(ヘブル人への手紙 9章14節)    大谷唯信牧師



「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」



新年度を迎え、ゴールデンウィークもそれぞれに楽しく思い思いに過ごされたことでしょう。私達はここで信仰を新たにし、主の言われたようにこの世の闇を照らす光となって「世の光」「地の塩」としての働きを使命として立とうではありませんか。



「あなたがたは知らないのか。自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい」(コリント人への第一の手紙 6:19-20)



そのためにはまず、私達自身が聖霊の器として整えられなければなりません。何故ならわたし達は信仰によって救いに入れられているのに「わたしは駄目、不信仰だから…、まだまだ弱いから…」等々の思いが出てくるのではないでしょうか。



今や日本の大半の人々が何らかの「心の病」にかかっています。それは小学生上級位から始まり、中・高・大学生、さらに社会人となった青年達まで、正に現代の国民病です。



それは不真面目な人がなるのではなく、まともなごく真面目な、正直な向上心を持った人ほど傷つきやすく、こわれやすく閉じこもる傾向となり、本来の力が発揮できなく不完全燃焼になってしまうのです。



その原因はまわりの環境ではなく自分自身の内にある良心の声に従わず怠け逃げ回っている罪を良心に責められその重圧に押しつぶされている現実と向き合わず逃げている事です。



信仰を持ってもその古い思考パターンを続けていると同じです。良心をキリストの血ですすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされ主の前に立つ事から始めましょう。















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# by oume-akebono | 2017-05-07 14:32 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 9章14節)    大谷唯信牧師



「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」



人は猿の進化したものではなく神によって創造されました。聖書には「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記127)「神は土のちりで人を造り、命の息(神を認識する霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者(魂、心)となった」(創世記27)とあります。即ち、人は肉的存在のみではなく特別に神と同じく霊的存在として造られました。人の霊には神を認識する霊、神を礼拝し交わりを持つ魂、善悪を判断する良心の三つの部分が神の愛に根ざした知・情・意をもつ豊かな人格的、精神的存在として造られたのです。



しかし、サタンの巧妙な誘惑に負けこれに従い神との断絶を招き、以来、人は魂の渇ける者となったのです。人はこれを悔い改めることなく神の責任として居直り神中心の生き方から自己中心の生き方で今に至っています。当然心には自分を超えた大いなる存在を求める宗教心は残っていますが、そこに自分を入れたり、自分なりの都合のよいものを神として崇め生活しています。自分の都合で自由に生きる事こそサタンの巧妙な罠ですが人は気付きません。自己の欲望を満たすため自由奔放、勝手気儘に生きることを喜びと感ずるのがエゴの特徴です。



霊は神に対して死んだ状態ですが良心は生きています。ところが良心は裁判官のように罪定めをする機能です。真面目で純粋な人ほど良心に責められ、逃げ場がなく、その呵責に耐えかねて神経が参ってしまい心が病んでしまう人も多いようです。これこそイエスさまの十字架に委ねるのです。「わたし達はイエスの血によってはばかる事なく聖所に入る事ができる。心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされつつ、み前に近づこう」(ヘブル1022)イエス様はこのために来られました。
















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# by oume-akebono | 2017-04-30 15:37 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 9章14~29節)    大谷唯信牧師



「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」



私達の内面は信仰と不信仰が絶えずぶつかり合っています。普段は信じているはずの信仰も思わぬ出来事にぶつかるとその現実の前に信仰は消えかかってしまう事があります。



今年度は非常時にあっても信仰に立つ、これにチャレンジいたしましょう。



この父親はてんかんに苦しむ息子を弟子のもとへ連れてきましたが治りませんでした。そのことを父親から聞いたイエス様は「ああ、なんという不信仰な時代であろう。」と嘆かれたのです。父親は無我夢中でイエス様にすがり「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」即座に主は「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」父親は叫んで「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエス様は父親の心をえぐるように迫り不信仰を信仰に導かれたのです。彼のよかったのは不信仰ながらもイエス様にしがみついた事でした。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ15:4



 からし種一粒の信仰でも主は取り上げて下さるのです。この父親には何が足りなかったのでしょう。それは「救いの確信」でした。わたし達も「何となくの信仰」は持っています。普段はこれで何とか間に合っています。しかし突風が来ると落ち葉が吹き飛ばされるように散らされてしまう事はないでしょうか。



 ここで大切な事は持っている信仰の上にさらに「確信」を持ってしっかり押さえ込む事です。確信も信仰も上から与えられるものとして、ただ待っている事はないでしょうか。主は「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら」(マルコ11:23)と言われました。これこそ信仰に確信を加え不動のものにすることです。どうすればそうなるのでしょう。イエス様は「祈りによらなければ」(マルコ9:29)と言われました。実に祈りと信仰は一対なのです。



















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# by oume-akebono | 2017-04-23 12:56 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。・・・」



イエス様はわたし達の罪を背負い、十字架の苦しみと死のすべてを受けられ、墓に葬られたのでした。エルサレム中の大事件となり、多くの人々が見ていたのです。そして、三日目によみがえられました。ところが弟子達はこのよみがえりを信じなかったのです。どうしても信じられなかったのです。どうしてでしょうか。



それは自分の知識、経験、常識的な考え方ではあり得ないことだったからです。彼らは以前からこのことを聞いておりました。主は、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべき事を弟子達に示された」。するとペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずがございません。」と言ったのです。イエス様の地上に来られた目的は全人類の救いのために死に、よみがえり、罪とサタンを打ち破るためでした。



いよいよその肝心な時にペテロはその行く手に立ちはだかったのです。ペテロはイエス様を愛していたからです。そんなひどい目に合うなんてとんでもないと、必死に止めたのです。しかしイエス様に「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神の事を思わないで、人の事を思っている。」(マタイによる福音書1621-23)と言われてしまったのです。どうしてこんなに食い違ってしまうのでしょう。ペテロは何とかしてイエス様を励まし、力になりたかったのです。



これはわたし達にとっても大切なことです。ペテロもわたし達も、地上からの者です。イエス様は上からの方です。地上の肉の者がどんなに力を尽くしても上からの霊の世界は理解できません。結局は冒頭の御言葉、「生きた方を死人の中にたずねてしまっている」のです。知識の限界です。この世の事は、知識で理解できるでしょう。しかし、霊の世界に対しては、信ずる信仰で受け止め従った時にのみ、わたし達の霊の目が開かれるのです。

























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# by oume-akebono | 2017-04-16 12:37 | 週報メッセージ

受難日礼拝

受難週を迎えました。
罪人であるわたし達を神様と和解させるために、わたし達の罪を贖って下さったイエス様の十字架の御業を覚え、今週の金曜日(14日)は、午後8時から受難日礼拝が行われます。
そして、16日の主日はイースター礼拝です。
教会学校では、イエス様の復活をお祝いします。
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# by oume-akebono | 2017-04-11 01:12 | 集会案内

(ペテロの第一の手紙 3章8-9節)       大谷唯信牧師



「あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新しい目標、課題、思いもしなかった問題等々を目の前にし新たな思いで取組まれている事でしょう。近頃世界はトップ指導者の愚かな言動で不安を撒き散らし結局は武力による均衡でのかろうじての平和維持で、昔ながらのこの低次元のワンパターンを脱却できず、人間の弱さを見る思いです。「実に被造物全体が、今に至るまで共にうめき共に産みの苦しみを続けている」(ロマ8:22)のです。わたし達の生活でもこの世はサタンの支配にあり肉の働きの強い支配が迫って来るのが現実ですから「御霊の最初の実を持っているわたし達自身も、心の内でうめきながら、からだのあがなわれることを待ち望んでいるのです」(ロマ8:23)



しかし私達クリスチャンは「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さり、どう祈ったらよいかわからなくても、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたし達のためにとりなして下さる」(ロマ8:26)のです。しかも「神は、神を愛する者たち、即ち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益として下さる」(ロマ8:28)のですから感謝です。



イエスさまは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っています。



冒頭の御言葉はあの弱かったペテロが聖霊に変えられて語っているのです。わたし達はこういうペテロを見て励まされます。彼はどのようにして変えられたのでしょうか。彼の生涯を学んで下さい。彼は主に従いながら変えられました。今は教会がキリストです。冒頭の御言葉を実践し自分の生き方、有り方をチェックしキリストと共に死に共によみがえる信仰を自分の中に確立していく目標で歩みましょう。























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# by oume-akebono | 2017-04-09 13:49 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)       大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。



わたし達の教会も4月を迎え、新年度をスタートしたのである。昨年は「御言葉による霊的成長」をテーマとして歩んできた。今年はその延長線ではあるが、さらに御言葉の力を信仰によって獲得し「生きた教会」とされ神の安息に満たされ「主の証人」として立ちたいからである。



その力の源は御言葉にある。御言葉によって神と出会えるからである。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇119:130)「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)「あなたの御言葉を愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)このように御言葉は大いなる力が秘められているのだ。



しかし、同じく御言葉を聞いて労苦を共にし歩んで来たにもかかわらず、何ら意味がなかった者もいたと聖書は語る。何故か!それはわたし達も知っておく必要があろう。「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4:2)

7000年前のアダムの時から現在まで、成功と失敗は同じ原因である。即ち、信仰と不信仰の違いだけである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。(ヘブル11:6)のである。



信仰は上からの神の知恵を得る。この世の人は神を信ぜず自分の知識、この世の常識で生きるのを良しとする。しかし人は、人間の考える理性、常識以上に深い霊的存在、自分を超えた霊的存在であることを受け入れない。パウロも神と律法の専門のパリサイ人であり完璧と自覚しキリストを迫害したが、キリストに出会い霊の目が開かれた瞬間、自分の高慢、罪深さに気付き、全く砕かれ伝道者となった。十字架の言こそ神の力であり真実自分の求めているものであったことに気付かされたのである。今年度は常識を越えた「山をも動かす信仰」が課題である。




















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# by oume-akebono | 2017-04-02 15:30 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章26節)   大谷唯信牧師



「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さる。なぜなら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」



人は本当に追いつめられ苦しくなるとうめきしか出なくなる。もう言葉にもならないのだ。祈りも信仰も、何もかも、空しく絶望の闇となる。その死と恐れの嵐に翻弄されている最中にも耳もとで「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の声と「わたしはあなたと共にいる」、極限の時に必ず聞こえて来る声である。



何も出来なくてもただ思いの中でその声に委ねてみるとよい。その思いを持つ事は死の瞬間でも出来る。自分が死んだ状態に、何が何だかわからなくてもいい、自分の存在そのものをただ上を見上げて委ねる。身を投じる感覚であろうか。勇気、悔改め、そんな格好いいものではない。惨めで見っともないままである。闇の中に身を沈めたまま動けない状態である。突然に光に変ったのだ。自分の中が泉となって湧きだし生きているものと死んでいるものとが見えるようになった不思議な感覚だ。



以来、御言葉のメッセージがそのまま本当だとわかったのである。人を生かすのは知識や物ではなく霊であって肉は何の役にも立たないのだ。キリストが注いで下さる十字架と聖霊が生かして下さるのである。人は神に造られた霊的存在だからである。人は土から生まれ土に還る。「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7) 神の息とは霊である。生きた者となったとは魂が派生した事である。魂とは心であり知情意を持つ人間性、人格である。この心は霊が土台となっているのでだ。人は肉的存在である以上に霊的存在と言えよう。この霊に神の霊が注がれる時、生かされるのだ。主は御霊のとりなしによって常に働きかけわたし達を生きる者にされているのである。
















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# by oume-akebono | 2017-03-26 02:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)   大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」



子どもにパンを食べさせるのに、パンのおいしさ、成り立ち、作り方、その歴史等を教えるだけで、食べさせたと安心する者はいないと思う。食べる者も、それについて聞いただけで腹いっぱい食べた気になる者もいないであろう。ところが神の言となると聞いただけで食べた気になってしまう。その言葉の意味、解釈を聞いているだけなのに、食べた気になり、教えた者も、充分に食べさせた気になっているのではないか。



もしそうだとしたら大きな錯覚である。パンの場合はすぐにわかるだろう。子どもなどは説明より実際に手に取って口に入れ食べなければ、決して満足しない。赤ちゃんはおなかが満たされなければ泣き止まない。説明は全く役に立たないだろう。しかし、神の言はさらに説明し、学び、研究し、またまた食べた気になるまで学習する。これがニコデモ信者であり、富める青年信者だ。あとは何を言われても、「それは小さい時から知っています」となる。



これが知的学習の限界である。この世も知的情報の迷路にいるのだ。今や現代の諸教会の多くが、頭は脳溢血、体は貧血、心は飢餓状態で、動くに動けぬ重体になっているのではないだろうか。私達はこの現実の実態をもっと直視すべきであろう



連盟の教勢報告書を見ると、連盟には教会・伝道所が全国に325もある。礼拝出席の平均を見ると、10年前の2006年では44.2人、2015年になると37.6人で40人を切っているのだ。ここ数年はさらにひどく2014年の年間礼拝出席者の合計の平均人数は13,520人であったが、2015年では12,225人。何とこの一年間で1,295人もマイナスになっている。受浸者も全国で455人が一年後の2015年には369人、つまり86人マイナスとなっている。



今年も7月になると2016年度の報告が出るのだが、実に心配である。この世の力は使徒時代から強大であった。しかし、キリストは教会に勝利を与えられている。私達は信仰によって勝利を受け取り前進できる。

















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# by oume-akebono | 2017-03-19 02:17 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1章8節)        大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」



主の計画はわたし達一人ひとりを「主の証人」にすることである。このことはクリスチャンであれば、当然のように理解していると思う。そこでそれをもう少し明確に捉えてみたいのだ。



私達はどのように主を見、意識し証人になろうとしているのだろうか。これは最も信仰の土台となる所であるから自らを明確にしておく事が必要だと思う。



「わたしはキリストを救い主として信じます」と信仰の告白をする。その時、証人としての責任も多少あると思う。そこで当時の弟子達の証人としての告白内容を見てみよう。「このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたし達は皆その証人なのである」(使徒行伝2:33)「あなたがたは聖なる正しい方を拒んでいのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたし達は、その事の証人である」「イエスの名がそれを信じる信仰のゆえに…この足なえの人を強くしたのであり、…イエスへの信仰が彼を完全にいやしたのである」(使徒行伝3:14-16)又、「この人が元気になっているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺した主を、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によるのである」(使徒行伝4:10)



即ち、「主の証人」としての告白は「よみがえりの主」、「死人からよみがえられた主」を告白する事にあった。「救い主」だけの証人では愛の人、優れた人、偉大な人のレベルであって理性的にも受け入れやすいが何の力もない。「主はよみがえられた」との信仰の告白にこそ理性を超えた信仰の霊的領域となって霊の火が燃え上がり神の力となっていく。よみがえりは理性と信仰が激しくぶつかるところだ。弟子達は復活の主に出会っても信じることができなかった。しかし主のよみがえりの告白にこそ聖霊が働いて下さる事を知ろう。


















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# by oume-akebono | 2017-03-12 05:06 | 週報メッセージ

各集会の御案内

私たち「青梅あけぼのキリスト教会」では、下記の集会が行われています。
どなた様のご参加も歓迎いたします。
どうぞお気軽においでください。

≪主日(日曜)礼拝≫  礼拝堂にて
  <第1礼拝>  午前9:30~10:30   
  <第2礼拝>  午前11:00~12:30
  <夕 拝>    午後7:30~8:30  

≪教会学校≫  幼稚園舎にて
  <小、中、高校生科>   ¬
  <青年科>        +- 午前9:30~10:30
  <成人科>        」

  <J-Switch> 午後2:00頃~
   小学校高学年~高校生の小グループでの分かち合い。
   季節ごとに、楽しいイベントもあります。

≪祈祷会≫   礼拝堂にて
  <水曜日>  午後8:00~9:00
  <土曜日>  午前7:00~7:30

≪その他≫
  <聖書に親しむ会> 毎週水曜日 午前9:30~11:00 礼拝堂にて
  <ベビーのためのあけぼのプレールーム> 
            2才未満の赤ちゃんと、お母さん・お父さんのための広場。
            毎週月曜日(休日除く) 午前10:00~12:00 幼稚園舎にて
  

  *プレールームのお問い合わせは、
        「あけぼの幼稚園」(℡0428-76-1577)までお気軽に。












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# by oume-akebono | 2017-03-11 23:21 | 集会案内

(エペソ人への手紙 3章16-17節)        大谷唯信牧師



「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、キリストがあなたがたの心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活するように祈る」



御霊こそがわたし達の内なる人を強くして下さるのである。御霊に対する信仰を深めよう。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。何故なら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14:17)と主は語られた。



現代の教会の多くが聖霊への信仰を失っている。御言葉も教会も聖霊によって与えられたのに。聖霊の助けなくして御言葉の命に触れることはできない。それは単なる文字、教訓となり、やがて古びてしまう。



「イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリント13:13)。これは、パウロがコリント第二の手紙の最後に記した祝祷である。即ち、主イエスの十字架の死と復活によっての恵みと、独り子イエスを救い主として与えて下さった神の愛が、聖霊との親しい交わりによって現実に豊かなものとされ、日々信仰の確信にまで導いて下さる感謝の祈りであろう。父と子と聖霊は一つの神であり、特に御聖霊は、神の霊なる命がわたし達の直面するすべての出来事、日々の生活そのものに満ち満ちている事実に、わたし達の霊の目を開いて下さる。慰めと平安に満たされ、神とキリストが観念的な過去からの知識のお題目ではなく、神の命の実体に触れさせて下さるのが御聖霊である。



どのようにすればそれが得られるのか。まずは御聖霊を信じ、親しく心に迎え、生活のすべての中で交わることだ。次に、自分の心の内を正直に開いて喜びも悲しみも語り、御聖霊に相談する。さらに、御霊の中に温かく包まれ御言葉を味わいつつ思い巡らし、キリストが自分の中に住まわれ、内なる人が強められ、大胆に歩んでいる姿を信仰によって見るのである。御霊への信仰が、すべてのものに神の命を吹き込むことを見るだろう。























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# by oume-akebono | 2017-03-05 23:10 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)    大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである」



イエスは人が生きるのに一番大切なものとしてパンと神の言葉を上げている。パンとは勿論食べ物の事であるが広い意味ではこの世で得られる金、地位、環境すべてであろう。とてもわかりやすい。しかしこれ以上に大切なものとしてイエスは神の言葉をあげられた。だが何の事かわかりにくい。神の側からの出来事であるからその重要性、必要性の価値がわからない。故に捨て置く事になる。



腹が空けばパンを求め食う。これは当たり前でわかりやすい。犬や猫、何もわからない子どもでもわかる。今や世界は奪い合ってもパンを食おうとしている。ちゃんと食えるようになれば一人前との考えもある。食えなければ半人前、未熟者と見られる。しかし本当にそうなのだろうか



イエスはパンを否定しているのではない。パンだけではないと言われた。これに関心を寄せる人はどれくらい居るのだろうか。この世のあらゆる問題はこれを抜きにしてパンだけで生きているが故に起きているのだが。



これを知っているのが私達クリスチャンでありこれを証しするのが私達の神からの使命ではなかろうか。



神の言葉は聖書に記されている。イエスがパンと神の言葉の二つを並べている意味は深い。パンを食べれば体は生きる。頭で考えてパンの成り立ち、成分、造り方を研究し理解しそれだけで食べた気になる人はいないだろう。しかし神の言葉に対してそう言う人が沢山いるのだ。神の言葉は命のパンである。真の食物、即ち霊的食物なのだ。食べれば霊が生きる。霊的な力が与えられる。もし力が与えられないとするなら知的に理解し暗記しただけで食べてはいないのだ。マンネリ化しても同じ事が起きる。日々御言葉を食べると、理解、教訓レベルではなく自分の自我そのものが罪という自覚に砕かれ霊が生き霊の主に触れる。こうして霊性が深められていくのである。











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# by oume-akebono | 2017-02-26 02:35 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)   大谷唯信牧師



御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。




わたしたちの教会は必ず豊かに成長する。キリストの命である御霊が教会に注がれているからである。




神が与えた下さった独り子イエス・キリストも、十字架による福音の恵みも、わたし個人にではなく、わたしたち教会に与えられているのである。大きく言えば天地創造、アブラハムの選び、イスラエルの民の選び、そのすべての歴史、そして独り子イエス、十字架の死と復活、教会の誕生から現在のわたし達の教会までの歩みと今のわたし達の教会の在り方も、すべてが神の御手の中にある神の出来事であり御霊の導きにあるのである。決してたまたま起きた偶然の出来事ではない。すべてのものは、これ(キリスト)によってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。(ヨハネ1:3)と聖書は語っているではないか。




私達の教会はさらに深く成長する必要がある。すでに与えられている恵みを「世の光」「地の塩」として世に仕えるためである。

だからと言って焦ったり思い悩む必要はない。御霊が押し出し促して下さるからである。




「御霊によって歩く」とは、常に信仰によって「主は我らと共におられる(インマヌエル)」と言う信仰で歩む事だ。




信仰は決してマンネリ化ではいけない。わたし達が救われたのはイエス・キリストを信じその信仰によって救われたのである。

この信仰は自分の中で明確にしておく必要がある。からし種一粒の小さな信仰であってもその根拠は自分ではなくキリストにあることを覚えよう。




ガラテヤ教会はパウロに叱られた。「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。 あれほどの大きな経験をしたことは、むだであったのか。(ガラテヤ3:3-4)と。

一所懸命であってもいつの間にか肉の働きに変わっていることがあるのだ。わたし達が教会である。教会と私達の成長は一つである。

御霊に歩もう。





















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# by oume-akebono | 2017-02-19 01:38 | 週報メッセージ

(箴言 4:23)          大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



主は「心を守れ」と言われる。「心」と言うとわたし達は真心、豊かな心、また心を尽して等と美しい純粋なイメージが出てくるものである。確かに誰もがそのような美しいものを求めていると思う。たとえ少し足りなくてもある程度の温かい心、真実な心は持っていると自負している。


ところがそれがそもそもの間違いなのだ。サタンからの落し穴である。人生を狂わせ、世の中を狂わせている元凶なのだ。主は「わたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うてわたしに従って来なさい」と言われた。即ち、日々自分を捨て、日々与えられてくる自分の十字架を負って主に従う、そこに命の泉は流れ、その結果わたし達は命の泉を得たのではないか。これは自分を捨て自分の十字架を負った結果与えられた命である。それがいつのまにか前提になりそれを守り維持しようと自分の中で固まってはいないだろうか。知識は大切である。


しかし、「知識は人を驕らせ、文字は人を殺し」と命のないものに変化してしまう事に気をつけねばならないのだ。サタンはこの世に神の言葉を疑わせ否定し知識をアダム達に取らせた事は未だにわたし達にも向けられているのである。パウロは「御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げるというのか。あれほどの経験をしたことは、無駄であったのか」(ガラテヤ3:3-4)と語っている。信仰による霊の出来事がいつの間にか知識による肉の出来事にすり替わっているのである。


どんなに素晴らしかった出来事、感動であっても過去になるとしだいに死んだ文字になってしまう。知識、習慣、伝統、経験、すべて大切なものだ。それが死に体になるから気をつけねばならない。「油断することなく」である。今迄の経験、知識を生かすには、これに頼るのではなく日々自分を捨て、十字架を負い主に従うことである。信仰によって常に霊の命を吹き込むのである。




















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# by oume-akebono | 2017-02-12 23:07 | 週報メッセージ