(ヘブル人への手紙 9章14節)    大谷唯信牧師



「永遠の聖霊によって、御自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたし達の良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか」



人は猿の進化したものではなく神によって創造されました。聖書には「神は自分のかたちに人を創造された」(創世記127)「神は土のちりで人を造り、命の息(神を認識する霊)をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者(魂、心)となった」(創世記27)とあります。即ち、人は肉的存在のみではなく特別に神と同じく霊的存在として造られました。人の霊には神を認識する霊、神を礼拝し交わりを持つ魂、善悪を判断する良心の三つの部分が神の愛に根ざした知・情・意をもつ豊かな人格的、精神的存在として造られたのです。



しかし、サタンの巧妙な誘惑に負けこれに従い神との断絶を招き、以来、人は魂の渇ける者となったのです。人はこれを悔い改めることなく神の責任として居直り神中心の生き方から自己中心の生き方で今に至っています。当然心には自分を超えた大いなる存在を求める宗教心は残っていますが、そこに自分を入れたり、自分なりの都合のよいものを神として崇め生活しています。自分の都合で自由に生きる事こそサタンの巧妙な罠ですが人は気付きません。自己の欲望を満たすため自由奔放、勝手気儘に生きることを喜びと感ずるのがエゴの特徴です。



霊は神に対して死んだ状態ですが良心は生きています。ところが良心は裁判官のように罪定めをする機能です。真面目で純粋な人ほど良心に責められ、逃げ場がなく、その呵責に耐えかねて神経が参ってしまい心が病んでしまう人も多いようです。これこそイエスさまの十字架に委ねるのです。「わたし達はイエスの血によってはばかる事なく聖所に入る事ができる。心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、真心をもって信仰の確信に満たされつつ、み前に近づこう」(ヘブル1022)イエス様はこのために来られました。
















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by oume-akebono | 2017-04-30 15:37 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 9章14~29節)    大谷唯信牧師



「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」



私達の内面は信仰と不信仰が絶えずぶつかり合っています。普段は信じているはずの信仰も思わぬ出来事にぶつかるとその現実の前に信仰は消えかかってしまう事があります。



今年度は非常時にあっても信仰に立つ、これにチャレンジいたしましょう。



この父親はてんかんに苦しむ息子を弟子のもとへ連れてきましたが治りませんでした。そのことを父親から聞いたイエス様は「ああ、なんという不信仰な時代であろう。」と嘆かれたのです。父親は無我夢中でイエス様にすがり「できますれば、わたしどもをあわれんでお助けください」即座に主は「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」父親は叫んで「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」。イエス様は父親の心をえぐるように迫り不信仰を信仰に導かれたのです。彼のよかったのは不信仰ながらもイエス様にしがみついた事でした。「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ15:4



 からし種一粒の信仰でも主は取り上げて下さるのです。この父親には何が足りなかったのでしょう。それは「救いの確信」でした。わたし達も「何となくの信仰」は持っています。普段はこれで何とか間に合っています。しかし突風が来ると落ち葉が吹き飛ばされるように散らされてしまう事はないでしょうか。



 ここで大切な事は持っている信仰の上にさらに「確信」を持ってしっかり押さえ込む事です。確信も信仰も上から与えられるものとして、ただ待っている事はないでしょうか。主は「その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら」(マルコ11:23)と言われました。これこそ信仰に確信を加え不動のものにすることです。どうすればそうなるのでしょう。イエス様は「祈りによらなければ」(マルコ9:29)と言われました。実に祈りと信仰は一対なのです。



















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by oume-akebono | 2017-04-23 12:56 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 24章 5~6節)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。・・・」



イエス様はわたし達の罪を背負い、十字架の苦しみと死のすべてを受けられ、墓に葬られたのでした。エルサレム中の大事件となり、多くの人々が見ていたのです。そして、三日目によみがえられました。ところが弟子達はこのよみがえりを信じなかったのです。どうしても信じられなかったのです。どうしてでしょうか。



それは自分の知識、経験、常識的な考え方ではあり得ないことだったからです。彼らは以前からこのことを聞いておりました。主は、「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべき事を弟子達に示された」。するとペテロは、「主よ、とんでもないことです。そんなことはあるはずがございません。」と言ったのです。イエス様の地上に来られた目的は全人類の救いのために死に、よみがえり、罪とサタンを打ち破るためでした。



いよいよその肝心な時にペテロはその行く手に立ちはだかったのです。ペテロはイエス様を愛していたからです。そんなひどい目に合うなんてとんでもないと、必死に止めたのです。しかしイエス様に「サタンよ、引き下がれ。私の邪魔をするものだ。あなたは神の事を思わないで、人の事を思っている。」(マタイによる福音書1621-23)と言われてしまったのです。どうしてこんなに食い違ってしまうのでしょう。ペテロは何とかしてイエス様を励まし、力になりたかったのです。



これはわたし達にとっても大切なことです。ペテロもわたし達も、地上からの者です。イエス様は上からの方です。地上の肉の者がどんなに力を尽くしても上からの霊の世界は理解できません。結局は冒頭の御言葉、「生きた方を死人の中にたずねてしまっている」のです。知識の限界です。この世の事は、知識で理解できるでしょう。しかし、霊の世界に対しては、信ずる信仰で受け止め従った時にのみ、わたし達の霊の目が開かれるのです。

























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by oume-akebono | 2017-04-16 12:37 | 週報メッセージ

受難日礼拝

受難週を迎えました。
罪人であるわたし達を神様と和解させるために、わたし達の罪を贖って下さったイエス様の十字架の御業を覚え、今週の金曜日(14日)は、午後8時から受難日礼拝が行われます。
そして、16日の主日はイースター礼拝です。
教会学校では、イエス様の復活をお祝いします。
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by oume-akebono | 2017-04-11 01:12 | 集会案内

(ペテロの第一の手紙 3章8-9節)       大谷唯信牧師



「あなたがたは皆、心をひとつにし、同情し合い、兄弟愛をもち、あわれみ深くあり、謙虚でありなさい。悪をもって悪に報いず、悪口をもって悪口に報いず、かえって、祝福をもって報いなさい。あなたがたが召されたのは、祝福を受け継ぐためなのである。」



新年度を迎え、皆様も新しい目標、課題、思いもしなかった問題等々を目の前にし新たな思いで取組まれている事でしょう。近頃世界はトップ指導者の愚かな言動で不安を撒き散らし結局は武力による均衡でのかろうじての平和維持で、昔ながらのこの低次元のワンパターンを脱却できず、人間の弱さを見る思いです。「実に被造物全体が、今に至るまで共にうめき共に産みの苦しみを続けている」(ロマ8:22)のです。わたし達の生活でもこの世はサタンの支配にあり肉の働きの強い支配が迫って来るのが現実ですから「御霊の最初の実を持っているわたし達自身も、心の内でうめきながら、からだのあがなわれることを待ち望んでいるのです」(ロマ8:23)



しかし私達クリスチャンは「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さり、どう祈ったらよいかわからなくても、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたし達のためにとりなして下さる」(ロマ8:26)のです。しかも「神は、神を愛する者たち、即ち、御計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益として下さる」(ロマ8:28)のですから感謝です。



イエスさまは「人が生きるのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)と語っています。



冒頭の御言葉はあの弱かったペテロが聖霊に変えられて語っているのです。わたし達はこういうペテロを見て励まされます。彼はどのようにして変えられたのでしょうか。彼の生涯を学んで下さい。彼は主に従いながら変えられました。今は教会がキリストです。冒頭の御言葉を実践し自分の生き方、有り方をチェックしキリストと共に死に共によみがえる信仰を自分の中に確立していく目標で歩みましょう。























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by oume-akebono | 2017-04-09 13:49 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)       大谷唯信牧師



「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である。



わたし達の教会も4月を迎え、新年度をスタートしたのである。昨年は「御言葉による霊的成長」をテーマとして歩んできた。今年はその延長線ではあるが、さらに御言葉の力を信仰によって獲得し「生きた教会」とされ神の安息に満たされ「主の証人」として立ちたいからである。



その力の源は御言葉にある。御言葉によって神と出会えるからである。「み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。」(詩篇119:130)「あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。」(詩篇119:105)「あなたの御言葉を愛する者には大いなる平安があり、何ものも彼らをつまずかすことはできません」(詩篇119:165)このように御言葉は大いなる力が秘められているのだ。



しかし、同じく御言葉を聞いて労苦を共にし歩んで来たにもかかわらず、何ら意味がなかった者もいたと聖書は語る。何故か!それはわたし達も知っておく必要があろう。「その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。(ヘブル4:2)

7000年前のアダムの時から現在まで、成功と失敗は同じ原因である。即ち、信仰と不信仰の違いだけである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。(ヘブル11:6)のである。



信仰は上からの神の知恵を得る。この世の人は神を信ぜず自分の知識、この世の常識で生きるのを良しとする。しかし人は、人間の考える理性、常識以上に深い霊的存在、自分を超えた霊的存在であることを受け入れない。パウロも神と律法の専門のパリサイ人であり完璧と自覚しキリストを迫害したが、キリストに出会い霊の目が開かれた瞬間、自分の高慢、罪深さに気付き、全く砕かれ伝道者となった。十字架の言こそ神の力であり真実自分の求めているものであったことに気付かされたのである。今年度は常識を越えた「山をも動かす信仰」が課題である。




















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by oume-akebono | 2017-04-02 15:30 | 週報メッセージ