人気ブログランキング | 話題のタグを見る

青梅あけぼのキリスト教会 omeakebono.exblog.jp

青梅あけぼのキリスト教会 日本バプテスト連盟 牧師 : 大谷唯信 副牧師 : 森元國文 〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3 ☎︎0428-76-0634


by oume-akebono
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31

(ローマ人への手紙 12章 1節)     大谷唯信牧師



「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」



今日は気分がいいとか悪いとか、落ち込んだ、イラだっている、やる気がない、祈れない等々の気分に振りまわされている人が何と多いことか。そんな事はどっちでもよいのだ。生きていれば近頃の天気のようにいきなり雨が降ったりやんだり、雷が鳴ったり地震があったりで何でもありが人生である。自分にしがみついてはいけない。自分を解放し手放すのだ。「自分の命を得ようとする者は失い、捨てる者が得る」とは命の原則である。私達は仕事をするのも休むのも、飲むのも食べるのも、生きるのも死ぬのも主のため、とパウロは語っている。



即ち、私達は日々、生活の出来事に向かっているわけだが単にそれをしているのではない。それらを通して神と出会い、神への応答として神のためにしていると言う意識(信仰)を持つ事が大切なのだ。普通の人はただ仕事をし自分のため、人のため、金のためで生きている。私達はすべての事がそこで留まらず、何をしていても神のため、神の出来事として行うと言う意識に持っていく、自分とか人とかの次元ではなく神との出来事としての信仰によって取り組むのである。



するとサタンは「そのような信仰が本当にあるのか」「あなたは聖なる供え物となっているのか、もう少し準備をしてからにしたら…」等ともっともな事を言って足を引っぱるから気をつけねばならない。そんな事はどうでもいいのだ。現実の有りのままの自分をそのまま主の前に投げ出し、主を拝していく、その時主がそれを聖め生きたものとして下さるのである。自分で自分を聖める等できる訳がないではないか。ただその信仰で心を尽して主に捧げていくのである。



自分にしがみついてはいけない。自分を手放す程に聖霊が入り信仰の世界は拡がり確実なものになってくるから不思議である。


























# by oume-akebono | 2019-06-23 18:24 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章5~6節)    大谷唯信牧師



「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」



私達クリスチャンの一番の力は、「いのちと平安」が与えられている事である。これは自分で造り出すものではなく上から与えられるものなのだ。自分の空しさを知り主イェスを仰ぎ望む時いつでも注がれ「いのちと平安」を味わい楽しむことができる。



これはクリスチャンならではの特権ではないだろうか。しかしこれが意外と失われている人が多い。しかもその自覚が無いのが特徴である。諸教会のほとんどの問題は霊の事を肉でやっているために起きている。しかもそれに気付くどころか、霊にいると思っているから問題は深くなる一方である。これなら世の人と何ら変わらない。もし霊にあるならば、自分は肉にあるのではないか?との自分への問いと痛みが出てくるものである。そうすればいつでも霊に切り替える事ができるのだ。



私達は御霊によって歩こうではないか。いのちある者は必ず成長する。死人でいれば何年たっても成長は無い。信仰も同じである。私達は世の人に、いのちと平安に満ちた生活を見せてあげようではないか。すでに「地の塩」、「世の光」とされているのだ。信仰生活が重く苦しい時がある。肉に傾いている時だ。だからこそ、日々新たに、霊から霊に歩む者となろう。



















# by oume-akebono | 2019-06-16 18:21 | 週報メッセージ

6月9日 神の力を得よ

(コリント人への第一の手紙 1章 18節)  大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。」


どんなに立派な人間であっても、神の目から見るならば、不完全、未熟で罪深き者であろう。それなのに「我に罪なし」と言い張る者、又、罪は認めても、神の前に悔い改める程の事ではない、まあ自分なり正しくやっていけば良いのだと思っている人を「滅び行く者」と聖書は言っているのである。



このような人は、自分は正しいという前提の中に身を置き、神ではなく自分を中心にしているので、一寸した厳しい事を言われたりすると、腹を立てたり、心を閉じたり、献身的にやっていても、ポンと投げ出したりするものだ。被害者意識になりやすい。



未熟な信仰も同じ事がいえる。だから、絶えず御言葉の光に照らしての自己診断が必要。肉の実を見つけたら大胆に捨て、主に従う事だ。その度に十字架の言が神の力となってくる事がわかる。
















# by oume-akebono | 2019-06-09 15:17 | 週報メッセージ

6月2日 根源的な問い

(使徒行伝 16章30節)     大谷唯信牧師



「わたしは救われるために、何をすべきでしょうか。」



自殺しかけた獄吏が囚人パウロから声をかけられ、思わず口から出た問いであった。



人間だれでも、順調に何事もうまくいっている時より、嵐に遭い船が沈みそうになった時、希望の光は消え、絶望するしかない時のほうが、このような問いが出るものである。この問いこそ、人間としての根源的な本質的な価値の深い問いなのだ。自分の存在そのものが揺さぶられる時に起こる問いである。



しかし、少しでもうまくいけると思えている時は、なかなかこのような問いまでは出て来ないものだ。そのうちに何とかなってしまえばなおさらである。しかし、問題は未解決のままなのだ。そして今や、この未解決にしてきた多くの問題が、全国で吹き出しているのではなかろうか。これを人はまたもや国や制度の問題と言う。しかしそれは違う。人間の問題である。人間の罪の問題なのだ。獄吏の叫びは無意識にしろ、罪からの根源的な問いなのである。私達もこの問いを大切にしようではないか。



















# by oume-akebono | 2019-06-02 15:13 | 週報メッセージ

5月26日 人生の逆転

(ヨハネによる福音書 3章3節)    大谷唯信牧師



「…だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。



今や、政治、経済、教育とあらゆる面で改革が迫られ、テレビでの国会中継にも、今迄になく真剣さがあるようにも思える。しかし、世界の改革は個人からと言うように、私たち一人一人の内面の変革なくして、どうして国の変革があるだろうか。



変革は相手ではなく、まず自分なのだ。もしも、ここで教育行政が何とかなったならば、いじめ、不登校、自殺等が治るとでも言うのだろうか。そんな事はあるまい。これらは行政とか学校の在り方以前の、個々人の在り方の問題であり、現在それが崩れてしまっている事にある。



我々クリスチャンは、この事に一番気づいている筈だ。しかし、今一つ弱い。何故か。あの放蕩息子の兄のような信仰生活をしているからではないか。まじめで、一見、模範的だが弟の帰還により本性が出る。弟は自らの罪業に追い込まれたお陰で砕かれ、結局、本心に目覚めていく。



人生は常に「逆転」なのだ。だから面白い。





















# by oume-akebono | 2019-05-26 15:00 | 週報メッセージ