(詩篇 42:5)     大谷唯信牧師


「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰でも苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望に打ちひしがれる時があるものだ。
弟子たちはイエスと共にガリラヤ湖にて舟に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、舟が沈みそうになった(ルカ8:22-27)。
わたし達の人生の現実を語っているのである。その時イエスは眠っておられた。弟子たちは恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです。」と叫んだのだ。


主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは主に良かった。しかし主の体に触れ主に依り頼みながらも主への信仰はなかったのである。恐れの中で「主よ、主よ、」と言うだけであった。どういうことか。主よ、主よと主に触れながらも主が助けて下さるであろうとの信仰も信頼もなく、また信頼していないから泣き叫ぶのである。主は起き上がって波を静めた。そこで弟子たちは始めて信じたのである。見るまでは信じていないのである。
私たちも、こういう事はないだろうか。求め、依り頼んでいるのだが信仰がない、願っているのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまうのである。


アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。
ダビデは信仰によって不信仰な自分に呼び掛けている「わが魂よ、何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」と。
彼は必要な時にその都度、意識的に信仰のスイッチをオンにしているのである。
私たちもやってみよう。
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# by oume-akebono | 2016-09-11 00:18 | 週報メッセージ


(Ⅰヨハネ 4:7,19)     大谷唯信牧師

「わたし達は互いに愛し合おうではないか。神がまずわたし達を愛して下さったからである。」



神の言われるのは、互いに愛し合い仲良しグループをつくりなさい程度のものではない。
神にとって愛するとは、命をかけるものである。
神はわたし達全人類への愛を、独り子イエス・キリストによってこの世の歴史的出来事として現わして下さった。


神が愛であること、イエスの教えの数々、その行い、人々への接する態度、十字架の死に至るすべての歩み、これらによって神が愛であること、全人類を愛しておられること、そして、キリスト御自身が神であることを現わして下さったのである。即ち、単なる理論や考え方ではなく、実際にわたし達と共に生きておられる神を現わし、また、人間としての本来の生き方、真実の愛、本当の許し、永遠の命、等々、この世がわかっているようで見失っているものを与えて下さった。


キリストは天に上げられ登ったのではない。弟子達を置き去りにされたのでもない。約束通り今度はキリスト御自身が御聖霊となって来られ、弟子達の内なる命となり、これをキリストの教会として建て上げ、キリストの権威と使命とを継承させ、今も導いて下さっておられるのである。


人間は神と同じく霊的存在なのだ。成長するには霊を育てる食物と環境が必要である。イエスは「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの霊の言葉で生きる」と言われた。神の霊の言葉にこそ人を豊かな人格として育てる力がある。「知識は人を誇らせ愛は人の徳を高める」、また、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」とも言われている。


この世は神を無視し、社会のすべてはエゴの領域を満たすだけになっている。生きる内実がないのである。学びが悪いのではない。学びの中に命を吹き込む者が乏しいのである。今こそエゴではなく神の愛に立つ一人一人が貴重な存在となっている。
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# by oume-akebono | 2016-09-06 17:46 | 週報メッセージ


(コロサイ人への手紙 2:6-7)  大谷唯信牧師

「・・・あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい」。



今日は夏の霊交会の日である。私たちの教会はここ数年、神の豊かな恵みに導かれ、生けるキリストの教会としての「かたち」に整えられて来ていると思う。先日の執事会にて今日の霊交会のテーマを考えていたが、私達の教会のこれからの課題は、やはり「霊的に深められる」ではないだろうか、との声が出てきた。


多くの教会は、いろいろな年間行事、活動計画等々を上げるのだが、そうでなく「霊性の深まり」が課題として出てきたことは、素晴らしい事である。正に使徒行伝の初代教会の歩んだ道であるからだ。教会のこの世に対する働きは、それぞれの教会によって色々あると思う。しかし、私達の教会では、それらの働きを生かすためにも、私達一人ひとりの「霊性の深まり」を最優先させるという事を、考えるのである。


イエスは仕事に忙しくしているマルタではなく、主の前に座り主と向き合っていたマリヤを喜ばれた事を思い出そう。「・・・無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(ルカによる福音書10:42)私達は何事をするにも「霊に燃え、主に仕え」を求めることを第一とする。


しかし、今ひとつ霊に燃えず、モヤモヤした不完全燃焼を感じてしまい、信じているのに何かはっきりしないと言う方・・・。それは救いは信じていても、キリストによって「自分の罪が許された」事を明確に認め、確信していないのではないか。自分の気持ちではなく、御言葉を信じるのだ。「神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」。(コロサイ人への手紙2:13)「バプテスマを受け、キリストと共に死に、共によみがえらされたのである」。どれほど大きな罪でもすでに許されているのだ。
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# by oume-akebono | 2016-08-28 17:41 | 週報メッセージ


(コリントⅠ 1:18)       大谷唯信牧師

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには神の力である」



十字架の言とは十字架のキリストのこと。キリストは私達の罪を贖うため十字架の死を御自分の身に受けて下さった。これは神の御計画であり、預言者イザヤによってキリスト誕生の700年も前に予言しておられる。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:4-5)

キリストの十字架はこの世の歴史的出来事であるが同時に神のこの世に対する霊的出来事なのだ。しかもこの世と神の国との接点であり入り口である。
イエスが最初に語られた第一声は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:14)であった。


では、この救いを得るためにはわたし達はどうしたらよいのだろうか。神はそのために聖霊によって教会を誕生させ、信仰による水のバプテスマを教会に与えて下さったのだ。その本質はキリストである。バプテスマはイエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰を目で見える形で現した信仰告白である。その霊的意味は深くわたし達の思いもはるかに超えた神の出来事なのだ。


「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」「神はあなたがたをキリストと共に生かし、わたし達のいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:12-13)
今日も二人の方がバプテスマを受けられる。これは私達教会の喜びである。私達は皆、信仰によってキリストの体なる教会とされた。決して独りではない。教会は私達を育てる家庭であり人生である。日々死んでよみがえる信仰で互いに成長し訓練され神に喜ばれる器となるよう祈り求めようではないか。
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# by oume-akebono | 2016-08-21 17:38 | 週報メッセージ


(イザヤ書 45:4-5)     大谷唯信牧師

「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」



神は人を霊的存在として造られた。誰もが肉を超えた霊の命をすでに持っているのである。人は神から離れているため霊の命がわからず、結果的に肉の食物だけを求めてしまい、霊の命は満たされず、また意識もないので心の奥に閉じ込められている。現代人の言い知れぬ孤独感、不安、恐れはここから来るのである。まわりでどれほど手を差し伸べても届かない。かえってちょっとした一言にでも傷つき自分の殻に入ってしまうのだ。


「自分探し」等の言葉を聞くだろう。そう、誰もが意識するとしないとに関わらず、これをしているのである。人生にはいろいろな出来事が起こる。その都度、喜んだり悲しんだり、何とかしなければと頑張り、前進したり後退したり、立ち止まったり…、常に自分を意識しているではないか。「自分探し」をしているのだ。究極の自分をどこか求めているのである。それは物心のついた子どもの頃からすでに始まっている。とするなら人生はすべて「自分探し」の旅といえないだろうか。


人は更なる確かなもの、生活や心の豊かさ、ありとあらゆるものを求めて今日に至っている。人は霊的存在として造られているので、心の奥で神の霊を求めるのは当然である。心が霊で満たされない限り何を求めても渇きを覚え悩み苦しむとしたら、それこそ全く健全であり正常の悩みである。しかしこの世は神の霊を知らず他のもので満たそうとする。イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる。」と語っておられる。そのパンこそがイエスであり私たちの罪を贖い救いの人生の土台となって下さった。


「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」これはあなたへの言葉である。
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# by oume-akebono | 2016-08-14 16:23 | 週報メッセージ

(ローマ 12:1)     大谷唯信牧師

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」



この御言葉は神への礼拝の最も大切な本質的な事柄を述べている。これはパウロがキリストからの啓示によって語ったものだが、イェス御自身も礼拝について語っておられる。「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:14)と。
礼拝する時の「なすべき礼拝」の絶対条件である。
それはプロ並みの美しい音楽、感動的な祈り、よく準備された名説教、整えられたプログラムがその通りに重々しく厳粛に行われると言う事ではない。
大きな式典等ではよく見られ形式的にならざるを得ないのであるが、礼拝はそうであってはならない。


礼拝は神の愛への応答である。決して眺めている見物人ではない。一人ひとりが、わたし個人として、人間として、クリスチャンとして、又、教会員全体としての自分の有り方について問われ、吟味し、新たな課題と行動を示され、感謝と讃美の中で決断し応答していく。現実の事実の状況の中で信仰によっての自分の行動決断である。


単なる自分の考えの漠然で終わらず「自分のからだを」と具体的である。自分を喜ばす満足ではなく「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として神に捧げていく」これが神への応答であり、これが霊的な生きた礼拝となるのである。


自分の安全地帯である自我、これが成長を止めている。自我は自分の力では破れない。しかし、イェス様の十字架を信じて主に従い始める時、自我は破れ、主に従うほどに解放され本来の自分が新しくされていくのだ。冒頭の御言葉をもって日々のすべての生活に応用してみよう。すると、必ずサタンは邪魔して来ると思う。詩編35編を見てほしい。ダビデは主に戦っていただいているのだ。日々を礼拝とし主と歩もうではないか。
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# by oume-akebono | 2016-08-07 16:17 | 週報メッセージ

(詩篇34:5)   大谷唯信牧師

「主を仰ぎ見て、光を得よ。」



 あなたの目はどこに向けられているのか。主を仰ぎ見るのだ。日々の思いわずらいにいつの間にか暗い心に取り込まれてはいないだろうか。自分の弱さや心の痛みに思わず目がいってしまい、どうしたらよいのかわからない。こういう時こそ、信仰によって祈り、受け止め、信仰の一歩を踏み出すチャンスとして求めるべきではないだろうか。


心を静め、暗い自分から目を離し何もないのだが、信仰によって御言葉に聞き主を仰ぎ見るのである。初代教会がそうであったのだ。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」との御言葉の前に、何をどうしたらよいのかさえわからなかったであろう。イエス様が捕えられ、十字架の死、復活の出来事、天に上げられる主、次々起る受難の出来事に弟子達はすべて整理もつかず、意味も分からず、ただ迫害のただ中で恐れおののいているだけであったろうと思う。


弟子達は市内の泊まっていた屋上の間に上がった。そしてせめて彼らのできた事は「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)とある。


今のわたし達の教会もここが大切な点ではないだろうか。聖霊がくだった時も、「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると…」とある。


かつてイエス様は「もしあなたがたのうちふたりが、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら…:」「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所にはわたしもその中にいるのである」(マタイ18:19)と主の臨在の約束を語っているのである。

これは教会の原点である。個人の能力やリーダーシップでもない。教会に注がれる聖霊の力である。わたし達の教会がさらに生きた教会になるには、ここにヒントがあるのではないだろうか。みんなで考えてほしいのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-31 16:16 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書 4:24)  大谷唯信牧師


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。




「霊とまこととをもって礼拝する」とは、自分の目線ではなく、神の目線で世の中や教会の出来事を見、御言葉と聖霊の導きによって キリストに出会い、従っていくことである。


私達は普通誰もがそうであるように、自分の目線で生きているものだ。しかし、これをある時からキリストによって「神の目線」に切り替え生き始める。これがクリスチャンである。とは言ってもこの世に生き、この世の知恵で生きてきたのであるから、そこに根付く自分の目線はかなり強い。そこを敢えて意識して神の目線に切り替えるには、かなりの心の戦いがあろう。これが信仰の戦いである。ここで大切なことは、御言葉と聖霊の助けによって「神の目線」で見る意識を常に持つことである。


自分の目線のまま神の出来事を見ると、あの律法学者ニコデモのように「どうしてそんなことがあり得ましょうか」となり、行き詰まりである。あの漁師ペテロは「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と正直に告白している。これは泣いても笑っても事実であり、現実であろう。ところが彼はここで終わらなかった。「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と従ったのだ。これは「神の目線」である。


その時は何もわからないが、神の目線の中には行き詰まりはなかった。むしろ無限の拡がりがあったのである。ここでは、妙な争い事や競争はない。御霊の実の世界である。自分の目線の世界は、わかりやすく、納得、理解し易いはずだが、常にもめごと、争い、我慢の世界、肉の働きの世界である。


私たちは余りにも自分の目線で、神の世界を見ようとしていたのではなかろうか。自分の目線のままでは、神の世界は到底見えない。「神の目線」に切り替えよう。パウロも初めからそうなったのではない。神の目線に切り替えられた時があるのだ。神の目線でエペソ人への手紙を読んで欲しい。驚くべき神の世界が、心に見えてくると思う。
祈り、信じ、神の前に頭を垂れ従う者、 ペテロで出発し、パウロの見た世界を見ようではないか。
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# by oume-akebono | 2016-07-24 16:06 | 週報メッセージ

7月10日の午後は、野口日宇満・加奈宣教師ご夫妻をお迎えし、インドネシアでの宣教活動の様子をお話しいただきました。

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報告会の始めは、野口宣教師ファミリーが、インドネシア語で賛美を歌って下さいました。


写真では分かりづらいのですがプロジェクタで沢山の写真を映しながら、気候も文化も違う地での日常生活を含め、インドネシアのクリスチャンだけでなく他国の宣教師の方々とも助け合ってイエス様を伝える御業を、日宇満宣教師、加奈宣教師が交代でお話し下さいました。
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最後は、報告会の記念に参加者全員で。
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これからも、世界中の困難な状況で宣教の業を担う方々のために、私たちは祈りと献金で支えてまいりましょう。

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# by oume-akebono | 2016-07-20 18:21 | 行事

(ローマ人への手紙 12章1節)   大谷唯信牧師

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝である」



 神はわたし達がこの世に於いても豊かに成長するためにキリストの命と聖霊によって教会を与えて下さった。救われ与えられた新しい命は誰でも初めは赤ちゃんである。生まれてすぐ大人になる赤ちゃんはいない。たとえ人生経験の豊かな人であっても霊的命に関しては幼な子なのだ。

 こうして私達は神の導きによって神の子とされ教会とされたのであるがどのように歩めばわたし達、教会が成長できるのであろうか。

 そのために神は聖書を教会に与えて下さったのである。聖書は神の霊によって啓示された神の言葉でありわたし達の命を養うまことの食べ物である。

 教会の成長と私達の成長は一つなのだ。しかも成長は神がして下さるのだがわたし達のすべき事もある。それは私達が祈りの中で御言葉を味わい実践し、自分の体験として証しを持つ事である。つまり自分でやってみて、「この御言葉は本当だ!」と確信をもって言い切れる体験をしてみる事である。心の冒険をしてほしい。聞くだけの者ではいけない。

 冒頭の御言葉はロマ書12章であるが、まず神との交わり、そして人との交わりについて述べられている。自分を豊かに成長させたければ自分独りの有り方だけでは駄目なのだ。他者との関係性の有り方を見なければならない。ごく当り前の事だが実際にやって見ると中々出来ないのである。肝心な事が抜けているからだ。それは神との関係である。これが健全にならない限り他者とは健全にはならないのだ。このロマ12:1に取り組むとその後に語られている人とのかかわりに導かれてくるのである。「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい…」御言葉は信じる者には神の力となる事を知ろう。人からの伝え聞きではなく、主との出来事として主に触れてほしいのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-17 16:19 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 3章6節)   大谷唯信牧師


「文字は人を殺し、霊は人を生かす」


 イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)と語られた。
御言葉によって霊的に成長するには暗記するだけでは駄目である。あの富める青年はイエスに「永遠の命を得るには?」と大切な問いをしながらも、イエスの答えに対して「それは小さい時から知っていますよ」と答えるだけで自分の心を見ることも、耕し深めることもしなかった。知っているという知識が耳を塞いでいることも、イエスの言葉を跳ね返していることにも気付いておらず、イエスの自分に向けられている心のメッセージにも気付かず悲しみながら立ち去るのである。

 神は霊であり、私たち人間も霊的存在として造られているのだ。「神は霊であるあら礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝しなさい」と主が言われるのもそのためである。

 御言葉は読むと言うより御言葉と交わるのだ。読んですぐ実行の前に、交わるのである。御言葉のその光を自分に照らし耕し、吟味し肉の部分を見つけ出しては悔い改め捨てていくのである。あとは御言葉を通し「御心が成りますように」と主に委ね主に期待するのである。「自分で実行するぞ」とばかり決意して頑張らない。頑張ると肉の働きに変化しやすいからだ。

 信仰経験が長く聖書にも通じベテランクリスチャンになると霊の御言葉が文字となり、石に刻まれた化石のような文字クリスチャン(Ⅱコリント3:3)にさえなる事もあるので気をつけよう。

 霊的に成長するのは順調な時より困難、気落ち、無力感に閉じ込められた時が成長のチャンスと言える。パウロは「極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」(Ⅱコリント1:8)とあるが主の訓練はここまで来ると最高の恵みの境地で自由とされる。肉を捨てる決意と祈りに主は御霊を注いで下さるのである。
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# by oume-akebono | 2016-07-10 16:15 | 週報メッセージ

(IIコリント 3:6)     大谷唯信牧師



「それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」




私達の教会の祈りの第一は「まず自分の内側を整える」にある。それは常に霊性を深める事だ。

私達はクリスチャンになるために信仰告白として水によるバプテスマを受けた。型としては水に沈むバプテスマであるがその信仰の霊的意味は実に深い。それは自分もキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死に、共に葬られ、キリストのよみがえりと共によみがえり新しい命に生かされているとの信仰である。この信仰を深め真実なものにして下さるのが御聖霊である。決して自分の力、自分の行いではない。上からの霊的賜物による。


ところがこの信仰生活をいつの間にか自分の力、自分の思い、自分の都合と言う肉の力で押し進めてしまう人が多い。

パウロはガラテヤ諸教会へ語っている。「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げると言うのか。あれほどの大きな経験をしたことは無駄であったのか。わたしはただ一つの事をあなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか。それとも聞いて信じたからか!」と大変な叱責である。

これは他人事ではない。現在のわたし達の問題でもある。この世は何もかも肉で支配され、国も社会も教育そのものの考え方も生きる価値観も肉でおおわれ、目には見えないがサタンが支配しているのである。


そのクリスチャンに何が足りなかったのか。パウロは指摘している、「十字架につけられたイェス・キリストが、あなたがたの前に描き出されたのに、いったい誰があなたがたを惑わしたのか」と。即ち一人ひとりの内にある「霊的認識の欠如」である。自分の内にある霊性が浅いと、その信仰は理屈と言う文字になってしまうのだ。御言葉は霊の言葉である。文字ではなく霊的認識の事実となるまで祈り求めねばならない。
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# by oume-akebono | 2016-07-09 09:27 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙6:11-12)  大谷唯信牧師



「わたし達の戦いは、血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」



私達の戦う相手はサタン、肉、この世の三つである。教会にしっかりつながり聖霊と十字架との交わりにあるならば必ず勝利する。

サタンの働きは巧妙で常に私達を主の霊から引き離し、「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に取り込もうとする。それは私達の教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向わんとするほど活発に動き出す。もっともらしい理由のもとに互いに争いを起させ、ねたみや党派心を引き起こし分裂の方向へと促す。さらに霊的な事柄においても競争させ比べさせ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを密かに起こさせようとする。教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起させる。


何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現さない。自分の存在を認めさせないためである。その方がやりやすい、自らの意志で動いているように思ってくれるからだ。神を信じないように疑うようにも働く。互いに相手の間違いを原因として争わせるためである。今や世界中がこの手に踊らされ、自分は賢く正しいと思うようになる。サタンは御言葉を用いても争わせる。気をつけよう。霊的高慢というのもあるからだ。


「もし、あなたがたの心の中に苦々しいねたみや党派心をいだいているなら誇り高ぶってはならない。また真理にそむいてはならない。そのような知恵は上からではなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」(ヤコブ3:14-16)と警鐘を鳴らしている。

あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えよう。しかし主は勝利しておられるのだ。救いの確信の根拠は私達の中ではなく神にあるのである。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、わたし達のためにとりなして下さっておられる」のである。自我を捨て御霊に生きよう。
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# by oume-akebono | 2016-07-09 09:23 | 週報メッセージ


(エゼキエル書 37:5)     大谷唯信牧師


「主なる神はこれらの骨にこう言われる。わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。」




預言者エゼキエルは、幻のうちに枯れた骨がいっぱいに満ちた谷に置かれていた。主は命じて「『エゼキエルよ、息に預言せよ、息に預言して言え、息よ、四方から吹いてきて、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ。』そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。」 これは、主の大いなる奇跡である。


これは何を意味するのか。主は語られる「これらの骨はイスラエルの全家である。見よ、彼らは言う、『われわれの骨は枯れ、われわれの望みは尽き、われわれは絶え果てる』と」。(エゼキエル書37:11)この幻は、やがてイエスの十字架とよみがえりによって、力尽きた弟子達に聖霊が注がれ、生きたキリストの教会が起こされ、多くの人が救われることによって、実現されたのである。


この大いなる神の恵みは、今や私達青梅あけぼのキリスト教会にも与えられている事を信仰によって受け止めようではないか。神の恵みは、骨は枯れ、望みは尽き、絶え果てるところに注がれている。エゼキエルの時代も、イエスの生きられた時代も、そして我々の住む今も、「枯れた骨」であるが故に恵みを注いでくださるのである。


教会はどのようにして成長するのだろうか。多くの教会は、年度計画、活動計画、伝道計画のあらゆる事業計画のもとに忙しく歩もうとする。これらの活動が、クリスチャンを保障しているかのようである。本当だろうか。私たちは、そのようであってはならない。もっと教会の生命に直接に触れるものにしよう。まず、キリストの霊性を深めよう。これが第一の課題である。どんなに死んでいても、枯れた骨であっても、神の霊は、人を生かすのだ。「御霊によって歩きなさい」。自分の肉を情と欲と共に十字架につけ殺してしまう。即ち私達が十字架に死に御霊に生かされる一人ひとりになることだ。それは、「霊との交わり」と同時に、「十字架との交わり」を信仰によって祈り願う事から始まる。




















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# by oume-akebono | 2016-06-21 08:38 | 週報メッセージ

下記の通り、報告会を行います。
興味のある方はどうぞお越しください。



インドネシア派遣宣教師
野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師
>帰国報告会のお知らせ


主の御名を賛美いたします。2014年夏よりインドネシアで主の働きを始められた野口日宇満宣教師。翌年2015年3月にはお子さんを出産された佳奈宣教師もお子さんと共にインドネシアに赴任。世界最大のイスラム教国での福音宣教をすすめておられます。一時帰国に伴い、全国諸教会で日本バプテスト連盟宣教部主催による定期帰国報告会が開催されています。青梅あけぼのキリスト教会では、特別に機会をいただき、下記のとおり報告会を予定いたします。幼い頃に抱いた夢であった世界宣教を、様々な障壁を乗り越えて実現されたことは、ご本人はもとより多くの方々の祈りに神がこたえてくださったことと、確信いたします。報告会ではメッセージのご奉仕を通して、多くの青年たちに神の国に対するビジョンが与えられ、また私達一人一人の信仰が新たにされることを祈ります。この恵みを多くの方々と分かち合いたいと願っておりますので、是非お越しくださいますよう、ご案内いたします。


野口日宇満宣教師・野口佳奈宣教師
帰国報告会


日時  2016年7月10日 (日) 15:00~16:30
  場所  青梅あけぼのキリスト教会 (日本バプテスト連盟)

〒198-0063 青梅市梅郷3-904-3  ☎0428-76-0634
     最寄駅:JR青梅線 日向和田駅 徒歩8分  ★駐車場あり
※事前申し込みは不要です

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# by oume-akebono | 2016-06-20 14:52 | お知らせ