(ガラテヤ人への手紙 5:16)  大谷唯信牧師

「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」




現代はいよいよ御霊(神の命)によって生きる事が不可欠と言うほど現実的な問題になって来た。人間は誰も基本的には肉(自己中心)の存在であるから社会が豊かになり教育、文化が進めば、人間の欲望、犯罪もますます悪くなる一方ではなかろうか。エゴは自分の欲望が満たされる時幸せを感じ満たされないと不幸を感じる。自分の思い通りになると自由を感じ、そうならないといら立つのである。面白くないのだ。



御言葉は御霊によって歩くならば、決して肉の欲を満たすことはないと語っている。
これは人間を動かす二つの力、即ち「肉」と「御霊」なのだ。この二つは常に自分の中で自覚しておく必要があろう。


まず肉の働きである。「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、及びそのたぐいである」(ガラテヤ5:19)。これは誰でも自分の中に身近にあるのでわかりやすいと思う。これは本当の自分ではなくてエゴに支配されている自我に働く悪霊からのものである。この世はこれによって支配されているから人間なら当り前と言う感じにさえなっているのが現実であろう。


もう一つは「御霊」であり真実の自己である自分の霊に注がれて来るキリスト(神)の命である。これはイエスを信じる信仰を通して私達の霊に注がれてくるキリストの命であり私達の霊を生かし心も体も活性化する力をもっている神からの賜りものである。決して自分からのものではない。それが「御霊の実」となって私達の内に実を結んで下さるのである。その「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であってこれを否定する律法はない」(ガラテヤ5:22)とある。しかも素晴しいことは「肉の欲するところは御霊に反し、御霊の欲するところは肉に反する」そのため「二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分で(肉)でしようと思うことを、する事ができないようになる」(ガラテヤ5:17)のである。霊によってからだの働きを殺す時、真に生きる者とされるのである。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:21 | 週報メッセージ


(使徒行伝 2:4)        大谷唯信牧師

「みんなの者が一緒に集まっていると……一同は聖霊に満たされ……」




無力な弟子達に約束どおり聖霊が注がれた。「ただ聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使1:8)が始まったのだ。「ただ聖霊がくだる時」の「ただ」とは、どんな「悪条件があろうともそれらをすべて超えて…」ということである。わたし達もこの聖霊を今の出来事として信じようではないか。聖霊は神の霊であり、神の生命である。ここから教会が始まった。当時は弟子達にとっては最悪の困難な状況であったであろう。しかし教会の働きは聖霊なる神の生命によって前進した。組織でもなく制度でもない。人の知恵からくる主義主張でもない。ただ神の生命である聖霊によって、しかも一人一人の中から始まる新しい霊的革命となった。


現代は病んでいる。人々は精神的に乾ききっている。恐れ、怒り、不安、利己主義という病気である。小学校の学級崩壊どころではない。今や、地球崩壊、社会崩壊、人格崩壊にまで及ぶ兆しが全世界に現れているではないか。この世はやたらに忙しく動いている。気をつけよう。まず主の日が奪われ祈りが奪われる。霊的貧困は自覚のない中で襲って来る。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩きまわっている。この悪魔に向い、信仰にかたく立って抵抗しなさい」(Ⅰペテロ5:8)とペテロは語る。


この世はサタンの支配下にあることを忘れてはいけない。確かにわたし達はキリストによって救われている。だからこそサタンにねらわれるのだ。冒頭の御言葉が示すのは「みんなの者が一緒に集まっていると」とある。サタンは教会の群れから離れた者に襲いかかる。油断してはいけない。「霊に燃え主に仕える」ことを祈り求めよう。初代教会の力の秘訣を見い出そう。富める青年やニコデモのようにわかってしまう信者にならないようにしよう。
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:13

(ガラテヤ人への手紙 5:16)  大谷唯信牧師



「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」




教会のエネルギーの源泉は御霊である。御霊によって歩んでいる教会は、状況がどういうものであっても、豊かに成長し続ける。私達の教会は、このような霊的成長の教会を願い信じているのである。理想的理論ではなく、現実の私、現実のあなたが、本当に豊かに霊的に成長しているかどうかの問題である。


これは絶対におろそかにしてはならない点だ。何故なら、私達の働きや奉仕がいつの間にか、肉によるものになってしまう傾向があるからである。私は大丈夫と思っている人ほど危ない場合がある。実にこの肉がわたし達を得意にさせたり、落ち込ませたり、教会から離れさせたりする。しかし肉にある時は、自らこの肉に気がつかない。それどころか、自分の一生懸命の中で、固く信仰に立っているとさえ思えてしまうから困るのである。


勿論、聖書も読み、祈りもする。だがどこか慣れてしまって、自分なりになっており、その心の奥の思いの中に、秘かに根差している肉の動機に気付かないのである。御霊によって霊の目が開かれてくると、自分の肉の奥が見えてくる。だが、それをまたうっかり肉で制しようとするから、いつの間にか肉の働きに移行してしまうのだ。生死にかかわる様な余程大きな問題となって初めて気付いたりするが、その時は被害甚大となっていたりする。


これらは、クリスチャンの成長過程で、誰もが経験するところであるが、私達クリスチャンは幸いなことに、聖霊のとりなしと導きを求めつつ、肉の自分を捨てることが出来るのだ。ペテロは「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである」(ペテロの第一の手紙2:1-2)と語る。


自分で治そうとするのではなく、主の前に悔いて捨てます、と告白していく。すると御霊がとりなして下さる。(ローマ人への手紙8:26)私達は御霊によって主と共に歩むことが出来る。御霊こそが命を吹き込んで下さる力である。そして御霊に委ねた時、平安が来る。こうして私達は、御霊によって世の光とされ、私個人ではなく、ひとつの生きた教会とされ、霊的に成長していくのである
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# by oume-akebono | 2016-06-13 16:07 | 週報メッセージ

(使徒行伝 2章4節)        大谷唯信牧師


「みんなの者が一緒に集まっていると……一同は聖霊に満たされ……」



 無力な弟子達に約束どおり聖霊が注がれた。「ただ聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使1:8)が始まったのだ。「ただ聖霊がくだる時」の「ただ」とは、どんな「悪条件があろうともそれらをすべて超えて…」ということである。

わたし達もこの聖霊を今の出来事として信じようではないか。聖霊は神の霊であり、神の生命である。ここから教会が始まった。当時は弟子達にとっては最悪の困難な状況であったであろう。しかし教会の働きは聖霊なる神の生命によって前進した。組織でもなく制度でもない。人の知恵からくる主義主張でもない。ただ神の生命である聖霊によって、しかも一人一人の中から始まる新しい霊的革命となった。

現代は病んでいる。人々は精神的に乾ききっている。恐れ、怒り、不安、利己主義という病気である。小学校の学級崩壊どころではない。今や、地球崩壊、社会崩壊、人格崩壊にまで及ぶ兆しが全世界に現れているではないか。この世はやたらに忙しく動いている。気をつけよう。まず主の日が奪われ祈りが奪われる。霊的貧困は自覚のない中で襲って来る。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩きまわっている。この悪魔に向い、信仰にかたく立って抵抗しなさい」(Ⅰペテロ5:8)とペテロは語る。

この世はサタンの支配下にあることを忘れてはいけない。確かにわたし達はキリストによって救われている。だからこそサタンにねらわれるのだ。冒頭の御言葉が示すのは「みんなの者が一緒に集まっていると」とある。サタンは教会の群れから離れた者に襲いかかる。油断してはいけない。「霊に燃え主に仕える」ことを祈り求めよう。初代教会の力の秘訣を見い出そう。富める青年やニコデモのようにわかってしまう信者にならないようにしよう。
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# by oume-akebono | 2016-05-22 16:10 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 1章17節)    大谷唯信牧師


「主なる栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」


 「何をしているかわからないのです」と十字架上の主は言われた。本来見えるべきもの、見なければいけない真実が見えていないと言う事だ。「目あれど見えず、耳あれど聞こえず」と言うことである。この世はアダム以来、「自分の知恵によっては神を認める」事が出来なくなったのである。


「それは神の知恵にかなっている。そこで神は、人々が言う『宣教の愚かさ』によって信じる者を救うこととされた」(コリントⅠ1:21)
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかし私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントⅠ1:25)
「学者はどこにいるか、この世の論者はどこにいるか」とパウロは語る。
パウロ自身すべての知識に通じ神に対し確信を持って行動したが、キリストに出会ってはじめて目が開かれ、神に反逆する者であったことに気付くのである。


 今や、この世は危うい。
 どんなに平和が唱えられ、人類愛が説かれ、高い理想が掲げられても罪が支配するエゴからは抜け出すことが出来ないのだ。毎日の凶悪な事件、事故、戦争等々の現実に対してこの世の識者たる人々が社会を憂い、分析し声高らかに政治、行政、教育について評論しつつ犯人捜しをし熱く語るが、その繰り返しでしかない。我々もその中の一人になっている現実を見なければならない。これらは政治、社会、教育の問題以前の人間の問題、即ち、人間の内面にある罪の問題として取り組む以外にはないのではないか。


私達人間個々の問題である。これを知るのはクリスチャン以外には手の打ちようがないと思う。「義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て無益な者になっている」(ロマ3:10-12)これらの答えは教会に与えられた福音の中にあることを見ようではないか。それは初代教会の歩みの中に示されているのだ。ここに働く聖霊なる神と共に歩む時見えてくるものだ。
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# by oume-akebono | 2016-05-08 02:20 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章1節)    大谷唯信牧師


「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」


 とにかく、クリスチャンとして歩んでいる者は罪に定められることはない。その根拠は十字架のキリストにある。


 だが、自分の信仰の弱さ、その確信の無さ等に不安を感じる方もおられると思う。それも当然である。この世は神から離れサタンの支配の中に落ち、すべてが肉の力で動いているのだ。その中をクリスチャンとして霊に歩むにはそれなりの戦い方が必要だ。だからイエスは「この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と勝利宣言をなさってわたし達を励ましておられる。


 自分の弱さに嘆く事はない。神の救いは私達の罪も弱さも大きく包み込んで下さっておられる。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したのである。」(ロマ8:2)


 パウロもペテロもヤコブも始めから信仰の確信を得たのではなかった。皆、同じ失敗をし、皆同じ入口から確信を得ている。それは何か、失敗は自分の力で確信を得ようとした事、成功はそのどん底に落ちたからからこそ自分のどうしようもない罪をしっかりかかえ神に持ち出し、さらに神に迫った事だ。ヤコブは「祝福してくれる迄あなたを去らせません。夜明けまで組み討ちした」(創32:24-26)。パウロは「善をしようとする意志は自分にあるがそれをする力がない」と正直に認め、自分が罪の奴隷であるみじめさのどん底から「誰がこの死のからだから私を救ってくれるのだろうか」と主を仰ぎ見て自分を全託したのである。決して受身ではない。


「入口」は自分の罪のどん底にあったのだ。そこで十字架の主にお会いしたのである。十字架のキリストに出会う入口はどこか。自分の罪のどん底にあったのだ。安易な慰めは初心者の玄関口だ。「本もの」を得る入口はもう一歩奥にある。「罪の増し加わったところに恵みをますます満ちあふれた」(ロマ5:20)


 ここで気づかされるのはクリスチャンとは罪の激しい自覚と救いの確信は矛盾せず御霊によって一つとされ、ますます信仰の確信が与えられ生きた教会にされていくことである。
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# by oume-akebono | 2016-05-01 02:27 | 週報メッセージ

(ペテロの第一の手紙 2章1-2節)       大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである」


「まず自分の内側を整える」これは私達が「教会の祈り」として第一番目に上げている課題でもある。「まず」とはイェスの語られた「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればそれらのものはすべて添えて与えられる」と同じく「神第一」の生活を言う。ここには神の大きな祝福と神の守りがあるのである。あたかも親子の関係のようにナチュラルなのだ。何故なら「神は人を御自身のかたちに創造された」(創1:27)、即ち神が霊であられるように私達人間も霊的存在として造られたのである。


神の霊とつながると御霊の実が私達の中に豊かに実ってくる。御霊の実とは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラ5:22)の九つの実である。これは信仰によってイェスにつながると誰にでも流れ込んでくる命である。自分の働きや努力によってではなくイェスを信ずる信仰によって与えられる上からの賜物なのだ。神は私達にこれらの御霊の実を与え満たしたくてしょうがないのだ。今年度は私達はしっかりこれを受け取ろうではないか。


アダム以来、人はサタンの誘惑によって神中心の存在を自分中心のエゴにしてしまった。霊的存在から肉的存在におちてしまいそれが普通になってしまったのである。肉は人を罪に対して盲目にする。イェスが十字架上で「彼らは自分で何をしているかわからないのです」と身をもって許しを願ったのもそのためである。


パウロもイェスに出会って初めて肉の罪が見え「肉に従う者は肉のことを思い」「肉の思いは死である」ことがわかった。イェスによって霊の目が開かれたからである。ペテロも同じだ。示された罪は祈りの中で捨てるのだ。自分で治そうとするのではない。イェスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたではないか肉は捨てイェスを信じる。あとは「御霊みずから、言葉にあらわされない切なるうめきをもってとりなして下さる」。罪からの解放である。
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# by oume-akebono | 2016-04-24 03:41 | 週報メッセージ

休日を除く毎週月曜日には、赤ちゃんとお母さんお父さんが楽しく過ごせるプレイルームが開かれています。
最近は、お父さん(イクメンでしたっけ?)が来て下さることが増えました!

たくさんのおもちゃで自由遊びをした後は、お集まりの時間。
絵本の読み聞かせや、手遊びなどをみんなで一緒に。
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先日は、園庭の桜(そめいよしの)が咲き始めたので、お花見をしました。
テーブルのお菓子は、スタッフの手作りもあります。
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今、園庭は八重桜がきれいです。
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# by oume-akebono | 2016-04-21 17:12 | 教会ホットニュース!

(ペテロの第1の手紙 2:1-2)       大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである。」


 新年度を迎え今日は教会総会が行われる。だからと言って何か特別な事を企画し盛大に行うということではない。今まで祈り求め進めてきたことを振り返り、私達がキリストの体としてさらに生きた教会に成長し、私達一人一人がそれぞれの分に応じて「世の光」「地の塩」とされ、主の証し人にならんとする決意を新たにするのである。


私達の教会には「教会の祈り」として五つの祈りが示されている。その一番最初には「常にまず自分の内側を整える」とある。外側ではなく内側なのだ。人も教会もそして社会も腐るのは内側からである。この一番さえ満たされてくれば、あとの課題は必ず実現する。


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」(ルカ24:5)。とても考えさせられる言葉だ。弟子達は決して不真面目ではなかった。真剣であり、命がけでもあった。しかし死人の中に求めてしまうことになる。以前のパウロ、ペテロも同じである。前者はイエスを迫害し、後者はイエスを裏切ることになった。実に狭き門と言えよう。両者とも自分の肉の力によって行動していたのだ。律法ではなく福音であっても教えとして受け、自分の力で全うしようとすると善意であってもやがて肉の働きとなり、不平、不満の産物となる。


「内側を整える」とは自分の内側の霊性を深めることである。と言っても、自分で霊性を深めることはできない。できることはペテロが述べているように肉の思いを捨てることだ。肉は霊に従うほどよく見えてくる。それでも捨てきれない肉の自分が見えた時、パウロは砕かれた。砕かれた深さに霊性の深さは比例する。霊性は砕けた者への賜物である。それは非常に個人的だが同時に普遍的な力である。


これからの私達の教会の課題は、一人一人が霊的相互牧会の実践者になる事ではないか。これが私達の求めるバプテスト教会である。
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# by oume-akebono | 2016-04-17 15:34 | 週報メッセージ

2016年度CS教師任命式

本日4月10日は、第1礼拝で「教会学校 生徒表彰式・進級式」が、第2礼拝では「教会学校教師任命式」が行われました。
毎年年度初めに行われるこのセレモニー、「生徒表彰式・進級式」で子ども達は昨年度のCS出席回数に応じて、皆勤賞、精勤賞、努力賞を頂きます。「教師任命式」では、今年度子ども達の霊的成長を支える先生方が任命されます。
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# by oume-akebono | 2016-04-10 15:38 | CS(教会学校)便り

(ペテロの第一の手紙2:1-2) 大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 」



 これはペテロの言葉である。イエスを裏切ったペテロである。イエスの十字架の直前、最後の晩餐となった夕食の時、ユダの裏切りが発覚し一同衝撃の思いの中、ペテロは思い余ってか「主よ、あなたのためには命も捨てます」と宣言するのである。しかし「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われ、その通りになってしまった。誰がそれを攻める事が出来ようか。皆、動揺し同じ気持ちがあったに違いない。ペテロはイエスを愛していた。愛するが故に必死に自分の気持ちを正直に告白したのであろう。


 しかし、現実に直面すると余りにも弱かった。これが私達の現実でもあろう。
イエスは以前に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)と言われた。しかしどんなに必死になっても出来ないのである。そのペテロが立ち直ってペテロの手紙を書き記しているのだ。その一行一行には、彼の失敗があったからこその人間味あふれる暖かい愛情と、絶大な深いイエスの愛に生かされている無上の喜びが伝わって来るではないか。一体何がそうさせたのか。私達はそれを知らなければならない。


 それにはこの世にある教育、訓練ではない。銀や金のような朽ちる物によったのでもない。「それはキリストの尊い血によったのであり天地の造られる前から知られていた事である」とペテロは語る。その命に触れたのだ。その命は、今ではそれを信じた者には誰にでも与えられると主は語る。これこそ「聖霊」である。聖霊の助けによったのだ。ペテロは上の御言葉を述べた、聖霊の助けの中でこれを実践する。即ち、自分を捨てて聖霊の助けを求め主に従う信仰である。その信仰と望みは、自分ではなく「神にかかっている」(1ペテロ1:21)のだ。今年は聖霊の助けによって霊的信仰を求めようではないか。
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# by oume-akebono | 2016-04-10 15:31 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 1:8-9)  大谷唯信牧師


「真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は…その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」


 多くのクリスチャンが感じている問題は、イエスを信じバプテスマを受けたにもかかわらず、いまだに心の内にある秘かな肉の思い、肉の働きの罪が取り切れないという現実の、罪意識ではなかろうか。どんなに表面を繕って、快活に明るく振る舞っても、良心が痛み出す。そこで「自分は駄目だ、不信仰だ、駄目クリスチャンだ」と自分を責めてしまう。これは不安である。


 そこで二つのタイプが出てくる。一つは諦めて何となくやめてしまう人、二つ目は不安を自分の熱意と力で乗り越えようと、犠牲的精神を発揮して、他者のため、教会のために奉仕をし、その遣り甲斐の満足感や、他者が喜んでくれることを喜びとする人である。だが、その動きが止まったり、思うような反応が周りから返って来ないと、落ち込んでしまう。だからまた走り続ける。やっていること自体は悪いことではないのだが、どこか違うのである。


 昔のイスラエルの民も熱心に求めたが、得られなかった。それは「信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。」(ローマ人への手紙9:32)と、パウロは語っている。また「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、…神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」。(ローマ人への手紙10:2-4)とも述べている。


 わたしたちはキリストを信じる信仰で救われたはずなのに、御言葉を自分の力で行い、実践しようとしているのではないだろうか。イスラエルの人々は年ごとにいけにえを捧げる儀式を行った。罪の自覚が無くなるはずが、無くならなかったからである。(ヘブル人への手紙10:1-3)。


 私たちも聖書やイエスの言葉を教訓として受け取っていたなら、折角の福音が律法になってしまうだろう。罪を見出したらイエスを信じる信仰によってそれを認め、告白すること。これが大事なのである。そうすれば御子イエスの血がすべての罪から私達を清めるのである。自分で直すのではない。許し清めて下さるのは、主御自身であるから、主に任せるのである。自分は何もしない、してはいけない。そうすれば、罪悪感から100%解放される。
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# by oume-akebono | 2016-04-03 15:27 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 3:12)    大谷唯信牧師


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」


 何と印象的な奥深い言葉であろうか。どんなに熱心でも「生きた方を死人の中に求めている」状態になってしまうのだ。これら命の出来事を聖書ではすべて霊的出来事としている。近頃、病人や老人に対するケアに於いてもスピリチュアルと言う言葉が聞かれるようになって来たようだが、よく考えて見ればわたし達のいのち、また聖書で言う心の罪、愛、哀しみ、孤独等々すべて人間性に関する事はスピリチュアルケアという霊的領域ではなかろうか。とするならば教会は勿論のこと家庭、学校、職場、いわゆる人間の居る所はすべてスピリチュアルケアの必要性から見れば無くてはならない働きと言えよう。これは聖書の教えそのものである。


聖書の人間観はまず動物的存在、精神的存在であるが最も大切なのは霊的存在と言う事である。つまり人間は神に似せて造られ神と共に在る神中心の霊的存在であったが、神から離れ自己中心の肉的存在になった。霊と肉の二つの領域に生きる者としているのである。


「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4:4)とイエスは言われたが肉のパンだけではなく霊の食物をとる必要を語っているのだ。又、「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思う」(ロマ8:6) 
肉の働きは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ・・・」、それに対し、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:19-23)としている。


 現代社会の混乱の原因は人々が肉によって動いている事にある。教育や社会の在り方の前に私達一人ひとりが正しい霊の命に立ち返る事である。肉にあるならば生きた方を死人の中に求める結果になるからである。よみがえりのキリストの命に生きることから始まる。
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# by oume-akebono | 2016-03-27 15:10 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20)   大谷唯信牧師


「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」


キリストの十字架の死と復活は「我が罪のため」と信じて告白した時、神の力が私達を支えて下さるのだ。自分の中で思っているだけでは何も起こらない。信じての一歩、その瞬間から神の力が注がれ御霊が命となって私達の中に住んで下さるのである。キリストの名によって神の子とされるのである。


信じる信仰によってキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に復活して生きる。これを大胆に信じようではないか。人間の理解を超えた出来事であるから信じるしかない。むしろ理解できるならやめた方がよい。大したものではない。わからないから信ずるのだ。わかろうとするのではなくそのままを信ずるのである。すると十字架のキリストこそ神の最高の愛であることがわかる。キリストの命の中に深く生きようとするなら背のびするのではなく、さらに深くキリストの死の中に自分を沈みこませるのである。


多くの人がここで信仰の確信を得ようとしてもっと信じようと力を入れ信じこもうとする。それは逆である。カラ廻りするだけだ。キリストと共に生きようとするなら日々キリストと共に死ぬ決意で歩むのだ。その時々の喜びだ、不安だ等の感情に左右されてはいけない。ただ祈りをもって十字架に死ぬのである。その時は当然、引き上げて下さる時は必ず神がなさって下さると確信をもって飛び込むのであって自分で自分を助けようとしてはいけない。勿論そこ迄したくないと言うならそれでもよいがそれなりにしかならない。中途半端だからである。要はキリストと共に死線を越える覚悟から始まる事を覚えてもらいたい。サタンは常に十字架から引き離し愛とゆるし、正義等を語らせる。イェスが救い主として立つにはカルバリが必要であった。私達も同じである事を覚えよう。
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# by oume-akebono | 2016-03-20 01:02 | 週報メッセージ

2016年3月13日  神の愛

(ヨハネの第1の手紙 4:8-10)  大谷唯信牧師


「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。」 


人間は何故罪を犯すのか。毎日報道される
いろいろな犯罪、事件は年々老若男女、多種多様であり、実に凄惨なものが多いように思う。昔と比べ教育の場もあり、経済的にもあらゆる面で豊かになっている筈である。学識経験もあり社会的地位もあり金銭的にも恵まれている者も、全て関係ないかのように問題を起こしているのが現実である。
法律と刑罰の対処で間に合うのだろうか。


勿論、犯罪になる以前の教育、環境の整備、精神医学、心理学、行動科学等の専門家による分析、配慮も行われている事であろう。しかしこれらで本当に解決につながるのであろうか。
聖書によるならば人間が罪を犯すのはそんな持って回った言い方はしていない。ただ一言、それは人間が罪人だからであると断定している。教育、心理学、精神分析等の表層的な問題ではないのだ。


もっと人間の本質、根源的な存在そのものにメスを入れ取り組ませるのである。それは余りにも深く不思議で人間の知恵や科学では全て手の届かないものなのだ。罪とは生命と同じく具体的で日常的なものであるがその根源は神の霊的領域のものである。人間の浅知恵では全く歯が立たないのだ。いつまで人間は自分の分をわきまえないのだろうか。この姿こそ罪そのものから出ているのであるが。
神からの啓示である御言葉は語る。

「すべての人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23) 
「罪の値は死である」
「義人はいない、ひとりもいない」
「すべての人は迷い出て、無益なものになっている」(ロマ3:10,12)
「すべての人間は神の前に義とせられない」(ロマ3:20)

これらの御言葉が現す罪の根源とは何か。それは神を信じない事、神を知らない事、神を無視している事である。この世のどんな重罪よりも重い罪がこれなのである。すべての罪は重いここから出ているのである。このままでは、全人類が滅びる事になる。しかし神はこの罪をわたし達に負わせるのではなく御自身の独り子イエスに負わせ救いの道となって下さった。これによって生きるようにして下さったのである。
これが神の愛である。
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# by oume-akebono | 2016-03-13 03:59 | 週報メッセージ