(ローマ人への手紙 12章2節)    大谷唯信牧師



「…心を新たにすることによって、造りかえられ、…」



どのような素晴らしい信仰を得ていても、日々新たに造りかえられることを失ったならば、その信仰は観念だけとなり、死んだものとなる。そこには命も力もない。たとえ深い人生観を語り、学識に富んだ言葉であっても「やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである」(コリント人への第一の手紙131)。魂を救う力はない。ということは、ベテランのクリスチャンであっても、説教者であっても、失格者になり得るわけだ。



この世の肉の事であるなら、誰にでも目で見え、手で触れることができるので分かりやすい。しかし、霊の事は霊の心が開かれていなければ、見えないのである。勿論、霊の命を持っている者には、相手が霊の命を持っているか否かはすぐに分かる。荒野のヨハネが群衆の中に居られるイエスを見て、一瞬にして「見よ、神の小羊」と叫んだのに対し、学者やパリサイ人達には、イエスの中に霊なる神の命が見えなかったのだ。



そういう者たちが指導者になっていたから、イエスは「盲人が盲人の手引きをする」(マタイによる福音書1514)と言われたのである。内面の問題は実に観念的になりやすい。神学で塗り固める余り、本来の自分の命が消えていることに気付かない。奉仕や活動でも同じことが起こる。



勿論、神学も奉仕も必要なのだ。なくてはならない大切なものである。だが、これらは永遠の命を得るための手段でしかない。ではこの手段を通して何を得るのか。目の前におられる生ける主と出会い、永遠の命をいただき、復活の主と出会った者として、ペテロ達のように「主の証人」として立ち上がることである。



ペテロ達は神学や律法を論じたのではない。人々は彼らを見て「大胆な話しぶりを見、同時に二人が無学なただの人達である事を知って不思議に思った。そして彼らがイエスと共にいた者である事を認め…」(使徒行伝413)と聖書は伝えている。彼らは論じたのではない。「イエスの名によって立ちて歩め!」と主を証したのだ。これこそ、日々聖霊によって新たにされている教会の姿なのだ。






























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by oume-akebono | 2017-09-24 17:55 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 13章23節)           大谷唯信牧師



「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである」



教会の成長と私達の成長は一つである。これを受けるには私達が日々に祈りの中で御言葉を信じ実践し生活の中で味わい、「この御言葉は本当だ」と確信を持って言い切れるようになる事だ。それは自分の小さな考えや、サタンの巧妙さに陥らないためである。サタンの目的は一つ、私達をキリストから、教会から離れさせ信仰を失わせる事だ。



御言には私達を新しく造り変える力がある。自分の心の奥に御言を落とし込もう。自分の思いの中では常に霊と肉とが戦っている。サタンは肉に語りかけ肉の欲する方へ導く。肉の語りかけはわかりやすい。生まれながらの肉の五感で理解できるからである。自分の欲望、興味にストレートにつながっている。しかも肉は「目には目を、歯には歯を」と肉特有の報復の世界となる。肉では平和は造れない。



御言は語る、「肉の働きは敵意、争い、そねみ、怒りのたぐい」(ガラ5:20)と。今の世界情勢が正にこれである。互いに正義、平和を求めながら口汚くののしり合っている。日本もこれに加わっているのだから情けない。「気をつけるがよい。もし互いにかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互いに滅ぼされてしまうだろう」(ガラ5:15)と警告しておられる。これらの国の指導者はここで戦争が起きてしまったら世界に対して本当に責任が取れるのだろうか。本当に相手国に対して本気で謙虚に向き合っているのだろうか。全くそのようには見えない。自分の権勢を誇り相手を馬鹿にして…。しかし、これが私達の高慢な姿の本音である。何千年たっても肉は変わらないのだ。変えられないのである。



肉は肉、滅びしかない。 … どうしたらよいのだろう。御言に生きるのだ。御言には御霊が働いておられる。御霊によって歩くとは御言を信じ神の臨在を信じ、従う。平安はここから来るのだ。


















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by oume-akebono | 2017-09-17 14:49 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2章12節)   大谷唯信牧師



「あなたがたはバプテスマを受けて彼(キリスト)と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」



バプテスマはキリストを信じる信仰の出来事として見るならば、単なるセレモニー以上のものである。神が天地を創造した奇跡に匹敵するほどの大きな出来事なのだ。「神は人の心に永遠を思う思いを授けられた」(伝道の書3:11)。即ち、天地を創造したと同時に人の心に永遠の天地を包み込む広大無変な思いを与えられたのである。「思う思い」とは永遠を思う「信仰」のことである。



人の心は汚れに汚れ目先のこと、自分の手で触れたものしか見えなくなってしまっている。何と小さく疑い深く狭い存在になっている事か。自分の小さな世界で独りぼっちのお山の大将である。本音は自信もなく寂しいものである。意味のない虚勢に生きているだけだ。だから「目を覚ませ」と聖書は語りかける。「愚かな者は心のうちに『神はいない』と言う」(詩篇53:1)何故か?「清くならなければ、誰も主を見ることはできない。すべての人と相和し、自ら清くなるように努めなさい」(へブル12:14)「心の清い人たちは神を見るであろう」(マタイ5:8)と聖書は語っているのである。



バプテスマを受けるという行動はイエスを救い主として信じる自分の信仰告白なのである。「心で信じて義とされ、口で告白して救われる」(ロマ10:10)つまり信じた事を口で告白し公にする、宣言する、この行動が伴う事が大切なのである。



バプテスマは肉から霊への新しい命の誕生であり新しい出発である。だからと言って急に完全になるのではない。神の子とされ永遠の命の世界に誕生したのだが霊的には赤ちゃんである。教会の交わりの中で成長し主の器、証し人として成長するのである。同時にサタンの働きは激しくなるので甘く見てはいけない。狙いは一つ、それは私達をイエスと教会から引き離す事だ。暖かく正しい論理で迫るから気をつけよう。





















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by oume-akebono | 2017-09-10 13:45 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)  大谷唯信牧師



「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」



現代はいよいよ御霊によって生きる事が現実的な課題となって来た。人間は誰でも基本的には肉(自己中心)の存在であるから教育・文化が進んでも人間の欲望・犯罪もますます悪くなるのを見る。エゴは自分の欲望が満たされる時幸せを感じ、そうでないと不安を感じたりいらだったりする。要は人は何でも自分の思い通りかそれ以上にならないと面白くないという一面がある。



私達は自分なりの信仰ではなく常に御言葉に立ち基本に立とうではないか。

御言葉は、もし御霊によって歩くならば、決して肉の欲を満たす事はないと語っている。



アブラハムは「行く先を知らないで出て行った」とある。ただ神の招きに従った。神の最善の導きを信じて従うののである。この時、自分の中にある不安に負けている人がいる。行動を起こす前からすでに負けているのだ。自分の中にある自信、自分の力に頼っているからだ。聖霊がその時、その時、必ず働いて勝利する事が出来ると心の奥で確信する事が大切なのである。朝出かける時、人と会う時、証しをする時・・・。行く先を知らないで出て行く。アブラハムは、一歩先の事はどうなるかわからないけれど、主が共にいて守って下さるという一点には疑いや不安をやめて主に従ったのである。彼を支えたのは知識や経験ではなく神と共にあると言う臨在感だ。



「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。」(ヨハネ14:18/16「それは真理の御霊である」(ヨハネ1417)と主は語っておられる。



御霊によって主との臨在感を期待し味わってみよう。慣れて来ると孤独感、寂しさはなくなりどのような状況でも心の内は平安で暖かく御霊の実が味わえる。主が共に居られる事が日常の実感となるのである。


















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by oume-akebono | 2017-09-03 15:39 | 週報メッセージ