(箴言 3章5-6節)         大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。

全ての道に主を認めよ。そうすれば主はあなたの道をまっすぐにされる。」



信仰生活は宇宙ロケットに似ている。宇宙の軌道に乗るまでは、大きな燃料タンクをいっぱいにして昇って行くが、軌道に乗れば身軽になって宇宙の軌道の流れに乗り、管制室の誘導によって前進する。交信が途絶えれば、宇宙の藻屑にもなりかねない。



信仰生活でも求道中はまだ自力で燃料を燃やし、何とか頑張る。これはまだこの世で生きる普通の人の歩み方である。当然、この世の知識、技術等々に頼ってしまうのだが、肝心な生ける命となる燃料の確保、道を間違わないように、御言葉に向かうが一時もハンドルから手を離せない。自分の力に頼るからである。信仰は自分に絶望したところから始まる。絶望の中で主を仰ぎ、絶望の自分を主に投げ捨てるのだ。その時、神の軌道に乗っていることがわかる。



イエスは「思いわずらうな、天の父はあなた方の必要をことごとくご存知である。まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて添えて与えられるだろう」(マタイによる福音書633)と約束しておられる事も心に見えてくる。



冒頭の御言葉でもわかるように、私たちがすることと、神が私たちにしてくださることとを明確に見定める必要があろう。「心をつくして主に信頼せよ。自分の知識に頼ってはならない。すべての道で主を認めよ」。これは私たちがすることである。教訓では昔のイスラエル人の失敗と同じく、律法主義になってしまう。私たちは御言葉一つ一つに取り組むのも「イエスの御名によって」の信仰で、「主を呼び求め、イエス様との出来事」として取り組むのである。



また自分の単独の出来事ではなく、キリストの体なる「私たち教会の出来事」として取り組むなら、祝福と霊的成長はさらに大きくなる。「生ける信仰は望んでいる事柄を確信し」とある。心をつくして主を信頼し、確信に至るまで主に呼ばわり、祈り信じて歩むのである。

























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by oume-akebono | 2017-07-30 15:03 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 3章7-8節)          大谷唯信牧師



「きょう、あなたがたがみ声を聞いたなら、

荒野における試錬の日に、神にそむいた時のように、あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない。」



私達の日々の信仰生活は荒野におけるイスラエルの民の歩みと、その課題は同じとも言えよう。だからこそ神は独り子イエスの十字架の死と復活によってすべての悪と死に勝利し、私達全人類の救いとなって下さった。二千年前の十字架の出来事はその場その場の出来事に留まらず神の霊的世界では驚く事にこの世の私達の過去から永遠の未来すべてを包み込み、常に「永遠の今」の出来事として今の私達に救いの道を開き、すでに完成して下さっておられるのだ。



私達の現実のこの社会には善悪こもごもいろいろあるがすべてに神からの意味があり一つ一つの日常の出来事の中に神の救いと導きが確実に示されている。それを解き明かし示しておられるのが聖書である。すべての出来事に神の意味があり神との出会いがある事がわかるのだ。



故に聖書は「今は恵みの時、救いの日である」(Ⅱコリ6:2)と語る。聖書は救いを示した神からの啓示の書だ。神はこの聖書を私達教会に与えられた。私達を神からの福音の証人にするためである。神は御自身の人への熱烈な愛を聖書に語っておられる。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)神の私達への切実な思いである。神の命がけの救いの福音を私達教会は託されたのである。「わたしがあなたがたを選んだ」と語られる。



「心をかたくなにしてはいけない」。これは私達が一番落ち入りやすい不信仰からの罪だからだ。何故すぐに不信仰になるのだろう。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・・」(ヘブル111)とあるが、望んでいる願い事で終わっているからだ。望んだならそれに「確信」と言う確固とした決断でしっかり押さえ込むのだ。信仰は願いを確信で釘付けにする。確信とはもう疑わないと言う信仰宣言だ。そこに御聖霊が働き、御霊の実となってくださるのである。


























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by oume-akebono | 2017-07-23 15:57 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章26-27節)     大谷唯信牧師



「あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。神は知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び・・・無きに等しい者を、あえて選ばれた」



信仰生活で一番注意しなければならない事がある。それは惰性である。必死に戦っている時には起こらない。慣れてきた時、順調になっている時、安心している時である。しかも本人は気付かないのが特徴であるから困るのだ。気づいた時には遅い。



「あなたはなまぬるいので、あなたを口から吐き出そう」(黙示録3:16)とキリストがラオデキヤの教会に語っている。エペソの教会には「あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。そこであなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい」と言われている。



マンネリは必ず来る。では、そういう時わたし達はどうしたらよいのだろうか。キリストは語られている、「あなたは自分では富んでいる、豊かになった、何の不自由もないもないと言っているが、実はあなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない・・・・・・すべてわたしの愛している者を、わたしは叱ったり、懲らしめたりする。だから熱心になって悔い改めなさい。」



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である。」(Ⅰコリント118)との有名な御言葉がある。本当に御言葉が神の力になっているだろうか。滅び行く者と同じく愚かとは言わないまでも、単なるクリスチャン言葉であり、心に何の喜びも影響も与えない死んだ文字になってはいないだろうか。「十字架」と思うだけで「我が罪のためなり」と胸熱く思う心は今あるのか!慣れは命を奪うのだ。



 日々の御言葉を通しての祈りと悔い改めによる主との交わりこそが心を開く。

 「油断することなく、あなたの心を守れ」(箴言4:23)と主は語られる。

















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by oume-akebono | 2017-07-16 14:41 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20) 大谷唯信牧師



「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、 わたしのうちに生きておられるのである。」



パウロは徹底して神の前に自分の罪と向き合い、取り組み、自分を支配し主張し自分を守ろうとするエゴの殻を粉々に砕き、それを投げ捨てた。あの誇り高い彼が空っぽになって十字架のイエスに身を投げ出しているのである。



霊的成長がなく、また求めることもない信仰生活は、すでに死にかかっていると言える。これは普通自覚がないのが特徴だが、逆に自覚し取り組めば、凄い成長にもつながるチャンスとも言えよう。要は肉を取り除き、御霊に満たされるための霊的作業が必要なのだが、本人が気付かない場合が多い。「あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。」(黙示録317



ペテロは、自分の中に死に値する程の罪にとりこにされている現実を見、「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。(ローマ724)と罪のどん底で主を見上げたその瞬間「わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」(ローマ725)と歓喜の叫びを上げる者とされたのである。ダビデも「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなた()がわたしと共におられるからです。」(234)と語っている。この死の陰の谷が深いほど喜びと確信は大きく確かなものとされる。



 この信仰は御霊の実を与えて下さる。肉の働き(ガラテヤ519-)は御霊の実に変えられ、豊かな実となって私達を導いて下さる。心の砕かれた者への恵みであり、肉のように自分の働きではない。上からの即ちブドウの幹につながっている者への賜物であり信仰の賜物である。たとえ死の陰の谷となっても、つぶやき、疑い、不平、不満ではなく九つの御霊の実が与えられる。


















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by oume-akebono | 2017-07-09 13:49 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章24節)  大谷唯信牧師



「なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」



これはキリスト者に与えられている信仰による恵みの法則だ。私達の教会もさらに躍進し成長する時期に来ていると思う。



さて計画を進めるに当って一般的に考えられているのが①現状把握、②目標設定と計画、③実行、④進行状況のチェック、⑤改善計画と実施、等々がある。しかしここで見られる多くの問題点はすでに②で起きてしまう。熱心に全体で統一し行おうとする程、いろいろ抵抗が出て来てギスギスしてくるのである。目標が大きく緻密な計画になるほど抵抗は大きくなる。結局、会社命令等の力で圧していかざるを得なくなるのが現状だ。



何故そうなるのだろう。それは目標に取り組むほどに「あなたはそうなってはいない!」と言うメッセージにぶつかるのである。目標は手の届かない山の上に遠のいてしまうのだ。一部の人が頑張り、あとの多くは傍観者にならざるを得なくなる法則なのだ。



イエスの言われたのはもう一つの法則である。それは信仰の法則である。企業で実験するのは難しいが、教会では実験的に取り組む価値はあると思う。それはこの世の肉の法則ではなく信仰による霊(命)の法則である。即ち、目標を願い祈ったならば信仰によってすでにかなえられていると信じた地点からの出発とする。肉による目標は近づいているようではあるが溝が深く問題点ばかりで引き離されている場合が多いのだ。



ところが信ずる信仰によって「なんでも祈り求める事はすでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになる」との御言葉に取り組んでみると一人ひとりが思いを超えた前向きの力の法則に触れる事になるのである。問題を見るのではなく主の御業を見る事が出来る。否定的な思いが逆境になるほど強力な力と信仰による宣言―「私達は大丈夫!」の力に触れるのである。イエスに触れるからだ。すでに私達はこの道を歩み出している事を知ろう。






















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by oume-akebono | 2017-07-02 22:42 | 週報メッセージ