(マタイ 16:24)       大谷唯信牧師


「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」



「人のふり見て我がふり直せ」との昔からのことわざがある。「反面教師」との言葉もある。又「人の上見て我が身を思え」もある。どのような人、状況にあっても、ただ眺めているだけでなく自分に照らして自分と取組めと言う事であろう。そうすればすべての人から尊い学びを受けることが出来るのである。「我以外皆我が師」と言う事になる。


人生は傍観者であってはならない。御言葉を教訓的に受け取ってのクリスチャン(信仰生活)であってはならない。どんなに一所懸命で真面目であっても何一つ変らないからである。
信仰生活を何年もしているのに心の内に平安もなく喜びも湧いて来ず、常に他の人に励まされ支えられなければ信仰による救いの確信がないという方は自分の心を正直に見てその問題点を発見する必要がある。どこか勘違いしている点があるはずである。どんなに熱心でもピントがずれたままの熱心では実を結ばないからだ。


あの富める青年は人前でイエスに走りよりひざまずき「永遠の命を得るためには何をしたら良いのですか」とたずねた。正に謙虚で真面目な好青年であろう。しかしイエスが律法の教えを説かれた時、「先生、それらの事はみな小さい時から守っております」とさわやか答え他に何かありますか、教えて下さいと言う態度であった。パウロもイエスに出会う前は同じ自称完成者であったのだ。ユダヤ人全部がそうであった。パウロはキリストの光の中で吟味した時、初めて自分の意志や思いに関係なく「わたしは罪の奴隷、罪人の頭と叫ぶ程目が開かれたのであった。どうであろうか。わたし達もパウロと同じく「わたしは罪人の頭である」と言えるべきではなかろうか。信仰の喜びは自分の罪の深さの自覚に比例するのである。自分の存在そのものが罪の塊と覚えた時、一切の罪許されたりとの確信が湧き上がるのだ。























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# by oume-akebono | 2017-01-21 15:51 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙6:6)  大谷唯信牧師


「わたし達はこの事を知っている。私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたし達がもはや、罪の奴隷となることがないためである」





 いよいよ新しい年を迎え新しい希望に歩もうとしている。新しい希望とはキリスト御自身である。自分一人で歩むのではなく、キリストと共にキリストの中ですべてをキリストとの出来事と言う信仰を意識的に持って生活するのである。


 私達は自分一人、単独で、と言うものではないのだ。何故なら私達は皆、キリストのからだとしての教会につながりキリストの命を持つ共同体として互いに仕え生かし合う「神の家族」とされているからである。私達が受けたバプテスマはキリストと共に死に葬られキリストと共によみがえらされた恵みの信仰告白なのである。


 しかしこの信仰が生きた真実なものとなるには現実に直面する自分の内外から出て来る罪と向き合わねばならない。ローマ書7章の罪との戦いに信仰によって勝利する経験を得る必要がある。多くの信者が良きクリスチャンになるために自分の行い、自我の力で勝利しようとしてしまう。信仰によって戦おうとするが、実は自分の力で戦ってしまうのだ。


勝利すれば自我が誇り、負ければ敗北感、挫折感となる。自我が中心の信仰だからである。ここで浮き沈みしている者は実に多い。自分の信仰だからである。自分の決意に支えられている信仰はまだ入口である。その奥に入るには自分の全身全霊で取り組み、完全に敗北し剣は折れ矢も尽き果て「わたしは何と言う惨めな人間か」と絶望の中で主に委ねる、この時の全託こそが信仰、と言う出来事になるのである。信仰が頭での理解、納得ではなく全身で救いの確信となり「神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたし達のいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:13)となるのである。自我の働きが尽きた時、御聖霊が働いてくださる。一切の罪が許された解放を知るものとなろうではないか。




















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# by oume-akebono | 2017-01-07 15:03 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙4:8,18-19) 大谷唯信牧師


「…神は愛である。…愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。…わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」




神の愛はすべての罪を覆い、完全に赦し、平安を満たす命である。あなたがたもこの愛を受けようではないか。私たちはすでに神の愛に包まれているのだ。それを知らないだけである。私たちはいつの間にか自分で理解し、納得したものだけを受け入れるようになってしまっている。この世のものはそれでも良いが、その理解を越えている御方である。五感でわかろうとしてもわからない。それは胎児が自分の母親をその胎内で探しているようなものだからである。


胎児は7ヶ月も過ぎると完全に人間である。母親の心理状態がそのまま安心、不安の影響を与える。さらに生まれてからの8ヶ月間こそが一生の精神的土台となる基本的不信と基本的信頼の中心軸が決まると精神科医の研究によって実証されている。この期間の乳児にはまだ自我はないので、乳児からの問題ではない。母親をはじめとする環境のあり方による。即ち、離婚、争い、失業等による不安、憎しみ、怒り等による基本的不信体験の量が問題となる。


80~90%は生存困難、60~80%は思春期に内因性精神病を起こし易い。40~60%は神経症になり易い。健康な人は20~40%としている。即ち、基本的信頼の体験の強度が60~80%であれば、比較的育ち易いと言われている。


私は自分のことを見てみると、長いこと不安定な危うい時を過ごしたと思う。それは、生まれた時未熟児で命も危なくかなりの間保育器にいたと聞いているので、そのせいかなとも考えている。しかし、その不安定感があったからこそ、神を求め、神からの救いと恵みに浴したのである。


人は所詮、孤独で寂しい存在である。心に穴が開いているようだ。だから良かった。必死に求めるからだ。それは神の愛でしか満たされない。人は神の霊と同じく霊的存在であるから、神はイエスによって神の愛を命として与えて下さったのである。
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# by oume-akebono | 2016-12-25 14:15 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2:12)   大谷唯信牧師


「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」




救われた信仰の根拠は、自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読み、また自分を見る。一時は強くなったようであるが、少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむことになる。いつの間にか自分を見て評価し、自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。


パウロもそうであった。ローマ6章は、彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登ってみると道は険しく、美しい富士山は見えず瓦礫の山々である。自分の足もとから、一歩一歩の足の運びから、現実のこととして「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。そこで初めて自分に全く絶望し、自分を見放し、「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げ、十字架上のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで神に自分のすべてを託したように、パウロも神に託したのだ。その瞬間に「わたし達の主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と、主と一つにされたのである。


ローマ7章は救いの主観的事実なのである。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり、恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ6章から8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。
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# by oume-akebono | 2016-12-18 14:00 | 週報メッセージ

今年は、クリスマスに礼拝です!
24日のイブ礼拝、25日のクリスマス礼拝共に、幼稚園と教会のハンドベルクワイヤによる演奏もあります。
クリスマス礼拝の後には、ティータイムでクリスマスをお祝いします。
どなた様も、どうぞご一緒にイエス様のお誕生をお祝いしましょう!

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# by oume-akebono | 2016-12-18 02:42 | 集会案内

(ヨハネの第一の手紙 4章15節)   大谷唯信牧師


もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。


今日も礼拝にて信仰告白とバプテスマ式が行われる。三人の方々だ。皆、それぞれの人生を歩んできて主イエスと出会った。何と素晴らしい事か。主イエスを信じる信仰によって救われたのだ。新しい人生が主と共に、そして教会の兄弟姉妹の交わりと祈りに支えられ、共にキリストの命をいただき神の家族とされたのである。バプテスマとはイエスを信じ救われた信仰を見える形で現した信仰告白そのものである。これはキリストの死と復活を現している。「わたし達は、その死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活し新しい命に生きる」信仰の告白である。


神は愛である。絶対的な完全な愛である。その神に似せて人間は造られた。即ち私達は神の愛によって造られ、私達も愛の存在として造られている。故に、人が生きるには空気が不可欠のように、神の愛が不可欠なのだ。ところが神を知らず認めず自らの力で生きる道を進んでいるのがこの世での現状である。


「人はパンのみで生きるのではない。神のことばで生きるの」とイエスは言われた。神のことばとは神の命、神の愛、それはキリスト御自身である。


 人はこの世でどんなに成功しても、すべてのものを手に入れても、心の奥は孤独であり恐れと闇がある。神の愛以外のものでは絶対に満たされない心なのだ。人は神と同じく霊的存在として造られているからである。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。信じない者は、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16


救われるためにはどうしたらよいのだろう。使徒ペテロは語る「悔い改めなさい。罪のゆるしを得るために、イエス-キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受ける」と。あなたの中にクリスマスを迎えようではないか。






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# by oume-akebono | 2016-12-11 01:50 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章23~24節)      大谷唯信牧師


その言った事は必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう。何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう


主の命令と約束が示されている。「信じるならそのとおりになる」と2回も述べている。何と勇気が与えられることか。しかし「心に疑わないで信じるなら」と条件がついていると思わず「そんな強い信仰は自分には到底持てないのでは…?」と弱さを覚えるのではなかろうか。10人が10人とも、100人が100人とも私達をも含めて立ち止まってしまうのではなかろうか。


私達はこの自分の弱さをどのように克服したらよいのだろう。これを克服しない限り主の約束されているダイナミックな信仰生活は死ぬまで有り得ない事になる。これでは主を偽り者にする事であり、証しにもならない。私達は教会としてもここを突破し信仰による勝利を獲得しなければならないのではないか。


パウロに学ぼう。彼はどのように弱さを克服したのだろう。驚くことにパウロは弱さを嘆くのではなく「むしろ喜んで弱さを誇ろう」(IIコリント12:9)と語っている。彼も私達と同じように弱さを克服できるように祈ったのだ。ところが「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けた。神は私達の弱さは全く問題にされていない、むしろ、「神の力は私達の弱いところにこそ現われる、強いより弱い方が良いと言われるのだ。


と言う事は祈り願うのは私達であるがこれに応えて下さるのは神であってわたし達の強さではないのである。強さどころか「わたしはキリストと共に十字架につけられ死んだ」と告白している。ゆえに「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きている」と信仰によっての告白である。私の内に私ではなくキリストが入れ替わって生きて下さる。それならば大胆にキリストと共に生きようではないか。




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# by oume-akebono | 2016-12-04 01:47 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18~19節)      大谷唯信牧師


愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。わたし達が愛し合うのは、神がまず私達を愛して下さったからである。わたし達の罪のあがないの供え物として御子をおつかわしになった


神はすべてを御存知であり御自分の御手の中で私達を包み導いておられるのである。自分にとって良い事も悪い事も神はそれらを用いて私達をさらに主の器として訓練し成長させて下さる。心を尽して主を信頼せよ(箴言3:5)の御言葉は人生を開く鍵となる。しかも神は独り子イエスをこの世に賜り私達の罪を贖い、死から永遠の命に移る道となり主の御業はすでに完成しているのだ。驚くべき事だがこの命を受けるにはこのイエスを自分の救い主として信じればよい。


さらに「その名を信じた者には神の子となる力を与えた」と完了した形で言い切っている。しかも「それは血すじによらず、肉の欲、人の欲でもなく、ただ、神によって生まれた」とある。(ヨハネ1:12-13)これが「信仰によって救われる」と言う事である。ところが「自分の民はこれを受け入れなかった」信じなかったのである。


何故か!人間は総じて基本的に不信の塊であって神も人も社会も、時には自分すらも信じられない存在なのだ。例外なく人間の奥底には不信、恐れ、不安が満ち満ちているからである。それを何とか知識、経験、健康、金等で補強し支えているだけであって、その一角がくずれた時またたく間に「不安と恐れ」に巻き込まれる危い存在なのである。


精神科医赤星進師は人間の持つ「恐れ」は生後8ヶ月の間に経験する「基本的不信」によると述べている。精神発病因子は誰にもあるものだが、私達の自我はこの基本的不信を基礎として形成されているため発病するか否かはこの基本的不信の体験の量による。80%以上の基本的不信は生存困難、6080%は思春期に発病しやすい。4060%も軽い神経症が起きやすく、健康な人は2040%即ち基本的信頼が6080%の人を言う。100%の信頼は神の愛以外はなく、これこそ人を完全にいやす力である。





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# by oume-akebono | 2016-11-27 01:43 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章24節)  大谷唯信牧師


「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」


私達はキリストを信じる信仰に立つが、さらに言うならばそれは御言葉に対する信仰である。御言葉は私達の思いを超え神の霊の領域に導いて下さる。ただ漫然とイエスを仰ぎ見るのではなく御言葉を通してイエスを仰ぎ望み、御聖霊の導きの中で「イエス様との出来事」として歩むのだ。この御言葉は「神を信じなさい」から始まっている。そして、「よく聞いておくがよい。」と注意を促す。その時言われたことは驚くべき言葉であった。どんなに秀でた人であっても想像を超えている言葉であろう。


「誰でもこの山に、動けと言いその事を心に疑わないで信じるなら、そのとおりになる。」


そして上記の言葉が続くのである。人生ではいつしか不可能と思える問題にぶつかるものだ。それを『山』という。山は余程天変地異が起こらない限り不動であろう。それが動き出して命令通りに動くとイエスは約束された。それもただ言えばいいというのではない。

「この山に動き出して、海の中に入れと言い、」とある。はっきりと自分の口で「言い」とは、宣言せよと言う事だ。しかも「自分の言ったこと」が「必ず成ると心に疑わないで信じるなら」、「そのとおりになる。」


神は私達の信仰の範囲で動いて下さるからだ。あのローマの百人隊長は僕の病の癒やしをイエスにお願いし、来ようとされるイエスを留め、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。と言った。イエスはこの信仰を見て喜び「行け、あなたの信じたとおりになるように」すると、ちょうどその時に僕はいやされたのである。


私達の教会は、いよいよ霊的成長に預かり、次は信仰によって大胆に主に願い、自分の力ではなく主の働きで事が動き勝利する、無から有を呼び出す信仰の領域に一歩踏み出す時ではないだろうか。






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# by oume-akebono | 2016-11-20 01:23 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)  大谷唯信牧師


「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」


天地創造の時、神が語られた言葉はすべてが「そのようになった」とある。私達も御言葉を聞く時、信仰によって「そのようになった」と信じよう。


悪魔の働きは巧妙で常に私達を御霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に引き込もうとする。私達教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向かわんとするほど活発に彼は働き出すのだ。最もらしい理由のもとに互いに疑いや争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂させようと働く。


それだけではなく霊的な良い行いにおいても競争させ較べ、奉仕や捧げ物をする中にも肉の思いや苦々しい気持ちを秘かに起こさせようとする。さらに教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起こさせる。何と多くの教会や信者が成長を妨げられて来たことか。しかし、サタンは決して姿を現さない。互いに相手の間違いを原因として争わせるのだ。この世は飢え渇くばかりである。


御言葉は真の食物、いのちのパンである。感謝しておいしく食べるのがよい。そうすれば理屈はわからなくとも元気が出るではないか。子供もよく食べよく寝る子は育つ。単純な事だ。「御霊の実」(ガラテヤ5:22)は自分の努力で造り出すものではない。そのまま信仰によって受け取ればよい。賜物としてすでに与えられているからだ。


何故ならこの御霊の実とは「愛、喜び、平和、寛容・・・」と九つの実が上げられているがこれらは個々別々のものではない。その本質は一つであり、キリスト御自身なのである。自分が出来るか、出来ないか等の問題ではない。それは全く関係ないのである。あの受胎告知を受けたマリヤのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と祈ろう。これは誰にでも通じる信仰姿勢の基本的一歩であり大きな祝福の基となる。




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# by oume-akebono | 2016-11-13 23:54 | 週報メッセージ

Happy birthday!

毎年11月の第1主日の礼拝後は、私達の愛する大谷牧師のお誕生日をお祝いします。

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大きなケーキは、出席者みんなでいただきます!















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# by oume-akebono | 2016-11-06 23:40 | 教会あれこれ♪

(ルカによる福音書 10章39節)         大谷唯信牧師


この女にマリヤという妹がいたが主の足もとにすわって御言葉に聞き入っていた


マルタが旅の途中のイエスを自分の家に迎え、妹マリヤと接待したのである。これから見てもマルタは世話好きな人情深い人物である事がわかる。少しでも疲れをいやし、もてなしたいと思ったのであろう。それなのに妹のマリヤは動かず主の足もとに座って御言葉に聞き入っていた。


ここで問題が起きた。マルタが接待の準備で忙しく心を取り乱し、妹の事でイエスにまで文句を言ってしまった。どこにでもよくある出来事と思う。マルタの言い分は黒白つけたかったのだ。勿論自分が白である。イエスが一言、「マリヤも手伝いなさい」と言えばすぐになごやかになりすべてが順調、平和に収まった筈とも言える。ところがイエスはマルタの方を注意したのである。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」と。


私達の教会は皆さんの尊い奉仕と祈りによって主から大きな恵みをいただいている。これからもますます祝され主が働いて下さるだろう。もっと多くの人を迎えるにはもっと多くのマルタの働きをして下さる方が必要だ。実際に今でも多くの方々が見えない所でも働いて下さっておられる。主をお迎えしての素晴らしい働きである。


しかし、注意しなければならない。サタンは常に用いられている人を狙っているからである。「忙しくて心をとりみだし…」、イエス様をお迎えしイエス様のために「こんなにやっているのに…」との思いであろうか。教会でも家でも一番重荷を負って働いている者が陥る所だ。イラ立ち、怒り…、まわりを裁くのである。何故このようになるのだろう。


それは信仰の働きがいつの間にか肉の働きに移行してしまっているのだ。肉に立つと肉が見えなくなる。どんなに立派でも肉は肉である。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。


どんな働きも主を仰ぎ見て「信仰の出来事」としての信仰に立とう。










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# by oume-akebono | 2016-11-06 23:39 | 週報メッセージ

(伝道の書 3章11節)        大谷唯信牧師


「 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。


神は人に、小さなからだと、永遠にまで及ぶビジョンを描きそれを求める心を、与えて下さった。下から上に、マイナスからプラスに、貧しさから豊かさに進んで行く向上心を与えて下さったのである。優越性のエネルギーだ。永遠を思う思いとは究極、神を求め神の栄光を現わすことにある。


しかし人はサタンの誘惑に乗って神を捨て、その与えられている力を神ではなく自分の栄光、自己実現のために生きるように、変えられてしまったのである。神のためか、自分のためかは、外からはわかりにくい。しかし自分を正直に御言葉によって見ればわかると思う。


人は神へのビジョンを失った。神を失った優越性は、達成すると自己満足の優越感となり、達成できないと劣等感となる。優越感も劣等感も神を中心に生きているならば、すべてに時があり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と、大きな刺激と励ましとなるが、神を中心にせず自分中心に生きているほど、高慢になったり、劣等意識に押しつぶされたりで動けなくなる。何と多くの人がこの優越感コンプレックス、劣等感コンプレックスによって、自分を駄目にしている事だろう。


だから私達はクリスチャンとしての道を歩み、今日まで導かれて来た。しかしもう何年信仰生活をしているのだろう。時に吟味してみよう。信仰によって、「地の塩」とされている。大丈夫だろうか。「もし塩の効き目がなくなったら・・・」とイエス様は語られる。「世の光」とされているのに、明かりを枡の下に置いていないだろうか。(マタイによる福音書513)九つの御霊の実が与えられている。「愛、喜び、平和、・・・」。肉の力でやってはいないだろうか。それはすぐ、肉の働きに移行してしまうのだ。(ガラテヤ人への手紙519)怒り、つぶやき、不平は努力しないでも出る。御霊の実はどうだろう。努力しているなら、肉であるのだ。日々、十字架に死に主と共に生きる霊交会にしよう。












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# by oume-akebono | 2016-10-30 23:23 | 週報メッセージ

(詩篇 42章5節)       大谷唯信牧師


わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえ私のうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。私はなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう


誰でも暗く落ち込む時がある。ダビデは信仰の側に立つ心で落ち込む自分に語りかけているのだ。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか、何ゆえ私のうちに思いみだれるのか」と。優しく自分に信仰の言葉で語りかけるのだ。信仰に立って自分を励ますのである。自分の弱さをそのまま受け入れ自分の暗い思いから目を離し「神を待ち望め」と主を仰ぎ見るよう促す。「私はなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」。


信仰の御言葉は霊の次元を開くのである。自分で自分の心を奮い立たせるのではない。自分の心が弱く落ち込んでいてよいのである。もっとドン底になっていてもよいのだ。ここでこそ自分ではなく主を信頼する。惨めな自分から目を離し、「主を仰ぎ見る」。御言葉に行行御言葉を信じ味わうのである。「苦しむ者が呼ばわった時、主は聞いて、すべての悩みから救い出されたのだ」「王はその軍勢によって救いを得ない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみは望む者の上にある」。


それでも望めない時があるかもしれない。それも主に告白して委ねて「主を信じます、不信仰の私をお許しください。信じる信仰を下さい」と祈ろう。自分の力で信じるのではなく御聖霊の中で思いを一転させて下さるよう祈るのである。アブラハムは「サラの胎不妊であることを認めながらも、望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」「彼は神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し神を確信した」(ロマ4:19-21)のである。


パウロも弱さと戦った時、主は言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(IIコリント12:9)であった。わたしが弱い時にこそ、私は強い」事実をパウロは恵みによって得たのだ。











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# by oume-akebono | 2016-10-23 23:21 | 週報メッセージ

(箴言 3章5-6節)    大谷唯信牧師


「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」


 創造主なる神は御自身の栄光を現すために全地を造られ、その中心として特別に御自分に似せた霊的存在としての人間を創造され、この地を治める事を委ねられた。しかし人間は神を離れ無視し反抗し神中心ではなく自己を中心とし神の栄光ではなく自分の栄光を求める者になってしまった。


これによって本来の神と人との正しい命の関係がくずれてしまったのだ。本来の人が立つべき根源的な立ち位置からずり落ちてしまったのである。以来、人間は神の知恵を失い、自分の知識のみに頼って生きるしかなくなりそれが当たり前になっているのが今日である。


このずれを聖書は「罪」と言っているのだ。法律的なこの世での罪ではない。神との関係が断たれてしまっている状態を罪と言っているのである。そしてこれは法律的な罪よりも深く致命的な問題なのである。あたかも健康な体に潜んでいるガンのようなものでやがては全身に拡がり死に至らせるものである。この世の全ての悪は人間の根本のずれ即ち自己中心と言うエゴからである。


そもそも「自分の知識」そのものが罪なのである。今やこの世はますます自分の知識、情報で成り立っている。しかし知識は人を誇らせるだけなのだ。これがこの世の教育の限界であろう。神を離れた知識はエゴイストを養成するだけになる。この世の状態を見ればそれを証明しているではなかろうか。


今や国と言うより人間そのものがこわれてきている。あなたはそれを感じないだろうか。これは政治や教育の問題ではない。根本的な罪をかかえている人間の問題である。罪の恐ろしいのはガンと同じく自覚症状がない事だ。


社会ではなくわたしやあなたの問題である。神は呼びかけている。「自分の知識に頼るな。心をつくして主に信頼せよ。そうすればあなたの道は整えられる」と。神の約束である。神の知恵を求めようではないか。



















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# by oume-akebono | 2016-10-16 23:18 | 週報メッセージ