(ローマ人への手紙 8章26節)   大谷唯信牧師



「御霊もまた同じように、弱いわたし達を助けて下さる。なぜなら、わたし達はどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたし達のためにとりなして下さるからである」



人は本当に追いつめられ苦しくなるとうめきしか出なくなる。もう言葉にもならないのだ。祈りも信仰も、何もかも、空しく絶望の闇となる。その死と恐れの嵐に翻弄されている最中にも耳もとで「わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」の声と「わたしはあなたと共にいる」、極限の時に必ず聞こえて来る声である。



何も出来なくてもただ思いの中でその声に委ねてみるとよい。その思いを持つ事は死の瞬間でも出来る。自分が死んだ状態に、何が何だかわからなくてもいい、自分の存在そのものをただ上を見上げて委ねる。身を投じる感覚であろうか。勇気、悔改め、そんな格好いいものではない。惨めで見っともないままである。闇の中に身を沈めたまま動けない状態である。突然に光に変ったのだ。自分の中が泉となって湧きだし生きているものと死んでいるものとが見えるようになった不思議な感覚だ。



以来、御言葉のメッセージがそのまま本当だとわかったのである。人を生かすのは知識や物ではなく霊であって肉は何の役にも立たないのだ。キリストが注いで下さる十字架と聖霊が生かして下さるのである。人は神に造られた霊的存在だからである。人は土から生まれ土に還る。「主なる神は土のちりで人を造り命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった」(2:7) 神の息とは霊である。生きた者となったとは魂が派生した事である。魂とは心であり知情意を持つ人間性、人格である。この心は霊が土台となっているのでだ。人は肉的存在である以上に霊的存在と言えよう。この霊に神の霊が注がれる時、生かされるのだ。主は御霊のとりなしによって常に働きかけわたし達を生きる者にされているのである。
















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by oume-akebono | 2017-03-26 02:27 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 4章4節)   大谷唯信牧師



「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである。」



子どもにパンを食べさせるのに、パンのおいしさ、成り立ち、作り方、その歴史等を教えるだけで、食べさせたと安心する者はいないと思う。食べる者も、それについて聞いただけで腹いっぱい食べた気になる者もいないであろう。ところが神の言となると聞いただけで食べた気になってしまう。その言葉の意味、解釈を聞いているだけなのに、食べた気になり、教えた者も、充分に食べさせた気になっているのではないか。



もしそうだとしたら大きな錯覚である。パンの場合はすぐにわかるだろう。子どもなどは説明より実際に手に取って口に入れ食べなければ、決して満足しない。赤ちゃんはおなかが満たされなければ泣き止まない。説明は全く役に立たないだろう。しかし、神の言はさらに説明し、学び、研究し、またまた食べた気になるまで学習する。これがニコデモ信者であり、富める青年信者だ。あとは何を言われても、「それは小さい時から知っています」となる。



これが知的学習の限界である。この世も知的情報の迷路にいるのだ。今や現代の諸教会の多くが、頭は脳溢血、体は貧血、心は飢餓状態で、動くに動けぬ重体になっているのではないだろうか。私達はこの現実の実態をもっと直視すべきであろう



連盟の教勢報告書を見ると、連盟には教会・伝道所が全国に325もある。礼拝出席の平均を見ると、10年前の2006年では44.2人、2015年になると37.6人で40人を切っているのだ。ここ数年はさらにひどく2014年の年間礼拝出席者の合計の平均人数は13,520人であったが、2015年では12,225人。何とこの一年間で1,295人もマイナスになっている。受浸者も全国で455人が一年後の2015年には369人、つまり86人マイナスとなっている。



今年も7月になると2016年度の報告が出るのだが、実に心配である。この世の力は使徒時代から強大であった。しかし、キリストは教会に勝利を与えられている。私達は信仰によって勝利を受け取り前進できる。

















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by oume-akebono | 2017-03-19 02:17 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1章8節)        大谷唯信牧師



「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」



主の計画はわたし達一人ひとりを「主の証人」にすることである。このことはクリスチャンであれば、当然のように理解していると思う。そこでそれをもう少し明確に捉えてみたいのだ。



私達はどのように主を見、意識し証人になろうとしているのだろうか。これは最も信仰の土台となる所であるから自らを明確にしておく事が必要だと思う。



「わたしはキリストを救い主として信じます」と信仰の告白をする。その時、証人としての責任も多少あると思う。そこで当時の弟子達の証人としての告白内容を見てみよう。「このイエスを神はよみがえらせた。そして、わたし達は皆その証人なのである」(使徒行伝2:33)「あなたがたは聖なる正しい方を拒んでいのちの君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から、よみがえらせた。わたし達は、その事の証人である」「イエスの名がそれを信じる信仰のゆえに…この足なえの人を強くしたのであり、…イエスへの信仰が彼を完全にいやしたのである」(使徒行伝3:14-16)又、「この人が元気になっているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺した主を、神が死人の中からよみがえらせたイエス・キリストの御名によるのである」(使徒行伝4:10)



即ち、「主の証人」としての告白は「よみがえりの主」、「死人からよみがえられた主」を告白する事にあった。「救い主」だけの証人では愛の人、優れた人、偉大な人のレベルであって理性的にも受け入れやすいが何の力もない。「主はよみがえられた」との信仰の告白にこそ理性を超えた信仰の霊的領域となって霊の火が燃え上がり神の力となっていく。よみがえりは理性と信仰が激しくぶつかるところだ。弟子達は復活の主に出会っても信じることができなかった。しかし主のよみがえりの告白にこそ聖霊が働いて下さる事を知ろう。


















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by oume-akebono | 2017-03-12 05:06 | 週報メッセージ

各集会の御案内

私たち「青梅あけぼのキリスト教会」では、下記の集会が行われています。
どなた様のご参加も歓迎いたします。
どうぞお気軽においでください。

≪主日(日曜)礼拝≫  礼拝堂にて
  <第1礼拝>  午前9:30~10:30   
  <第2礼拝>  午前11:00~12:30
  <夕 拝>    午後7:30~8:30  

≪教会学校≫  幼稚園舎にて
  <小、中、高校生科>   ¬
  <青年科>        +- 午前9:30~10:30
  <成人科>        」

  <J-Switch> 午後2:00頃~
   小学校高学年~高校生の小グループでの分かち合い。
   季節ごとに、楽しいイベントもあります。

≪祈祷会≫   礼拝堂にて
  <水曜日>  午後8:00~9:00
  <土曜日>  午前7:00~7:30

≪その他≫
  <聖書に親しむ会> 毎週水曜日 午前9:30~11:00 礼拝堂にて
  <ベビーのためのあけぼのプレールーム> 
            2才未満の赤ちゃんと、お母さん・お父さんのための広場。
            毎週月曜日(休日除く) 午前10:00~12:00 幼稚園舎にて
  

  *プレールームのお問い合わせは、
        「あけぼの幼稚園」(℡0428-76-1577)までお気軽に。












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by oume-akebono | 2017-03-11 23:21 | 集会案内

(エペソ人への手紙 3章16-17節)        大谷唯信牧師



「どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように。また、キリストがあなたがたの心の内に住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活するように祈る」



御霊こそがわたし達の内なる人を強くして下さるのである。御霊に対する信仰を深めよう。「この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。何故なら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである」(ヨハネ14:17)と主は語られた。



現代の教会の多くが聖霊への信仰を失っている。御言葉も教会も聖霊によって与えられたのに。聖霊の助けなくして御言葉の命に触れることはできない。それは単なる文字、教訓となり、やがて古びてしまう。



「イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように」(Ⅱコリント13:13)。これは、パウロがコリント第二の手紙の最後に記した祝祷である。即ち、主イエスの十字架の死と復活によっての恵みと、独り子イエスを救い主として与えて下さった神の愛が、聖霊との親しい交わりによって現実に豊かなものとされ、日々信仰の確信にまで導いて下さる感謝の祈りであろう。父と子と聖霊は一つの神であり、特に御聖霊は、神の霊なる命がわたし達の直面するすべての出来事、日々の生活そのものに満ち満ちている事実に、わたし達の霊の目を開いて下さる。慰めと平安に満たされ、神とキリストが観念的な過去からの知識のお題目ではなく、神の命の実体に触れさせて下さるのが御聖霊である。



どのようにすればそれが得られるのか。まずは御聖霊を信じ、親しく心に迎え、生活のすべての中で交わることだ。次に、自分の心の内を正直に開いて喜びも悲しみも語り、御聖霊に相談する。さらに、御霊の中に温かく包まれ御言葉を味わいつつ思い巡らし、キリストが自分の中に住まわれ、内なる人が強められ、大胆に歩んでいる姿を信仰によって見るのである。御霊への信仰が、すべてのものに神の命を吹き込むことを見るだろう。























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by oume-akebono | 2017-03-05 23:10 | 週報メッセージ