(コリント人への第二の手紙 5章17節)    大谷唯信牧師



「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」



このように誰でもキリストにつながるならば過去の古い自分は去り全く新しい命、キリストの命とされて生きられるのである。どうしたらそのようになるのだろうか。それにはまず自己を中心に生きてきた罪(エゴ)を悔いてイエス・キリストを救い主として信じ(受け入れ)、バプテスマを受ける。ここから新しい生活が始まるのである。「誰でもキリストにあるならば新しく造られたものである。」どんな過去でも罪でも関係なくその人は新しく造られたものとされる。「そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるであろう」(使徒行伝238)と約束されているのである。



即ち、わたし達がイエスを信じる信仰をもつ時、常にそれを支え導く聖霊が賜物として注がれる事になっているのだ。「この約束は、われらの主なる神の召しにあずかるすべての者、すなわちあなたがたと、あなたがたの子らと、遠くの者一同とに、与えられているものである」(使徒行伝239



パウロはイエスを迫害する者であったがイエスに出会い回心しその直後聖霊の注ぎによって全く新しくされ伝道者として用いられたのである。ペテロや弟子達もイエスの天に帰られた後は恐れと不安の中で動けなかった状態にあったが聖霊が約束どおり注がれてからは、周りも驚く程に堂々と説教し主の証人として立ったのである。



その力の秘訣は何だったのだろうか。それはただ一つ、聖霊であろう。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地のはてまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝18)である。しかしここで大切な事はどのようにして待ち望んでいたかではなかろうか。パウロも弟子達も共通しているのは、「祈っていた」事だ。「共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」のである。祈りによって生まれる主の臨在感の中にいた事であったのだ。小さな祈りの火をともしていたのである。































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by oume-akebono | 2017-10-29 16:46 | 週報メッセージ

(へブル人への手紙 11章8節)    大谷唯信牧師



「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。



現在の諸教会は、何故低迷しているのか?その答えは実にはっきりしている。それは、御言葉と聖霊によっての、神に対する生きた信仰を失ったからである。現代の教会は見事に、狡猾なサタンの術中にはまっているのだ。即ち、知識と観念の言葉遊びの世界をつくり、自分なりの教会を形成しつつ、神の言葉という永遠の命の話題に興じている、正に富める青年のようである。



これは「善悪を知る知識の木」の実を食べたアダムの路線である。サタンによって眼がさえぎられ、真理が全く見えなくなっている。イスラエルの民の二の舞だ。「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」(ヨハネの黙示録 2:4)謙虚にこれを認める所からの再出発が必要だろう。



これは他人事ではない。この世の社会も教育、経済すべてが真実から離れ、この世の闇に迷い込んでいる。肉が基準になっているからだ。私たちも、油断禁物。大きなことは言えない。パウロのように「わたしは罪人のかしらである。」との認識に立ち返って、新しく出発することだ。



幸い私たちの教会には「からし種一粒の信仰」は与えられている。主の恵みによって霊の命があるではないか。キリストの恵みを受けているではないか。だからこそ、新たな志を持って「あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求め」(ペテロの第一の手紙 21-2)ようではないか。



知識は人を驕らせ盲目にする。自らが盲目であると認めた所から霊的な目が開いてくるのだ。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識にたよってはならない、すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」(箴言35-6)これこそアブラハムの信仰の歩みである。信仰を知識で止めてはならない。知識は肉の殻となる。このレベルの教会では、魂は救われないことを知ろう。
























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by oume-akebono | 2017-10-22 16:39 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 4章18節)     大谷唯信牧師



「愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。」



パウロは「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と神の啓示によって語っている。ならばわたし達も、御言葉を通して神と向き合いその光によって自分の現状と向き合うべきではなかろうか。それは自分も御言の光に照らされて神の啓示(メッセージ)を受けるためである。



本当に御言がわたしにとって神の力になっているのか。「愛には恐れがない」「完全な愛は恐れを取り除く」「わたし達は互いに愛し合おうではないか」。御言葉に聞き、受け入れ従うとはわたし達もよく知っている。しかし実際にわたしは御言葉が自分の中で生き生かされ、以前より解放された勝利の喜びに満ちているのだろうか。その変化が親しい人達に自然に証しとなっていくのであるがどうであろうか。わたし達が主の働きの証人として立たせるために御聖霊が導き背中を押して下さるのだ。それらは初代教会の歩みに見る通りである。「イエス・キリストはきのうも今日も変ることがない」。わたし達の教会にも同じ恵みが与えられているのである。



もし、御言葉が自分の内に実現していないと見るならば正直にその問題点を探すべきであろう。主はそれも必ず示して下さる。その問題の一つは、あの「富める青年」に見る。求めてはいるのだが主の言葉に対して「小さい時から守っています」等と答えてしまう。頭で理解し知識で知っている正解を出しただけで現実の自分とは向き合っていないのである。誰にも起る事だ。



私達は愛そうと願い、又、愛している時ですら相手に対し反感や嫌悪、時には憎しみすら心の奥に秘かに感じる者だ。人はどんなに愛しても一分のすきもなくぴったりと一致する事はない。期待しても要求しても人間がちがうのだ。だから愛し合う(認める、許す、尊敬)。それ以上は支配しようとするエゴ()にすり替ってしまうのだ。聖霊に拠り頼め!そうすれば出来る!他に道はない。









































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by oume-akebono | 2017-10-15 16:43 | 週報メッセージ

10月8日の礼拝後の昼食は、毎年恒例のバーベキュー!でした。
以前は振起日バーベキューとして夏休み最後の主日に行っていましたが、
数年前から10月開催になり、規模も内容もパワーアップしている感じです110.png
欠かせない人気メニューは、北海道出身の副牧師自ら腕によりを掛けて作るちゃんちゃん焼き
半身の鮭を2つ焼きます165.png
そして今年人気だったのが、デザートのマシュマロ。子ども達も、自分で焼きました。
今回の参加者は70名を超え過去最大!となりましたが、長年の経験からみんなの手際も良く166.png
大人も子どもも楽しい交わりの時173.pngとなりました。
主にある家族であることを、いつもとは違う雰囲気のなかで実感です。
hallelujah!
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by oume-akebono | 2017-10-08 20:52 | 行事

(コリント人への第一の手紙 2章8節) 大谷唯信牧師



「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。」



「この知恵」とは世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれ、隠された奥義としての神の知恵である。それは十字架のイエス・キリストの事だ。しかも生まれながらの人は肉(エゴ)で生きているので、神からの霊のことは分からない。何故なら、肉と霊とでは周波数が違うからである。ラジオでも、周波数が異なるならその局の放送は聞こえないではないか。肉と霊とは周波数が違うのだ。「この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っている者は、ひとりもいなかった。」(Ⅰコリント28)のはそのためである。



パリサイ人パウロもそうであったが、彼は、700年も前の預言者イザヤの「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は、ご自身を愛する者たちのために備えられた」との預言が、時が至って成就したことを御霊の啓示で知らされ、さらに伝道者としての召命を受け、立たせられ、多くの実が結ばれ残ったのである。



御霊の周波数に合わせるには、肉の思いでは全く駄目で通じないのだ。「この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。」(Ⅰコリント121)と御言葉は語る。ではどうすればよいのか。パウロが示されたことは、コリント人への第一の手紙1章12~30節に記されている。即ち、神はこの世の愚かな者、無きに等しい者を敢えて選び、教会を誕生させ、全世界に福音を伝える使命をそれらの教会に託されたことを知っていくのである。



今やキリストの福音は全世界に伝えられ、この青梅の地にも福音を届けてくださった。神は青梅あけぼのキリスト教会として私たちを召し、永遠のいのちの中にある「神の家族」として下さったのである。私たちの出会いは単なる偶然や自分の思いではなく、それらを超えた神の導きであるのだ。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そしてあなたがたを立てた。豊かに実を結ぶため…」(ヨハネ1516-)と主は語られる。私たちは二千年の教会の歴史の恵みの上に立っているのである。



















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by oume-akebono | 2017-10-08 13:09

(ペテロの第二の手紙 3章18節)        大谷唯信牧師



「わたし達の主、救い主イエス・キリストの恵みと知識において成長しなさい。」



私達は神の恵みと知識によって生かされ成長する。神の恵み、神の知識とは何か。パウロは語る、「十字架の言は滅びる者には愚かであるが、救いにあずかる私達には、神の力である。この世は自分の知恵では神を認めるには至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神は宣教の愚かさで信じる者を救うこととされたのである。それは十字架につけられたキリストである。」(Ⅰコリ1:18)それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。



「律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおして来たのである。」(ヨハネ1:17)

旧約では人は常に失敗であった。律法はあっても守る力がなかったからだ。真理(律法)は罪を裁くだけであったからである。



しかし、神はひとり子なる真理によって罪を指し示し、同時にめぐみによって罪を贖い勝利を与えてくださった。これを信じる信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力であると聖書は語る。「世に勝つ者は誰か、イエスを神の子と信ずる者ではないか。」(Ⅰヨハネ5:5)



では、実際にこの恵みを受けるにはどうしたらよいのか。まず御言葉によって自分の罪を一つずつ明確にとらえ、自分の罪として認めることである。「思いわずらうな」と御言葉が言う、自分は思いわずらっている。それは罪である。御言葉は「許しなさい」とある。しかし許せない。これは自分の罪である。はっきりと自分の罪であることを認めよ。これが大切なのだ。孤独で寂しく悩んでいる。主は「世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と言われている。これも自分の罪である。



主イエスは罪を贖うために来られたのだ。「主よ、この罪を贖ってください」とはっきり祈り、主の十字架に委ねるのだ。御聖霊はあなたを助け、孤独感も不安も消え平安に変わるのである。恵みとは、自分に替わり主がなさってくださる事である。





























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by oume-akebono | 2017-10-01 15:59 | 週報メッセージ