書 18章20節)   大谷唯信牧師



「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。



 このイエスの言葉こそ私たち教会の力の原点である。「集まって」とは単に物理的に集まっている事ではない。一人ひとりが心を開き、互いに向き合い、互いに認め、理解し、受け容れ、尊敬し合う…ここで注意すべきは「ふたりまたは三人」とは「私たち」の事だ、という事である。私たちが主の名によって集まる所には、主御自身が御臨在下さるという約束であり、それは私たちの主体性に委ねておられる事だ。実際にこの事を信仰で明確に意識していただろうか。信仰は常に「主と共に」の意識であるからだ。



 マルチン・ブーバーは人格的出会いを「我と汝」と言い、これが究極的に深まってくると、人間を超えた神との出会いにまで通じると述べた。しかし、人間はこの人格的な出会いを失い、「我とそれ(物)」との関係になっていく、と警鐘を鳴らした。85年も前である。「我とそれ」とは人格的関係ではなく、物との関係、即ち、物は自分の目的のためにあり、自分の必要な時に必要な形であればよく、必要がなくなれば要らない、という典型的な自己中心の考えである。しかも、その関係が人間との関係でも起きてくるとの警告であった。



 ところでどうであろう。今や家庭や教育の場も、どこもかしこも人格的関係ではなく、「我と物」との関係になっているのではなかろうか。先日の新聞(朝日1026日付)で昨年度の小中高のいじめは約414千件で過去最多と文科省が発表と報じている。特に小学生の増加幅が大との事である。



 この世にある以上、教会であっても油断できない。いつの間にかこの世の流れは巻き込んでいくからである。だからイエスは、「わたしの名によって集まるなら、わたしもその中にいる」と言われた。これが大前提なのだ。イエスの名によって向き合うその中に主御自身が御臨在くださり、いかなる時も「万事を益として下さる神」として私たちを導いて下さるのである。



















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# by oume-akebono | 2018-11-04 18:27 | 週報メッセージ

(イザヤ書 43章 18~19節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、さきの事を思い出してはならない、また、いにしえの事を考えてはならない。見よ、わたしは新しい事をなす。やがてそれは起こる。あなたがたはそれを知らないのか。わたしは荒野に道をもうけ、砂漠に川を流れさせる。」



パウロはパリサイ人であり、律法学者であり、神の言にはすべてに通じている者であったが、本当の意味は分からなかったのだ。その証拠にイエスを迫害する者になっていった。彼は神の律法に取り組み忠実であろうと、誰よりも真剣だったのである。それだけに苦しかったと思う。


でも何故本当の意味、聖書の語る真実が分からなかったのだろう。それは聖書の言葉を自分の知識で理解し、自分の頭で納得し、自分の力で行うことができるように努めていたからである。


彼は気付いたのだ。神の言葉は自分の知的理解で制限するのではなく、まず信じて受け入れ、そのまま味わってみる。そういう謙虚で素直な幼な子のような心が必要だと。その時その言葉を語られている御方の心の真意が伝わってきたのである。「自分なりに」とは聞こえは良いが、受け入れきれないものは拒絶し、反発し、批判し…と心は閉じてしまう。これでは自分以上のものは受け取れない事だ。成長とは自分の殻を破る時に起こる。するとパウロは実感した。「誰でもキリストにあるならば新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである」。



初代教会の「使徒信条」を記しておこう。


「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。

主は聖霊によりて宿り、おとめマリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、

死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。

かしこより来たりて生ける者と死にたる者とを審きたまわん。

我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだのよみがえり、とこしえの命を信ず。」



































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# by oume-akebono | 2018-10-28 18:08 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 4章19節)      大谷唯信牧師



「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」



パウロはガラテヤの諸教会の不信仰を嘆いて語っているのだ。何が原因なのだろう。もう少しパウロの言葉を聞いてみよう。「ああ、物わかりのわるいガラテヤ人よ。十字架につけられたイエス・キリストが、あなたがたの目の前に描き出されたのに、いったい、だれがあなたがたを惑わしたのか(ガラテヤ3:1)と大変な剣幕である。「わたしは、ただこの一つの事を、聞いてみたい。」「あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか、それとも、聞いて信じたからか。」「あなたがたは、そんなに物わかりがわるいのか。」と激怒しているのである。パウロは多くの事を言っているのではない。「ただ、一つの事を…」と言っている。問題はこの一点なのである。



 これはわたし達にとっても他人事ではない。謙虚に自分の事、私たちの教会の事として受け取るべき事ではないだろうか。確かに私たちの教会は神の祝福を沢山受けている。先週の及川久・恵子夫妻の結婚式にも、わたし達の想いを超えた主の恵みを見た。正に奇跡の連続である。サタンが入り込むのは、こういう時なのだ。わたし達の思いを肉に引きずり込むのである。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。」とこれは叱咤激励である。ペテロも最後の晩餐の時、優位に立って忠誠を誓った直後の言動でイエスから「サタンよ退け、あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と叱り飛ばされている。いずれも肉と霊の問題なのだ。


わたし達はさらに肉を捨て霊に生きる事を主に祈り信仰によって歩もうではないか。御霊は御言葉を信じ従う信仰の中に働いて下さる。すでに主は救いを完成させ御霊の九つの実を私達に与えて下さっておられるのだ。肉を見たなら嘆くのではなく、感謝して主の十字架に捨てる事を覚えよう。


























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# by oume-akebono | 2018-10-21 13:04 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章19節)    大谷唯信牧師



「わたし達が愛し合うのは、神がまずわたし達を愛して下さったからである」



私達は常に教会の成長を願っている。子供の成長と同じく教会は日毎に変化し成長していく。何故なら教会にはキリストの体としての神の命が注がれているからだ。つまり私達に神の命が注がれていると言う事である。神は愛である。「私達が神を愛したのではなく、神が私達を愛して下さって、私達の罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)「彼によって私達を生きるようにして下さった」(Ⅰヨハネ4:9)



愛する愛も、生きる命も根拠は自分ではなく神でありキリストの十字架にあるのだ。世の人々はこれを知らず一切の根拠を自分に置く。だから問題が起きるとすぐ力が尽きるのである。またどんなに善い事をしても愛しても自分が根拠であるからエゴを脱する事が出来ない。



人間を駄目にし不自由にしているのはこの自分の中にいるエゴなのである。しかし世の人はエゴが発揮できた時、自由を感じ生きがいを感じる。自己実現は嬉しいものだ。喜びである。ところがどうだ、エゴが通らないと悲劇のヒーローになってしまう。これこそ悲劇ではないか。これほど本来の自分の立つべき所からズレてしまっているのだ。今の世の政治・経済・社会をこの観点から見るとあらゆる問題が、即ち国際問題から個人一人ひとり、夫婦親子の問題までこの本質からのズレが原因と見えてくるのではなかろうか。しかし私達は他者にある問題点は見事に見えるのだ。肝心な自分の中にあるエゴには目が向かない。「自分なり」の正しさの中にいるからだ。捨てるべき自分を良くも悪くもかかえ込んではいないだろうか。



もう一度初心に帰ろう。教会は得る所ではなく捨てる所なのだ。パウロは「わたしは何とみじめな人間か」と投げ捨てた瞬間、主の光の中にすでにいる事がわかった。神がまず私達を愛して下さっておられるからである。





























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# by oume-akebono | 2018-10-14 13:12 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 3章16-17節)    大谷唯信牧師



「あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである」



神がわたし達に賜った救いとその恵みは、わたし達の思い、考えをはるかに越えている霊的存在である。キリストの十字架の御業は単にわたし達を救って下さると言うだけではない。それは神の選びによってこれから神の示す道を歩ませるためのアブラハムの第一歩なのである。誰でも「からし種一粒」の小さな信仰から始まる。誰でも人は赤ちゃんとして生まれるではないか。一人として大人で生まれてくるものはいない。



しかし人はニコデモのような立派な学識を持ち指導者として尊敬される地位を得る者になってもイエスは彼に「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ33)と言われた。神の命の世界ではこの世の知恵、地位は全て関係がないのである。さらにイエスは「誰でも幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできない」(マタイ18:3)と言っておられる。



これらは霊の世界の領域なのだ。霊の領域をこの世の知識の尺度で計ってわかるものではない。霊の領域は幼な子のように純粋で素直に認め受け入れる。実に最も単純な幼な子で良いのである。もし「わたしも信仰を持って歩みたい、救われたい」との願いがあるならそのように決断し一歩進めるべきであろう。何故ならそれは御聖霊があなたをノックしておられるからだ。聖霊の働きかけがなければ人はイエスに対しても、救いに対しても全くの無関心で気にもならないのが普通である。教会にまだ来られた事の無い人でもこれらに関心の心が動くならばすでに御聖霊は働いておられる。まして教会に来られているなら確実に御聖霊は「内なる声」として語りかけておられる。しかも「からし種一粒」の信仰から30倍、60倍、100倍となる生命の力を約束されている。この一粒で聖霊の住まわれる「神の宮」とされているのである。






















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# by oume-akebono | 2018-10-07 14:25 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)      大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



救われた信仰の根拠は自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読みまた自分を見る。一時は強くなったようであるが少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむ事になる。いつの間にか自分を見て評価し自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。



パウロもそうであった。ローマ人への手紙6章は彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登って見ると道は険しく美しい富士山は見えず瓦礫の山々であり、自分の足もとの一歩一歩の苦しい現実に「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。



そこでいよいよ自分に全く絶望し自分を見放し「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げる。わたしの場合は十字架のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と重なり叫んで神に自分の真黒な体を投げ込んだ。絶望の死の中へである。少しして気づくと「わたし達の主イエス・キリストによって神に感謝すべきかな」と歓喜に変っていたのである。



ローマ人への手紙7章は救いの主観的事実なのだ。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ人への手紙6章7章8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。

























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# by oume-akebono | 2018-09-30 14:29 | 週報メッセージ

(使徒行伝 4章13節)         大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った。…」



あの弱かったペテロが驚くほどの変身を遂げた。私はこのペテロの歩みを見る時、いつも慰められ、励まされる。肉の人から霊の人へ変えられていく経過を、共感しつつ見るからである。



いつも失敗してはイエスに叱られていた。常に熱心で思った事はすぐに口に出し行動する。良かれと思ってのことが、結果的には失敗となってしまう。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し、自分だけはと忠誠心を心から誓ったりした。いつも全力投球なのだ。しかし、ユダと同じ裏切りをしてしまう。どうしてこうなってしまうのか。誰でも自分の人生は、一歩一歩自分の足で歩き、身をもって体験し、初めてその意味が分かってくるものである。事の善し悪しだけならば誰にでもわかるであろう。



73回目となる長崎原爆の日の平和記念式典に史上初めて国連事務総長が参加され、次のように語った。「2017年には核兵器の近代化等に1兆7千億ドル以上のお金が武器や軍隊のために使われた。今までの最高額であり、世界中の人道支援に必要な金額のおよそ80倍にもあたる」と。(2018.8.8.朝日)



この世は平和を求めてはいるが、人を殺す武器の力で互いを牽制し合う中でしか、話しも進められないのが現状である。ダビデは3千年も前に「王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。…見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある」(詩篇3316-18)と述べている。



肉と霊の問題なのだ。イエスは霊の次元で語るのだが、ペテロは肉の次元でしかわからなかった。どれほど熱心でも「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う。肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。」(ローマ人への手紙85-6)ペテロはこれが分かったのだ。


























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# by oume-akebono | 2018-09-23 13:00 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 3章7節)     大谷唯信牧師



「今日、あなたがたがみ声を聞いたなら、荒野における試練の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」



主のみ声を聞くにはどうしたらよいのだろう。自分の中に起きる思い、内なる声…どれが自分の思いでどれが神のみ声なのか。その判断は頭で考えても分からない。しかし、聖霊により頼みつつ聖書の御言葉を心で味わい、信じ、自分の心の中で確かなものと信ずることができるまで、確信に至るまで祈るのである。聖書はたくさん読み、流れの全体を知るのも大切であるが、それ以上に大切なのは自分の心に響いた御言葉、自分もそのようになりたいと思えた御言葉を選び、何回も何十回も心で繰り返し、それがその通りだと信じ確信に至るまで、自分の思いとなりきるまで祈り味わう。一つの御言葉によって主を仰ぎ主と共にあり、信ずる信仰によって御言葉が主のみ声であり自分の思いもそれと一つになるように、ご聖霊の助けを願いつつ信仰によって信じ祈るのである。



「聖書は神の約束」「聖書はわたしの信仰」と言い切っていくごとに肉から霊の領域に入り込み、神の臨在に包まれ、自分を見、この世を見る時、そのギャップ、ずれが見えてくる。それが世に対しての生ける証し、メッセージとなるのである。御言葉の霊的世界に深く入るほど語り伝えるべき言葉が湧いてくる。その言葉は霊によって生きた言葉となる。肉の中にあるまま霊のことを語っても、それは単なる知識、情報程度の知識や文字であり、魂を救う力とはならない。「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)。パウロが信仰を通して神からの啓示を受けての神の言葉である。



求める者には誰にでも与えられる。それはイエス・キリストを信じることが入口である。信じるのは自分の意志で決めれば、今すぐでも新しい人生が始まる。自分で決めなければ何十年たっても始まらない。決めることだ。あとはご聖霊が内なる力、声となって、一生導いて共に歩んで下さるのである。



























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# by oume-akebono | 2018-09-16 16:05 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 4章 11節)   大谷唯信牧師



「わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。すれはいえすのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。」



 「強く生きる」とは多くの人が求めているものの一つであろう。しかし得てして霊的ではなく肉的な強さを求め、結果的には自分を失う事になりかねない。「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。(ロマ86)



 パウロはイエスと出会い従い行く中で、次々と生きるいのちの法則を体験的に啓示を受けていくのである。「わたし達生きている者はイエスのために死に渡されている」と語る。もう自分を強くしようとはしない。否、弱い方がよい。自分は無価値な「土の器」に徹する。それは自分の生命を日々十字架に掛けて死に渡してしまう事。もはや、強いとか弱い、できる、できない、自分の都合がどうなのこうなの、信仰が弱くて…等々の次元ではない。そのままの自分をイエスと共にイエスの十字架に手渡してしまっているのである。「いつもイエスの死をこの身に負っている」の意識だ。それは「イエスのいのちがこの身に現れるため」であり、さらに「イエスのいのちが、わたし達の死ぬべき肉体に現れるため」と繰り返している。



 正にイエスの語られた「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」(マタイ1625)のイエスの「命の法則」を見るのである。



これらを実現させて下さるのは聖霊の導きにある。聖霊は十字架を通してのみ働く。肉は正しく力ある働きをしていても、やがてゴルゴダにさしかかると弱くなりついて来られなくなる。

肉の力では神の要求を満たすことはできない。弟子達も「心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ2641)と言われてしまった。しかしこの弱さから、弱さに立ったところから新しい出発があるのだ。十字架の死に立っていることを新たにし、聖霊のキリストに従おうではないか。
























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# by oume-akebono | 2018-09-09 13:30 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 5章27-28節)         大谷唯信牧師



「女はイェスの事を聞いて、群衆の中にまぎれ込み、うしろから、み衣にさわった。せめて、み衣にでもさわれば、なおしていただけるだろうと思ったからである」



 もう駄目だと思い、

とても出来ないと思ったら、

実際に出来ません。

勝ちたいけど、とても勝てないと思ったら、

間違いなく勝てません。

負けると思ったら、負けます。

何故ならば、この世では、成功は、人の意思から始まります。

何もかも心の在り方一つです。

人生の戦いは、いつでも、強くて、抜け目のない者が勝つとは限りません。

遅かれ早かれ、勝つのは、

勝てると思った人なのです。



 これは信仰の法則を示したものである。これをあなたの信念としなさい。あなたは信じた事しか出来ない。出来ると信じたもの以上は、どんなにしても出来るものではない。堅く信ずれば、あなたの信仰は、あなたの想いを実現させてくれる。信仰はあなたの秘められた力を刺激する。信念を信ぜよ、信仰に頼る事を恐れてはならない。自分勝手に決めた限界を自分に押付けてはならない。生命の続く限り信じ続けなさい。そうすればあなたの能力は伸び続けであろう。「何でも祈り求めた事は、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)

(この詩はガラスの教会を建てた有名なロバート・シュラー牧師の恩師ノーマン・ピール牧師のものである)



 力の源はイェス・キリストへの信仰である。世にある可能性思考以上のものだ。キリストの十字架の死による贖いと復活によって私達人類に神の救いが与えられ、その恵みはすでに完成されている。ただ信仰によって得られるのである。



 冒頭の病の女は絶望以外何もない人物を描いている。彼女はイェスの事を耳にし、藁をも掴む気持で「せめてみ衣にでもさわれば治る」と信じて主にふれ、いやされたのである。主は言われた、「あなたの信仰があなたを救った」と。
























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# by oume-akebono | 2018-09-02 15:06 | 週報メッセージ

(詩篇 42篇 5節)        大谷唯信牧師



「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。



主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。



わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。



何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。



アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























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# by oume-akebono | 2018-07-29 17:58 | 週報メッセージ

(詩篇 42篇 5節)        大谷唯信牧師



「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰で苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望にうちひしがれる時があるものだ。弟子達はイエスと共にガリラヤ湖にて船に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、船が沈みそうになった(マタイ4:35-41)。私達の人生に現実を語っているのである。その時イエスとは眠っておられた。弟子達は恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助け下さい。わたし達は死にそうです」と叫んだ。



主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは良かった。しかし主の体に触れ主に寄り頼みながらも主への信仰、即ち主が助けて下さるとの信仰はなかったのである。だから泣き叫ぶ。イエスは波を静め言われた。「なぜ、そんなにこわがるのか。どうして信仰がないのか。」見るまでは信じていなかったからである。



わたし達もこう言う事はないだろうか。求め、寄り頼んでいるのだが信仰がない。願ってはいるのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまう。



何故そうなるのか。信仰を感情の上に乗せているからである。信仰は意志であり決断である。愛も同じである。気分やその時々の感情ではない。それは②の領域の肉に立っているのだ。信仰、希望、愛は④の領域、霊的決断である。



アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。ダビデは失意の中で「わが魂よ、なにゆえうなだれるのか」と自分に呼びかけ「神を待ち望め、わたしはなおわが助け、わが神をほめたたえる」と祈ったことを覚えよう。




≪≪ 私たちを構成する4つの領域のイメージ  ≫≫


       ① 頭 (知識)     |   ② 心 (感情)/魂(良心)


③ からだ(健康)   |   ④ 魂 (霊)  
























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# by oume-akebono | 2018-07-29 17:58 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)      大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」



何と象徴的な奥深い言葉であろうか。迫害下でも真剣にキリストを求めているのに、いつの間にか「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」と言われてしまう状態になっているのである。「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思う」(ローマ人への手紙85)これは普遍的な命の原理である。即ち、霊を求め従っているつもりでも、そこに「敵意、争い、そねみ、怒り・・・」(ガラテヤ人への手紙520)等の思いが出て来るなら、実際は肉に立っているのだ。私達はこの現実を正直に直視しなければならない。



「肉に従う」のは無理からぬ事とも思う。何故ならこの世はすべて肉に支配されているからだ。私達はこの中で生まれ、この中で教育され、今に至っている。私達は肉そのものになっているのだ。肉とは自分中心であり、自分の理解、自分の考え、自分の納得、自分の好き嫌いの世界だ。正しさに於いても、温かさ美しさに於いても自分の思う通りを求める。その根拠は自分の人生経験、自分の知識等であり、結局は自分なのだ。この世はその積み重ねで成り立っている。



これは決して悪い事ではない。当然の事だろう。しかしこれで霊なるキリストを求めてゆくと、「何故、生きた方を死人の中に求めているのか」となってしまう。彼らは自分なりに立って求めているのだ。「その方はここにはおられない」。何と言う事か。おられるはずのキリストがそこにおられない。キリスト不在なのである。



「よみがえられたのだ」。と聞いた時、使徒たちですら「それが愚かな話のように思われて、それを信じなかった」とある。勿論、使徒たちはイエスを愛し信じていたであろう。しかし、「それが愚かな話のように思われて」なのだ。これこそ自分なりの愛であり、自分なりの「信じる」であったのである。



肉に従う者は肉のことを思い」となる。「霊に従う者は霊のことを思う」。切り替えるのだ。日々、自分なりを捨て砕かれて主を仰ぎ主につながる思いを持ち続けよう。これが「霊と真をもって礼拝する」ことになる。これがないと見かけは立派でも、キリスト不在の教会になってしまう。





























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# by oume-akebono | 2018-07-22 17:54 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)          大谷唯信牧師



愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである



これは私達教 会に与えられている神からの成長の約束である。何と感謝なことか。勿論、成長させて下さるのは神御自身である。さらに続いて私達教会への注意が語られている。「私達はもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教えの風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく」(エペ4:14)と言うのである。



この世は肉が支配している。教会の内も外も常に悪の霊に攻められている事を覚えよう。決して油断してはならないのだ。悪魔は有能で熱心な人を利用し、その熱心とその働きから不平、不満を起こさせ問題に発展させるから油断大敵なのだ。私達の教会はこれから主にあって素晴らしく成長する。となると、今いる私達が基礎となるわけではないか。どこの教会を見ても最初の基礎となった人達の信仰の有り方はその後の教会に良くも悪くも大きな影響を与えている。それだけに私達は心してキリストを土台として、キリストを中心に生き生きした信仰生活をおくる必要がある。



この世で健全な信仰を保つには教会なしでは在り得ない教会にしっかりつながり外敵から守られ、教会の交わりの中で教会を建て上げていく働き手になっていく程に神の祝福が流れ込み豊かな成長の恵みにあずかる事になる。これがキリストの成長させる方法なのだ。「もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」(ヨハ15:5)「御霊の実」なのだ。礼拝、みことば、祈りを生活から奪われないようにしよう。



そうするにはどうしたらよいのだろうか。イェスは最も基本的な事を教えておられる。あらゆるクリスチャン生活の原動力となるものである。「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なるあなたの神を愛せよ」(マタ22:37)である。誰もがわかっているようでやっていないのである。もし、やれば、そこにいるだけで神の臨在を感じさせる人になるであろう。
























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# by oume-akebono | 2018-07-15 17:49 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 4章15節)        大谷唯信牧師



「わたしたちは愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。」



放蕩息子の兄は完全なまでに父に忠実に仕え模範的な青年でした。しかし、弟が戻り歓迎されているのを見て腹を立て、家に入ることさえできなかったのです。人が心から謙遜になるのは難しいのです。努力している人ほど難しい。頑張るその自意識の中におごりが入り込むからです。しかも本人はそのおごりには全く気がつかず、自分の謙遜にはしっかりと意識します。努力で頑張っているからでしょう。すると人の高慢さが気になり、許せなくなったりするのです。「私はこんなに謙遜になっているのに、あなたは・・・」のパターンです。



本来、謙遜は自分の謙遜を知りません。むしろ自分の未熟さ、高慢さに痛みを覚え、他を批判するどころか自分の他への申し訳なさでいっぱいです。努力は努力でよいのですが知識と同じく高慢になります。自分の罪深さに心砕けた人のみに開かれる世界なのです。本心に立ち返った放蕩息子は自我を砕かれました。



「父よ、私は天に対しても、あなたに向かっても、罪を犯しました、生意気でした、甘えていました」と心底気づいたのです。自己中心の心が砕かれると見栄、プライド、照れ、恥ずかしさ、弱いとか強いとかのこだわりも吹き飛びます。ただ、申し訳なさと感謝とそれでも生かされている喜びと感動が自然に湧き起こるのです。自我が砕かれた本心の姿がこれです。



誰でもこの砕かれた経験、理屈抜きの心の経験をしなければ本当の自分の人生は深まりません。頭ではなく、霊の心で信じイエスを迎え、キリストと共に十字架に死に主と共に生きる信仰に立つことです。



今は御聖霊の時代です。聖霊が慰め、力を与え支えます。聖霊への信仰をしっかり持ちましょう。御言葉には聖霊が満ちています。「互いにしのび合い、もし責むべきことがあれば許し合いなさい。」これが教会に満ちる時、教会は豊かな成長の恵みを賜り、さらに大いなる道が開かれることでしょう。
























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# by oume-akebono | 2018-07-08 17:45 | 週報メッセージ