(ヨハネの第一の手紙 1:8-9)  大谷唯信牧師


「真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は…その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」


 多くのクリスチャンが感じている問題は、イエスを信じバプテスマを受けたにもかかわらず、いまだに心の内にある秘かな肉の思い、肉の働きの罪が取り切れないという現実の、罪意識ではなかろうか。どんなに表面を繕って、快活に明るく振る舞っても、良心が痛み出す。そこで「自分は駄目だ、不信仰だ、駄目クリスチャンだ」と自分を責めてしまう。これは不安である。


 そこで二つのタイプが出てくる。一つは諦めて何となくやめてしまう人、二つ目は不安を自分の熱意と力で乗り越えようと、犠牲的精神を発揮して、他者のため、教会のために奉仕をし、その遣り甲斐の満足感や、他者が喜んでくれることを喜びとする人である。だが、その動きが止まったり、思うような反応が周りから返って来ないと、落ち込んでしまう。だからまた走り続ける。やっていること自体は悪いことではないのだが、どこか違うのである。


 昔のイスラエルの民も熱心に求めたが、得られなかった。それは「信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。」(ローマ人への手紙9:32)と、パウロは語っている。また「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、…神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」。(ローマ人への手紙10:2-4)とも述べている。


 わたしたちはキリストを信じる信仰で救われたはずなのに、御言葉を自分の力で行い、実践しようとしているのではないだろうか。イスラエルの人々は年ごとにいけにえを捧げる儀式を行った。罪の自覚が無くなるはずが、無くならなかったからである。(ヘブル人への手紙10:1-3)。


 私たちも聖書やイエスの言葉を教訓として受け取っていたなら、折角の福音が律法になってしまうだろう。罪を見出したらイエスを信じる信仰によってそれを認め、告白すること。これが大事なのである。そうすれば御子イエスの血がすべての罪から私達を清めるのである。自分で直すのではない。許し清めて下さるのは、主御自身であるから、主に任せるのである。自分は何もしない、してはいけない。そうすれば、罪悪感から100%解放される。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-04-03 15:27 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 3:12)    大谷唯信牧師


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」


 何と印象的な奥深い言葉であろうか。どんなに熱心でも「生きた方を死人の中に求めている」状態になってしまうのだ。これら命の出来事を聖書ではすべて霊的出来事としている。近頃、病人や老人に対するケアに於いてもスピリチュアルと言う言葉が聞かれるようになって来たようだが、よく考えて見ればわたし達のいのち、また聖書で言う心の罪、愛、哀しみ、孤独等々すべて人間性に関する事はスピリチュアルケアという霊的領域ではなかろうか。とするならば教会は勿論のこと家庭、学校、職場、いわゆる人間の居る所はすべてスピリチュアルケアの必要性から見れば無くてはならない働きと言えよう。これは聖書の教えそのものである。


聖書の人間観はまず動物的存在、精神的存在であるが最も大切なのは霊的存在と言う事である。つまり人間は神に似せて造られ神と共に在る神中心の霊的存在であったが、神から離れ自己中心の肉的存在になった。霊と肉の二つの領域に生きる者としているのである。


「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4:4)とイエスは言われたが肉のパンだけではなく霊の食物をとる必要を語っているのだ。又、「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思う」(ロマ8:6) 
肉の働きは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ・・・」、それに対し、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:19-23)としている。


 現代社会の混乱の原因は人々が肉によって動いている事にある。教育や社会の在り方の前に私達一人ひとりが正しい霊の命に立ち返る事である。肉にあるならば生きた方を死人の中に求める結果になるからである。よみがえりのキリストの命に生きることから始まる。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-03-27 15:10 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20)   大谷唯信牧師


「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」


キリストの十字架の死と復活は「我が罪のため」と信じて告白した時、神の力が私達を支えて下さるのだ。自分の中で思っているだけでは何も起こらない。信じての一歩、その瞬間から神の力が注がれ御霊が命となって私達の中に住んで下さるのである。キリストの名によって神の子とされるのである。


信じる信仰によってキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に復活して生きる。これを大胆に信じようではないか。人間の理解を超えた出来事であるから信じるしかない。むしろ理解できるならやめた方がよい。大したものではない。わからないから信ずるのだ。わかろうとするのではなくそのままを信ずるのである。すると十字架のキリストこそ神の最高の愛であることがわかる。キリストの命の中に深く生きようとするなら背のびするのではなく、さらに深くキリストの死の中に自分を沈みこませるのである。


多くの人がここで信仰の確信を得ようとしてもっと信じようと力を入れ信じこもうとする。それは逆である。カラ廻りするだけだ。キリストと共に生きようとするなら日々キリストと共に死ぬ決意で歩むのだ。その時々の喜びだ、不安だ等の感情に左右されてはいけない。ただ祈りをもって十字架に死ぬのである。その時は当然、引き上げて下さる時は必ず神がなさって下さると確信をもって飛び込むのであって自分で自分を助けようとしてはいけない。勿論そこ迄したくないと言うならそれでもよいがそれなりにしかならない。中途半端だからである。要はキリストと共に死線を越える覚悟から始まる事を覚えてもらいたい。サタンは常に十字架から引き離し愛とゆるし、正義等を語らせる。イェスが救い主として立つにはカルバリが必要であった。私達も同じである事を覚えよう。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-03-20 01:02 | 週報メッセージ

2016年3月13日  神の愛

(ヨハネの第1の手紙 4:8-10)  大谷唯信牧師


「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。」 


人間は何故罪を犯すのか。毎日報道される
いろいろな犯罪、事件は年々老若男女、多種多様であり、実に凄惨なものが多いように思う。昔と比べ教育の場もあり、経済的にもあらゆる面で豊かになっている筈である。学識経験もあり社会的地位もあり金銭的にも恵まれている者も、全て関係ないかのように問題を起こしているのが現実である。
法律と刑罰の対処で間に合うのだろうか。


勿論、犯罪になる以前の教育、環境の整備、精神医学、心理学、行動科学等の専門家による分析、配慮も行われている事であろう。しかしこれらで本当に解決につながるのであろうか。
聖書によるならば人間が罪を犯すのはそんな持って回った言い方はしていない。ただ一言、それは人間が罪人だからであると断定している。教育、心理学、精神分析等の表層的な問題ではないのだ。


もっと人間の本質、根源的な存在そのものにメスを入れ取り組ませるのである。それは余りにも深く不思議で人間の知恵や科学では全て手の届かないものなのだ。罪とは生命と同じく具体的で日常的なものであるがその根源は神の霊的領域のものである。人間の浅知恵では全く歯が立たないのだ。いつまで人間は自分の分をわきまえないのだろうか。この姿こそ罪そのものから出ているのであるが。
神からの啓示である御言葉は語る。

「すべての人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23) 
「罪の値は死である」
「義人はいない、ひとりもいない」
「すべての人は迷い出て、無益なものになっている」(ロマ3:10,12)
「すべての人間は神の前に義とせられない」(ロマ3:20)

これらの御言葉が現す罪の根源とは何か。それは神を信じない事、神を知らない事、神を無視している事である。この世のどんな重罪よりも重い罪がこれなのである。すべての罪は重いここから出ているのである。このままでは、全人類が滅びる事になる。しかし神はこの罪をわたし達に負わせるのではなく御自身の独り子イエスに負わせ救いの道となって下さった。これによって生きるようにして下さったのである。
これが神の愛である。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-03-13 03:59 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 8:8,13) 大谷唯信牧師


「主よ、・・・ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。  ・・・『行け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。」



単純な信仰に主の力は働く。信仰とは望んでいる事柄が既に実現したと確信することである。もし目で見えたら、信ずる必要はないだろう。信仰とは、見えなくても、感じなくても、触れなくとも、全能なる主なら出来ると信ずることだ。生まれつきの考えと、信仰とが最も激しく戦うのが、ここであろう。私達の心の中が、理性と信仰による御言葉との、激しい戦場となるのだ。


このローマの軍人百卒長はイエスのもとに来て、自分の僕が病に苦しんでいる事を訴えた。イエスはすぐ彼の家に行こうとされたが、それを留めて「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、・・・僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。と言った。イエスは「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」、と大変喜ばれ、冒頭の御言葉を述べたのである。


人は常識や理性の考えの下に信仰を置いてしまう。百卒長はそれらの上に信仰を置いたのだ。弟子のトマスは、わたしは見なければ決して信じない、と言ったが、イエスはこれを喜ばなかった。信仰は理性や常識の上に置く、即ち、信仰の根拠は神の言葉を信ずる信仰のみであるのだ。神に対しては一切の理屈、感覚抜きである。復活のイエスはあのトマスに「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。と言われている。


クリスチャンになってからも同じである。御聖霊はさらに罪に目を開くであろう。これを何とかしようと苦しんでしまう人が多い。罪の自分は日々キリストの十字架にかけ、キリストと共に死ぬ信仰に委ねるのである。罪のわたしではなくて、十字架のキリストを見るのである。わたしはキリストと共に十字架で死んだ。今やキリストがわたしのうちに生きている、との信仰を宣言しようではないか。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-03-07 00:56 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 3:12)    大谷唯信牧師



「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」
 


「それ」とは「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」ことである
心に渇きを覚え、さらにイエスの霊なる命に満たされたいとの願いが起きる。それはそれ自体すでにイエスに捕らえられているのだ。イエスを信じバプテスマを受ける、その時から聖霊は私達に注がれ、ある時、さらに召し、成長させるために渇きを授かる。「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)ためである。


自分の自己中心の罪や汚れが今まで以上に見えたり、クリスチャン以前より悪い人間になっていると思えたり、到底自分のようなものはクリスチャンとしてふさわしくないと絶望的になったりする。以前の満たされた喜びや平安は消え去り、暗い中で自分の弱さばかりが見え教会にも行けない思いが襲ってくる。必死でそういう自分から抜け出そうとするのだがどうにもならない。実にこれが神の召しの霊的成長の始まりなのだ。主が取り扱っておられる。主の訓練である。今までの救いについての学びは他の人から聞き教えられたものだ。それは入門でありきっかけである。


主は信仰を与え、暗きを通し主の訓練の中で、さらに召しのための導きが始まるのだ。だから逃げてはいけない。ヤコブのように一人残されて、自分の罪と直面し、キリストの十字架を見上げ、すべての罪を一つ一つキリストに預け、「祝福して下さるまでは離しません」と取り組み、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる救いの秘儀を信じる信仰で必死に願うのである。そうすればあなたはイエスのいのちの実体に出会う事になろう。これを求める事自体すでに主イエスに捕らえられているのだ。これ得る者が一人でも多くある事を祈っている。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-02-28 03:53 | 週報メッセージ

(歴代誌下20:15)    大谷唯信牧師


「恐れてはならない。おののいてはならない。これらはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだかである」


人生での戦いとは何か。仕事、学業、家庭生活、病気等々、あらゆる出来事が人生での戦いと思う。当面、目の前にある生活での戦い、困難や逆境との戦いがある。では、救われるとこれらの困難や苦しみがなくなると言うのか。そうではない。これらと戦う事によって神と出会い、神の命を得、それらの意味を示され勝利するのである。


「この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイェスは言われた。イェスは十字架の贖い主となられ罪と死から勝利されこれを信ずる者には誰でもこの勝利が得られる道となって下さった。ここで言う勝利とは自分の自己実現とか有名になった等のこの世で言う成功者になる事ではない。それ以上にすばらしい事である。即ち、私達を罪と死の恐れの中に閉じ込め私達を支配しているサタンに勝利し自由になる事だ。


私達の究極なる敵はこの世でも目に見える相手ではなく、それらを動かしているサタンである。ほとんどの人がそれを知らないために互いを敵視してしまう。だからパウロは語っている、「私達の戦いは血肉に対するものではなくもろもろの支配と権威とやみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)と。勝利はキリストによる神との和解から始まる。それはキリストを信じる信仰によって得られる。なぜならその時、すでに戦いは「主の戦い」になっているからだ。


しかも、ここで大切な事はこの勝利の約束は私達「教会」に与えられた恵みであり、決して私個人ではない事だ。これらの事をパウロは自らの研究で得たのではない。神の啓示によって知ったのである。そして「キリストの神、栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように」(エペソ1:17-18)と祈っている。私達も勝利はすでに与えられている事を啓示によって知ろうではないか。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-02-21 03:50 | 週報メッセージ

(創世記 32章24節 )        大谷唯信牧師


「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 」


 信仰生活は日々聖霊の助けによってのみ支えられる事を知ろう。聖霊なしの信仰は頭での知識と理解だけであって生きてはいない。律法的であり教条的である。本人は真面目で几帳面に頑張っていても、次第に初めの感動は失せ、無味乾燥となり重荷とさえ思えるようになってくる。孤独で暗く無気力になったり、実に辛いものだ。だがこれは霊的に次の成長段階に行くべきサインでもあるのだ。


神は時に、自分を支えているあらゆるものを取り外すことがある。自分の健康、能力、得意とする賜物、仕事、家庭、自分を支えているはずの信仰でさえもである。全て何もない無力の中に落とし込む。


「ヤコブはひとりあとに残った」とある。彼は賢く、さらに神の特別な祝福を受け、何をやっても成功し、莫大な財産と家庭を得て家族と共に故郷へ帰ろうとしていた。しかし途中、兄エサウが自分を殺そうと待ち受けている事を知り、恐れ、兄の怒りを和らげるため莫大な貢ぎ物を車に、一群、二群、三群と先に行かせ、最後に妻と子供を行かせる策を講じた。それでも恐れは消えず一人だけヤボクの渡しに残ったのであった。 彼は恐れと不安の中で自信もプライドも失い、家族や全ての財産をも切り離して、闇の夜をひとりぼっちで死の恐怖の中に取り残されていたのである。


ところがこの最悪の晩こそが最高の栄光ある出来事が起きた晩となった。「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」。 ここに神との出会いが起きたのだ。彼はこの世で全きひとりとなって真正面から自分の実情、苦しみ、悲しみ、弱さ、罪深さを正直に自分の存在そのものだけになって神に叫び訴え、泣き、呻き、「主よわたしをあわれんで下さい、祝福して下さるまではあなたを離しません」と神に願うまでになった。


主の前に自分を捨て、得ではなく損を取ったのだ。全託でもある。主の御心の中に自分を浸し沈めていく、「そうすれば主が高くして下さる」(ヤコブ4:10)
これが霊的人生の法則である。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-02-15 15:22 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 4章24節)     大谷唯信牧師


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



 神は霊的存在である。眼で見たり手で触れたりすることはできない。私達人間も同じく霊的存在として造られ、神とはぶどうの木とその枝の関係のようにつながっている時、豊かに御霊の実がみのるのである。もし離れているならば御霊の実はみのらず肉の働きとなってしまう。


神は私達を、そして教会も聖霊の命によって生きるものとしてくださった。それ故にパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)と語っているのである。


私達は、イエスを救い主と信じ信仰生活が深まると共に、自分の中にある肉の働きを自覚するようになった。救われる前は霊が死んでおり肉のみで生きているため肉が当たり前であるからそれが普通と思えてしまうが、イエスが聖霊となって自分の中に宿り霊の命が与えられてくると、肉の働きがしっかりと見えてくるのである。


ロマ書8章では、自分の中に肉と霊の自覚を常にもつことを教えている。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」「肉にある者は、神を喜ばせることが出来ない」と次々と肉と霊について述べられている。


箴言4章では「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」と述べている。サタンが常に働き、肉の中を歩ませようと働きかけているからである。サタンの働きは一つ、信仰をもたせない事、神と私達を引き離し霊の油を絶つ事なのだ。


また信仰の確信に立っている者をも増長させ、いつの間にか肉による確信に立たせてしまう事も簡単にする。
御霊によって目を覚まし、自分の心を見張り常に主を見上げる事である。御言により絶えず祈り、御霊の導きの中で互いに兄弟のために祈り合う交わりには、神の勝利と平安が満ちるのである。神はあなたがそのような器となる事を願っておられるのだ。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-02-07 15:15 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 6章33節)    大谷唯信牧師


「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」


 神を知るにはどうしたらよいのだろうか。多くの人は神は存在するか否か?と考えるのではなかろうか。そのために本を読む、人の話を聞く、教会に行く、聖書を読む、さらに深く知りたい人は専門書、神学書までの学びをしていく。どれも決して間違ってはいない。


しかし、色々努力し取り組んでも、満足するような思いには中々なれない。何故だろう。それはアダムのように、知識で分かろうとしているからだ。自分の頭で考え理解し、納得しようとしているからである。
この世のことはこの姿勢が必要であろう。しかし、神を求めるには、この方法は全く役に立たないのである。イザヤは語る「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される』。」(イザヤ書29:13-14)


パリサイ人パウロは自らの救いの体験の中で示された事を述べている。「知者はどこにいるか、学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」。 (コリント人への第一の手紙1:20-21)。


いかがであろうか。神を知る唯一の方法は、それほど難しいものではない。勿論、教会も聖書も学び、交わり、祈ることも必要であろう。しかし、一番大切なことは、「神を信ずる」ことなのだ。すべての学びも探求の努力も「神を信ずる」中で意味が出てくる。わかってから信じようとする人は、人生がわかってから生まれようとする胎児のようなものだ。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイによる福音書18:3)と主は言われる。


まだ信じることが出来ないという方も、意識して信じて乗ってみることだ。冒険である。そして「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書6:33)の神を信ずるのである。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-31 15:10 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 4章16節)     大谷唯信牧師


「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、即ち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。」


 神は常に人を選び用いて御自分の救いの働きを進められる。決して神単独ではなさらない。どんな時にも人を用いてなさるのが神のやり方なのだ。神は人の心の内に語りかけその人の人格を重んじその人の意志、決断を促し信仰によって歩むように導かれる。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:1-2)


アブラハムはこの約束の言葉を信じてこれを実行したのである。二千年後のヘブル書には「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)と記している。聖書が啓示する本来の世界、本来の人間の命、その力を神の霊なる命の領域から出るものでありその入り口は信仰なのである。


現代は目で見える物理的世界、封建社会から民主社会、平等、多数決、個人の権利、一致、平和等々といろいろ論じられるが結局は黒か白かの戦いであり灰色でしかないこの世はこれが現実であり、どんなにあがいても空まわりであり出られない。


しかしここからの脱出が聖書が示すアブラハムの信仰なのである。論外の世界だ。「彼はこの神、即ち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。およそ百才となって彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うような事はせずかえって信仰によって強められその約束は必ず成就すると確信した」(ロマ4:17-21)のである。私達もすべてを信仰による行いとして取り組もうではないか。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-24 15:05 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 10章15節 )     大谷唯信牧師


「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。


イエスの最初に語った宣教は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。ところが「世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)とある。確かに祭司ザカリヤもパリサイ人の指導者ニコデモも、この世は分からなかったのである。そういう現実を主は神に感謝し「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」と語っているのである。


富める青年が主のもとを悲しみながら去った時、イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは何とむずかしいことか、それより、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われている。と言うことは、全く不可能と言うことではないか。弟子達は驚き「それでは、誰が救われることが出来るのだろう」とイエスに問うた。これは私達教会にとってもクリスチャンにとっても大変な事ではないだろうか。
イエスは彼を見つめて答えられた「人には出来ないが、神には出来る。神には何でも出来ないことはない」と。


即ち、「この世の知恵ある者、賢い者には隠して、幼な子にあらわして下さった。」「誰でも幼な子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」。しかもこれは神の御心にかなった事としているのだ。
わたし達はそろそろ気付かなければならない。神の国の出来事(教会の出来事すべて)は、難しく考えるのではなくて、幼な子のような素直で単純な信仰の出来事にした時、神御自身が聖霊の力となって可能にして下さると言うことである。自分ではなく「神成し給う」の信仰、「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」(マルコ11:23)との信仰である。聖書には不可能を可能にする信仰が満ちている。今年はこの信仰に信仰をもってチャレンジしようではないか。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-18 14:59 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)      大谷唯信牧師


「わたしは命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」



 パウロは自分の無力さの中で御霊の助けを願いつつ十字架の主を仰いだその時目が開かれた。それが神の力となって自分に迫り、満たされ「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Iコリ1:18)との確信に至ったのである。


「十字架の言」とはわたし達を罪から救い出すための十字架の死をもって贖って下さったキリスト御自身の事であり、滅び行く者とはそれを信じる事の出来ない者の事である。それは自分の知識を優先しているのである。人はアダムが知識の実を食べて以来、今でも知識を求め続けているのだ。聖なる神の律法ですら知識として受け、取り組んでいたのである。


 パウロは語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「わたしは、彼らが神に対して熱心である事はあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。


なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」(ロマ9:31-10:4)。これは実に重大な言葉である。パウロの失敗体験そのものでもあったからだ。「律法の義については落ち度のない者であった」(ピリピ3:6)と断言するほど完璧であったがそれが故にイェスを迫害する者となってしまったのである。


この世の知識は肉であり真理に対しては眼をふさぐのである。富める青年のように「それらの事は小さい時から守っております」となる。実に知識は人を驕らせ盲目にする。ニコデモ、ザカリヤも同じであった。多くの人が気づいてないのだが、いくら神の言葉であっても知識の領域で受け取るならば力どころか弊害なのである。


私達は自分の無力さを認め聖霊に依り頼み祈る。「主なし給う」の信仰で歩もう。信仰は祈りと聖霊と御言葉によって生きたものになるのである。これが御霊によって歩く事であり霊と真とをもって礼拝する事になるのである。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-10 09:10 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書16:15-16) 大谷唯信牧師


「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受けた者は救われる。しかし、不信仰な者は罪に定められる」



新年を迎えての最初の主日である。今年はどんな志をもって歩もうとしているのだろうか。各自それぞれの課題や計画に取り組もうとしておられると思うが、同時にキリスト者としては常に世の光、地の塩としての務めが主から託されている事を覚えよう。それがイエスの「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」の世界宣教への祈りとなる。野口日宇満牧師は昨年インドネシアに宣教師として旅立ったが、「全世界に」とは外国に行ってとの事だけではない。国内、国外、隣人、家族、すべての人々という事である。私達は全世界を視野に入れながら日々出会う方々に福音を伝え救いを知らせる責任を主からあずかっているのである。これは自分の力でするのではない。主が私達の祈りと信仰に応じて御聖霊を注いでくださり、私達を主の器として用い行ってくださるのである。


私達は自分の救いで留まるのではなく、主の器として主の御心を求めつつ用いられることを願おうではないか。そこに自らの成長と人々との新しい出会いがあることを体験しその喜びを分かち合いたいのである。


御聖霊は求める者に注がれ、次のように新しい心を下さる約束がある。
①清き汚れなき心(詩篇51、マタイ5:8)
②砕けた悔いた心(詩篇51:17)
③低い心(マタイ11:29)
④霊の人(ガラテヤ6:1)
⑤信仰の確信(ヘブル10:22)
⑥聖別された潔い心(コロサイ3:12)
⑦神にかたどれる心に立ち返るよう日々祈る
⑧罪より開放された心(ロマ6:7,22)
⑨罪を憎む心(詩篇97:10)
⑩上よりの愛に満たされた心


神は私達にこれらを御聖霊によって与えてくださるのである。イスラエルの民は何故失敗したのか。信仰によらず自分の力で取り組んだからである。受胎告知を受けたマリヤの応答に信仰の原点を見る。私達もここに立とうではないか。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と神の御言葉に従った。ただそれだけである。それが信仰の原点なのだ。
今年はこれを学び深め共に歩み、主からの恵みを豊かにいただこうではないか。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-07 03:35 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書6:63)   大谷唯信牧師


「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である 」。


今年の最後の主日礼拝を迎えた。一年を振り返ると沢山の感謝、反省そして新年に向けての新たな思いが出てくると思う。私達は、それら全ての自分の行動を、神の栄光のため、また人の徳を高めるためと、霊的目標を定めて取り組もうではないか。自分の力で出来るかどうかではなく、信仰の出来事として、取り組むのである。


あの受胎告知を受けた時のマリヤを思い起こしていただきたい。信仰を複雑化してはならない。信仰は単純な方が良い。理屈ではなく本気でぶつかれるからである。マリヤは「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。と驚きの中にも非常に冷静に現実を直視し、事実に直面している。思いもしない事が起きた時、「ひどく胸騒ぎがして何のことであろうかと思いめぐらしていた」。むやみやたらに悲鳴をあげたり、懐疑的になったのでもない。


これはなかなか出来ない事ではなかろうか。しかも御使いによって、これは聖霊の働きであることが解き明かされた時、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と従順であった。正に信仰の原点である。それに比べ祭司ザカリヤは「どうしてそんなことが私にわかるでしょうか」と答えている。彼は自分で分かろうとしていたのだ。自分の経験と能力で分かろうとしている。これは信仰ではない。マリヤは分かろうとしたのではない。御言葉に従おうとしたのだ。


聖書は語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、律法に達しなかった。何故か。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「彼らは神の義を知らないで自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったから」とある。私達も御言葉に従う時、自分の力で行うのではない。まず信仰によってキリストに従い、「お言葉通りに」の心で立つ事である。目新しいものを求めるのではない。御言葉に向かう自分の心姿勢、信仰姿勢を新しくするのである。
[PR]
# by oume-akebono | 2016-01-07 03:30 | 週報メッセージ