(詩篇34:5)   大谷唯信牧師

「主を仰ぎ見て、光を得よ。」



 あなたの目はどこに向けられているのか。主を仰ぎ見るのだ。日々の思いわずらいにいつの間にか暗い心に取り込まれてはいないだろうか。自分の弱さや心の痛みに思わず目がいってしまい、どうしたらよいのかわからない。こういう時こそ、信仰によって祈り、受け止め、信仰の一歩を踏み出すチャンスとして求めるべきではないだろうか。


心を静め、暗い自分から目を離し何もないのだが、信仰によって御言葉に聞き主を仰ぎ見るのである。初代教会がそうであったのだ。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」との御言葉の前に、何をどうしたらよいのかさえわからなかったであろう。イエス様が捕えられ、十字架の死、復活の出来事、天に上げられる主、次々起る受難の出来事に弟子達はすべて整理もつかず、意味も分からず、ただ迫害のただ中で恐れおののいているだけであったろうと思う。


弟子達は市内の泊まっていた屋上の間に上がった。そしてせめて彼らのできた事は「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)とある。


今のわたし達の教会もここが大切な点ではないだろうか。聖霊がくだった時も、「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると…」とある。


かつてイエス様は「もしあなたがたのうちふたりが、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら…:」「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所にはわたしもその中にいるのである」(マタイ18:19)と主の臨在の約束を語っているのである。

これは教会の原点である。個人の能力やリーダーシップでもない。教会に注がれる聖霊の力である。わたし達の教会がさらに生きた教会になるには、ここにヒントがあるのではないだろうか。みんなで考えてほしいのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-31 16:16 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書 4:24)  大谷唯信牧師


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。




「霊とまこととをもって礼拝する」とは、自分の目線ではなく、神の目線で世の中や教会の出来事を見、御言葉と聖霊の導きによって キリストに出会い、従っていくことである。


私達は普通誰もがそうであるように、自分の目線で生きているものだ。しかし、これをある時からキリストによって「神の目線」に切り替え生き始める。これがクリスチャンである。とは言ってもこの世に生き、この世の知恵で生きてきたのであるから、そこに根付く自分の目線はかなり強い。そこを敢えて意識して神の目線に切り替えるには、かなりの心の戦いがあろう。これが信仰の戦いである。ここで大切なことは、御言葉と聖霊の助けによって「神の目線」で見る意識を常に持つことである。


自分の目線のまま神の出来事を見ると、あの律法学者ニコデモのように「どうしてそんなことがあり得ましょうか」となり、行き詰まりである。あの漁師ペテロは「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と正直に告白している。これは泣いても笑っても事実であり、現実であろう。ところが彼はここで終わらなかった。「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と従ったのだ。これは「神の目線」である。


その時は何もわからないが、神の目線の中には行き詰まりはなかった。むしろ無限の拡がりがあったのである。ここでは、妙な争い事や競争はない。御霊の実の世界である。自分の目線の世界は、わかりやすく、納得、理解し易いはずだが、常にもめごと、争い、我慢の世界、肉の働きの世界である。


私たちは余りにも自分の目線で、神の世界を見ようとしていたのではなかろうか。自分の目線のままでは、神の世界は到底見えない。「神の目線」に切り替えよう。パウロも初めからそうなったのではない。神の目線に切り替えられた時があるのだ。神の目線でエペソ人への手紙を読んで欲しい。驚くべき神の世界が、心に見えてくると思う。
祈り、信じ、神の前に頭を垂れ従う者、 ペテロで出発し、パウロの見た世界を見ようではないか。
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# by oume-akebono | 2016-07-24 16:06 | 週報メッセージ

7月10日の午後は、野口日宇満・加奈宣教師ご夫妻をお迎えし、インドネシアでの宣教活動の様子をお話しいただきました。

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報告会の始めは、野口宣教師ファミリーが、インドネシア語で賛美を歌って下さいました。


写真では分かりづらいのですがプロジェクタで沢山の写真を映しながら、気候も文化も違う地での日常生活を含め、インドネシアのクリスチャンだけでなく他国の宣教師の方々とも助け合ってイエス様を伝える御業を、日宇満宣教師、加奈宣教師が交代でお話し下さいました。
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最後は、報告会の記念に参加者全員で。
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これからも、世界中の困難な状況で宣教の業を担う方々のために、私たちは祈りと献金で支えてまいりましょう。

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# by oume-akebono | 2016-07-20 18:21 | 行事

(ローマ人への手紙 12章1節)   大谷唯信牧師

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝である」



 神はわたし達がこの世に於いても豊かに成長するためにキリストの命と聖霊によって教会を与えて下さった。救われ与えられた新しい命は誰でも初めは赤ちゃんである。生まれてすぐ大人になる赤ちゃんはいない。たとえ人生経験の豊かな人であっても霊的命に関しては幼な子なのだ。

 こうして私達は神の導きによって神の子とされ教会とされたのであるがどのように歩めばわたし達、教会が成長できるのであろうか。

 そのために神は聖書を教会に与えて下さったのである。聖書は神の霊によって啓示された神の言葉でありわたし達の命を養うまことの食べ物である。

 教会の成長と私達の成長は一つなのだ。しかも成長は神がして下さるのだがわたし達のすべき事もある。それは私達が祈りの中で御言葉を味わい実践し、自分の体験として証しを持つ事である。つまり自分でやってみて、「この御言葉は本当だ!」と確信をもって言い切れる体験をしてみる事である。心の冒険をしてほしい。聞くだけの者ではいけない。

 冒頭の御言葉はロマ書12章であるが、まず神との交わり、そして人との交わりについて述べられている。自分を豊かに成長させたければ自分独りの有り方だけでは駄目なのだ。他者との関係性の有り方を見なければならない。ごく当り前の事だが実際にやって見ると中々出来ないのである。肝心な事が抜けているからだ。それは神との関係である。これが健全にならない限り他者とは健全にはならないのだ。このロマ12:1に取り組むとその後に語られている人とのかかわりに導かれてくるのである。「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい…」御言葉は信じる者には神の力となる事を知ろう。人からの伝え聞きではなく、主との出来事として主に触れてほしいのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-17 16:19 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 3章6節)   大谷唯信牧師


「文字は人を殺し、霊は人を生かす」


 イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)と語られた。
御言葉によって霊的に成長するには暗記するだけでは駄目である。あの富める青年はイエスに「永遠の命を得るには?」と大切な問いをしながらも、イエスの答えに対して「それは小さい時から知っていますよ」と答えるだけで自分の心を見ることも、耕し深めることもしなかった。知っているという知識が耳を塞いでいることも、イエスの言葉を跳ね返していることにも気付いておらず、イエスの自分に向けられている心のメッセージにも気付かず悲しみながら立ち去るのである。

 神は霊であり、私たち人間も霊的存在として造られているのだ。「神は霊であるあら礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝しなさい」と主が言われるのもそのためである。

 御言葉は読むと言うより御言葉と交わるのだ。読んですぐ実行の前に、交わるのである。御言葉のその光を自分に照らし耕し、吟味し肉の部分を見つけ出しては悔い改め捨てていくのである。あとは御言葉を通し「御心が成りますように」と主に委ね主に期待するのである。「自分で実行するぞ」とばかり決意して頑張らない。頑張ると肉の働きに変化しやすいからだ。

 信仰経験が長く聖書にも通じベテランクリスチャンになると霊の御言葉が文字となり、石に刻まれた化石のような文字クリスチャン(Ⅱコリント3:3)にさえなる事もあるので気をつけよう。

 霊的に成長するのは順調な時より困難、気落ち、無力感に閉じ込められた時が成長のチャンスと言える。パウロは「極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」(Ⅱコリント1:8)とあるが主の訓練はここまで来ると最高の恵みの境地で自由とされる。肉を捨てる決意と祈りに主は御霊を注いで下さるのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-10 16:15 | 週報メッセージ

(IIコリント 3:6)     大谷唯信牧師



「それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」




私達の教会の祈りの第一は「まず自分の内側を整える」にある。それは常に霊性を深める事だ。

私達はクリスチャンになるために信仰告白として水によるバプテスマを受けた。型としては水に沈むバプテスマであるがその信仰の霊的意味は実に深い。それは自分もキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死に、共に葬られ、キリストのよみがえりと共によみがえり新しい命に生かされているとの信仰である。この信仰を深め真実なものにして下さるのが御聖霊である。決して自分の力、自分の行いではない。上からの霊的賜物による。


ところがこの信仰生活をいつの間にか自分の力、自分の思い、自分の都合と言う肉の力で押し進めてしまう人が多い。

パウロはガラテヤ諸教会へ語っている。「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げると言うのか。あれほどの大きな経験をしたことは無駄であったのか。わたしはただ一つの事をあなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか。それとも聞いて信じたからか!」と大変な叱責である。

これは他人事ではない。現在のわたし達の問題でもある。この世は何もかも肉で支配され、国も社会も教育そのものの考え方も生きる価値観も肉でおおわれ、目には見えないがサタンが支配しているのである。


そのクリスチャンに何が足りなかったのか。パウロは指摘している、「十字架につけられたイェス・キリストが、あなたがたの前に描き出されたのに、いったい誰があなたがたを惑わしたのか」と。即ち一人ひとりの内にある「霊的認識の欠如」である。自分の内にある霊性が浅いと、その信仰は理屈と言う文字になってしまうのだ。御言葉は霊の言葉である。文字ではなく霊的認識の事実となるまで祈り求めねばならない。
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# by oume-akebono | 2016-07-09 09:27 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙6:11-12)  大谷唯信牧師



「わたし達の戦いは、血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」



私達の戦う相手はサタン、肉、この世の三つである。教会にしっかりつながり聖霊と十字架との交わりにあるならば必ず勝利する。

サタンの働きは巧妙で常に私達を主の霊から引き離し、「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に取り込もうとする。それは私達の教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向わんとするほど活発に動き出す。もっともらしい理由のもとに互いに争いを起させ、ねたみや党派心を引き起こし分裂の方向へと促す。さらに霊的な事柄においても競争させ比べさせ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを密かに起こさせようとする。教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起させる。


何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現さない。自分の存在を認めさせないためである。その方がやりやすい、自らの意志で動いているように思ってくれるからだ。神を信じないように疑うようにも働く。互いに相手の間違いを原因として争わせるためである。今や世界中がこの手に踊らされ、自分は賢く正しいと思うようになる。サタンは御言葉を用いても争わせる。気をつけよう。霊的高慢というのもあるからだ。


「もし、あなたがたの心の中に苦々しいねたみや党派心をいだいているなら誇り高ぶってはならない。また真理にそむいてはならない。そのような知恵は上からではなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」(ヤコブ3:14-16)と警鐘を鳴らしている。

あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えよう。しかし主は勝利しておられるのだ。救いの確信の根拠は私達の中ではなく神にあるのである。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、わたし達のためにとりなして下さっておられる」のである。自我を捨て御霊に生きよう。
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# by oume-akebono | 2016-07-09 09:23 | 週報メッセージ


(エゼキエル書 37:5)     大谷唯信牧師


「主なる神はこれらの骨にこう言われる。わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。」




預言者エゼキエルは、幻のうちに枯れた骨がいっぱいに満ちた谷に置かれていた。主は命じて「『エゼキエルよ、息に預言せよ、息に預言して言え、息よ、四方から吹いてきて、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ。』そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」 これは、主の大いなる奇跡である。


これは何を意味するのか。主は語られる「これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と」。(エゼキエル書37:11)この幻は、やがてイエスの十字架とよみがえりによって、力尽きた弟子達に聖霊が注がれ、生きたキリストの教会が起こされ、多くの人が救われることによって、実現されたのである。


この大いなる神の恵みは、今や私達青梅あけぼのキリスト教会にも与えられている事を信仰によって受け止めようではないか。神の恵みは、骨は枯れ、望みは尽き、絶え果てるところに注がれている。エゼキエルの時代も、イエスの生きられた時代も、そして我々の住む今も、「枯れた骨」であるが故に恵みを注いでくださるのである。


教会はどのようにして成長するのだろうか。多くの教会は、年度計画、活動計画、伝道計画のあらゆる事業計画のもとに忙しく歩もうとする。これらの活動が、クリスチャンを保障しているかのようである。本当だろうか。私たちは、そのようであってはならない。もっと教会の生命に直接に触れるものにしよう。まず、キリストの霊性を深めよう。これが第一の課題である。どんなに死んでいても、枯れた骨であっても、神の霊は、人を生かすのだ。「御霊によって歩きなさい」。自分の肉を情と欲と共に十字架につけ殺してしまう。即ち私達が十字架に死に御霊に生かされる一人ひとりになることだ。それは、「霊との交わり」と同時に、「十字架との交わり」を信仰によって祈り願う事から始まる。




















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# by oume-akebono | 2016-06-21 08:38 | 週報メッセージ

下記の通り、報告会を行います。
興味のある方はどうぞお越しください。



インドネシア派遣宣教師
野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師
>帰国報告会のお知らせ


主の御名を賛美いたします。2014年夏よりインドネシアで主の働きを始められた野口日宇満宣教師。翌年2015年3月にはお子さんを出産された佳奈宣教師もお子さんと共にインドネシアに赴任。世界最大のイスラム教国での福音宣教をすすめておられます。一時帰国に伴い、全国諸教会で日本バプテスト連盟宣教部主催による定期帰国報告会が開催されています。青梅あけぼのキリスト教会では、特別に機会をいただき、下記のとおり報告会を予定いたします。幼い頃に抱いた夢であった世界宣教を、様々な障壁を乗り越えて実現されたことは、ご本人はもとより多くの方々の祈りに神がこたえてくださったことと、確信いたします。報告会ではメッセージのご奉仕を通して、多くの青年たちに神の国に対するビジョンが与えられ、また私達一人一人の信仰が新たにされることを祈ります。この恵みを多くの方々と分かち合いたいと願っておりますので、是非お越しくださいますよう、ご案内いたします。


野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師
帰国報告会


日時  2016年7月10日 (日) 15:00~16:30
  場所  青梅あけぼのキリスト教会 (日本バプテスト連盟)

〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3  ☎0428-76-0634
     最寄駅:JR青梅線 日向和田駅 徒歩8分  ★駐車場あり
※事前申し込みは不要です

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# by oume-akebono | 2016-06-20 14:52 | お知らせ

皆さまこんにちは(^^)

あけぼのキリスト教会教会学校では、
このたび初の試みとして『賛美リーダー研修会』を開きました。


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教会の礼拝、教会学校、またその他開かれる多くの各集会において、
私達クリスチャンには「賛美」は欠かせないもの。
そして賛美をリードする者が少しずつ増えていく中、原点に立ち返って、
「賛美」の意味、人に与える力、賛美を通してどうやって主と深い関係を築いていくことか、
などを学ぶ場が与えられました。


今日の学びは
第一部 : 相山早苗姉による賛美の学び
      証し (相山喜祈兄)
第二部 : グループに分かれて分かち合い
第三部 : 賛美をささげよう(プレイズ3曲)
      メッセージ (谷口圭太兄)

大きく分けてこの三部に分けて行いました。


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『詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌を歌いなさい。』
                     (エペソ5:19)

心からの感謝と喜びをもって、主に賛美と礼拝を捧げる・・・
賛美に対する思いが深められた学びでした。感謝。


























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# by oume-akebono | 2016-06-19 01:06 | CS(教会学校)便り

あけぼの教会での色々。

その① おひるごはんがおいしい~♪


あけぼの教会のおひるごはんは、当番数名がローテーションで作ります。
基本的には一人で買い物をし作りますが、もちろん日曜日の朝にはご飯作りをお手伝いしてくれる兄弟姉妹が来てくれて、一緒に作ります。

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ご飯当番はほとんどが教会のおばちゃん達が担当しているのですが、この日は唯一、お兄さん(笑)
調理師免許を持っている高野兄が腕をふるって『ガパオご飯』を作ってくれました。
さすが、若いだけあっていつも「がっつり系」の珍しい献立です。
高野兄、おいしかったです!ごちそうさまでした!
メニューは毎週変わります。毎週礼拝後に兄弟姉妹と楽しく語らいながら頂くお昼ごはん・・・どうぞ一緒に召し上がっていってくださいね!





その② 託児あります

初めて教会にお子さん連れて来られたり、まだバプテスマを受けて日が浅く、子供と一緒だと礼拝に参加しづらい・・・そんな親子のために、別室にて託児をしています。


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基本的に託児は未就学児対象ですが、お父さんお母さんと礼拝に出席できそうな子にはどんどんチャレンジしてもらっています。奉仕スタッフは2名。託児も礼拝です。





その③ 暑くなったらすぐに『カキ氷』~~!!


はい!あけぼの教会にはカキ氷機があります!教会のものです!そして「今日は暑いなぁ~」と誰かが思ったある日曜日から、「もういい加減カキ氷は寒いよね」と誰かがつぶやく初秋のころまで、ほぼ毎週日曜日の午後、カキ氷が食べられます。

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カキ氷といえば小林はるか姉。はるか姉のかいてくれる氷は特別にふわふわな感じがします。
みんなで話し合いをしたり、草むしりをしたり、教師会でキャンプの計画を練ったりした後のカキ氷は格別です。






その④ 掲示板


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教会前の道に面した掲示板・・・お気づきでしょうか?
最近リニューアルしました。まだまだ少しずつ手を入れています。
教会や教会学校、あけぼのプレイルームからのお知らせ、幼稚園からのお知らせなど、最新のものを掲示しています。また消しゴムはんこで作った御言葉は、週替わりで変化しているのでどうぞご覧くださいね!





以上、あけぼの教会のいろいろ・・・今年度第一弾でした!(T)
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# by oume-akebono | 2016-06-13 18:46 | 教会あれこれ♪

(コリントⅡ 4:7)       大谷唯信牧師

「わたし達は、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであってわたし達から出たものではない」



わたし達はイエス・キリストによって救われた。今迄のすべての罪は全く贖われ神の子として迎えられたのである。しかし罪を犯さない完全な人間になったのではない。相変わらず思いわずらったり、腹を立てたり自信がなくなったりする。神の前にはキリストと共に死に新しくされた者として受け入れられているが、現実この世では体は生きており肉の影響も前と同様受けているのである。だから主は助け主として聖霊を与えて下さり神と人との交わりを深める成長の場として教会を起し、私達をキリストの体とし、頭をキリストとして下さったのである。


聖霊は「わたし達教会」に注がれているのであってわたし個人ではない。ここを間違わないようにしよう。教会から離れ個人が霊的成長する事はない。それをすすめるのはサタンだけである。気をつけよう。キリストは十字架の救いの事業を私達を召し教会とし、この教会に託されたのである。主は御自分の教会を通して私達を聖霊の器として育て日々の生活の当り前の中でも主の証し人として用いられるのである。


私達は無力な欠けだらけの土の器であるがその中にはこの世にない「宝」が入れられている。この宝は現代社会にあっても不可欠のものであり、本当はすべての人が心の奥に必要を感じているものである。私達は自分がもっと立派にならなければとか、資格がないとかの次元ではなく、神が今の私達を召して下さった事を信じ感謝し、現状は見るもののそこから一歩、さらに信仰によって「私達は見えるものにではなく見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠である」(Ⅱコリント4:18)との御言葉に立ち、まず神との信頼関係を築く事を第一とするのである。神からの輝く宝を持ち続ける時、自分で意識しなくともその光はまわりに輝き隣人に影響を与える。この自然の流れの中で私達は主の証人とされていくのである。主と共に大胆に歩もう。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:31 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書 4:24)   大谷唯信牧師

「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」


 神は命の根源であり霊の御方である。礼拝する私達も霊と真実とをもって礼拝すべきである。習慣や惰性ではなく今始めての新鮮さで自分のまごころを神に向け心からの感謝を捧げよう。神の御心を求める謙虚な祈りである。そうすれば御聖霊がその思いを整えて真実なものとして下さる。礼拝は単に説教を聞くのではない。礼拝のすべて(讃美、祈り、捧げ物…)を通して、肉の思いをさぐられ、悔い改めを促され、新たな献身の決意に導かれる時である。



「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思う。肉の思いは死であるが霊の思いはいのちと平安である」(ロマ8:5-6)。自分の空しさを知り、主の十字架を仰ぎ主の御心に従う思いを持つ時、注がれる神の恵みを知るのである。霊は理屈を超えたいのちの世界であるから主を信じる信仰によって開かれてくる。しかしサタンも働くから気をつけねばなるまい。彼は霊の事を肉で理解し、肉で霊の事を語らせ満足させてしまうように導く。イエスの十字架の福音は主の霊の出来事である。これを教理として知識として理解し納得して受け入れる。


つまり自分の理解度が信仰の中心になっている信仰で満足させてしまうのである。これはまだ幼な子の信仰である。かたい食物は食べられない、つまり、自分が理解できない出来事にぶつかるとすぐつまずいたり機嫌を損ねたり教会に来なくなったりする。幼い事は決して悪くはない。誰でも始めは幼いのだ。幼な子がいるのは教会の喜びである。幼な子は必ず成長するからだ。しかし、何年たっても幼な子だとしたらどこか間違っているのだ。これに気づくのが成長である。サタンは巧妙で熱心な幼き人をその働きのなかでつまずかせたりする達人である。気をつけよう。しかし私達はそのつまずきからも信仰によって学び成長する事ができるのだ。御聖霊が慰め励まし共にいて下さるからである。霊とまことをもって礼拝しよう。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:26 | 週報メッセージ


(ガラテヤ人への手紙 5:16)  大谷唯信牧師

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」




現代はいよいよ御霊(神の命)によって生きる事が不可欠と言うほど現実的な問題になって来た。人間は誰も基本的には肉(自己中心)の存在であるから社会が豊かになり教育、文化が進めば、人間の欲望、犯罪もますます悪くなる一方ではなかろうか。エゴは自分の欲望が満たされる時幸せを感じ満たされないと不幸を感じる。自分の思い通りになると自由を感じ、そうならないといら立つのである。面白くないのだ。



御言葉は御霊によって歩くならば、決して肉の欲を満たすことはないと語っている。
これは人間を動かす二つの力、即ち「肉」と「御霊」なのだ。この二つは常に自分の中で自覚しておく必要があろう。


まず肉の働きである。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、及びそのたぐいである」(ガラテヤ5:19)。これは誰でも自分の中に身近にあるのでわかりやすいと思う。これは本当の自分ではなくてエゴに支配されている自我に働く悪霊からのものである。この世はこれによって支配されているから人間なら当り前と言う感じにさえなっているのが現実であろう。


もう一つは「御霊」であり真実の自己である自分の霊に注がれて来るキリスト(神)の命である。これはイエスを信じる信仰を通して私達の霊に注がれてくるキリストの命であり私達の霊を生かし心も体も活性化する力をもっている神からの賜りものである。決して自分からのものではない。それが「御霊の実」となって私達の内に実を結んで下さるのである。その「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であってこれを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22)とある。しかも素晴しいことは「肉の欲するところは御霊に反し、御霊の欲するところは肉に反する」そのため「二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分で(肉)でしようと思うことを、する事ができないようになる」(ガラテヤ5:17)のである。霊によってからだの働きを殺す時、真に生きる者とされるのである。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:21 | 週報メッセージ


(使徒行伝 2:4)        大谷唯信牧師

「みんなの者が一緒に集まっていると……一同は聖霊に満たされ……」




無力な弟子達に約束どおり聖霊が注がれた。「ただ聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使1:8)が始まったのだ。「ただ聖霊がくだる時」の「ただ」とは、どんな「悪条件があろうともそれらをすべて超えて…」ということである。わたし達もこの聖霊を今の出来事として信じようではないか。聖霊は神の霊であり、神の生命である。ここから教会が始まった。当時は弟子達にとっては最悪の困難な状況であったであろう。しかし教会の働きは聖霊なる神の生命によって前進した。組織でもなく制度でもない。人の知恵からくる主義主張でもない。ただ神の生命である聖霊によって、しかも一人一人の中から始まる新しい霊的革命となった。


現代は病んでいる。人々は精神的に乾ききっている。恐れ、怒り、不安、利己主義という病気である。小学校の学級崩壊どころではない。今や、地球崩壊、社会崩壊、人格崩壊にまで及ぶ兆しが全世界に現れているではないか。この世はやたらに忙しく動いている。気をつけよう。まず主の日が奪われ祈りが奪われる。霊的貧困は自覚のない中で襲って来る。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩きまわっている。この悪魔に向い、信仰にかたく立って抵抗しなさい」(Ⅰペテロ5:8)とペテロは語る。


この世はサタンの支配下にあることを忘れてはいけない。確かにわたし達はキリストによって救われている。だからこそサタンにねらわれるのだ。冒頭の御言葉が示すのは「みんなの者が一緒に集まっていると」とある。サタンは教会の群れから離れた者に襲いかかる。油断してはいけない。「霊に燃え主に仕える」ことを祈り求めよう。初代教会の力の秘訣を見い出そう。富める青年やニコデモのようにわかってしまう信者にならないようにしよう。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:13