2016年 クリスマス報告

昨年(2016)のCS(教会学校)クリスマス会の報告を致します!

12月17日土曜日の午後にCS小学科のクリスマス会をしました。
今年の目玉はJ-Swichのこどもたちによるスキット
そしてみんなでパフェ作り!

讃美、ゲーム、スキット、メッセージ、最後にパフェ作りをして、
たくさんの笑顔がこぼれました。



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そして、小学科終了後、夕方からはCS中高科のクリスマス会!

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こちらは初の試みキャンプファイアーを囲んでの讃美と証しの時間を持ちました。
12月、とても暗くて寒い外でのプレイズでしたが、皆で火を囲んで静かなクリスマスの感謝の時となりました。
その後今年はスペシャルゲストとして小作台キリスト教会の井本牧師にメッセージをしていただきました。

最後は中高生が待ちに待ったクリスマスディナー!

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普段教会に来ている中高生が、たくさんの友達を招いての楽しい交わりの時となりました。















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今年も
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by oume-akebono | 2017-01-21 16:55 | CS(教会学校)便り

(使徒行伝 4:13)       大谷唯信牧師



「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見、また同時に、ふたりが無学な、ただの人たちであることを知って、不思議に思った」



あの弱かったペテロが驚くべき変身を遂げた。わたしは若い時ここに大きな魅力を感じたものである。同じような事で本当に悩んでいたからである。いつも失敗してイエスに叱られていたペテロ。常に熱心ではあるが思ったことをすぐ口に出し行動するが失敗となってしまう。良かれと思っての事が結果的には失敗となる。「サタンよ退け!」とまでの叱責を受けたり、ユダの裏切りに激怒し自分は心から忠誠を誓うのだがイエスに言われた通り、ユダと同じ道をたどってしまう。


どうしてこうなってしまうのだろうか。肉の次元でやっているからだ。イエスは霊の次元で語るのだがペテロは肉の次元でしか分からなかったのだ。どんなに熱心でも、心を込めても、否、正しい事でも「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」(ローマ8:5)。エッ!それは何だ?と思ったが「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」(ローマ8:6)の通りであった。ペテロはそれが分からなかったのである。しかし、イエスの約束通り聖霊が注がれた。神の霊のいのちが弟子達に注がれたのである。その瞬間から彼らは創造された人間本来の霊に生きる者となったのだ。新しくされたその記録が使徒行伝である。ペテロは主に変えられた。


パウロも同じ新しくされた経験をした。「律法の義については落ち度のない者、ヘブル人の中のヘブル人、パリサイ人であり罪のない完全人間である」と誇り高い者であったがキリストの光に照らされて以来、自分を無きに等しい者、「罪人の頭である」と言う程の深い罪の自覚が与えられた。「わたしはキリストと共に十字架につけられ死んだ。生きているのはもはや、わたしではない。キリストがわたしの内に生きておられる」(ガラテヤ2:19-20)と告白し、私達への救いの道筋の一つとなっているのである。






















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by oume-akebono | 2017-01-21 15:54 | 週報メッセージ

(マタイ 16:24)       大谷唯信牧師


「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」



「人のふり見て我がふり直せ」との昔からのことわざがある。「反面教師」との言葉もある。又「人の上見て我が身を思え」もある。どのような人、状況にあっても、ただ眺めているだけでなく自分に照らして自分と取組めと言う事であろう。そうすればすべての人から尊い学びを受けることが出来るのである。「我以外皆我が師」と言う事になる。


人生は傍観者であってはならない。御言葉を教訓的に受け取ってのクリスチャン(信仰生活)であってはならない。どんなに一所懸命で真面目であっても何一つ変らないからである。
信仰生活を何年もしているのに心の内に平安もなく喜びも湧いて来ず、常に他の人に励まされ支えられなければ信仰による救いの確信がないという方は自分の心を正直に見てその問題点を発見する必要がある。どこか勘違いしている点があるはずである。どんなに熱心でもピントがずれたままの熱心では実を結ばないからだ。


あの富める青年は人前でイエスに走りよりひざまずき「永遠の命を得るためには何をしたら良いのですか」とたずねた。正に謙虚で真面目な好青年であろう。しかしイエスが律法の教えを説かれた時、「先生、それらの事はみな小さい時から守っております」とさわやか答え他に何かありますか、教えて下さいと言う態度であった。パウロもイエスに出会う前は同じ自称完成者であったのだ。ユダヤ人全部がそうであった。パウロはキリストの光の中で吟味した時、初めて自分の意志や思いに関係なく「わたしは罪の奴隷、罪人の頭と叫ぶ程目が開かれたのであった。どうであろうか。わたし達もパウロと同じく「わたしは罪人の頭である」と言えるべきではなかろうか。信仰の喜びは自分の罪の深さの自覚に比例するのである。自分の存在そのものが罪の塊と覚えた時、一切の罪許されたりとの確信が湧き上がるのだ。























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by oume-akebono | 2017-01-21 15:51 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙6:6)  大谷唯信牧師


「わたし達はこの事を知っている。私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたし達がもはや、罪の奴隷となることがないためである」





 いよいよ新しい年を迎え新しい希望に歩もうとしている。新しい希望とはキリスト御自身である。自分一人で歩むのではなく、キリストと共にキリストの中ですべてをキリストとの出来事と言う信仰を意識的に持って生活するのである。


 私達は自分一人、単独で、と言うものではないのだ。何故なら私達は皆、キリストのからだとしての教会につながりキリストの命を持つ共同体として互いに仕え生かし合う「神の家族」とされているからである。私達が受けたバプテスマはキリストと共に死に葬られキリストと共によみがえらされた恵みの信仰告白なのである。


 しかしこの信仰が生きた真実なものとなるには現実に直面する自分の内外から出て来る罪と向き合わねばならない。ローマ書7章の罪との戦いに信仰によって勝利する経験を得る必要がある。多くの信者が良きクリスチャンになるために自分の行い、自我の力で勝利しようとしてしまう。信仰によって戦おうとするが、実は自分の力で戦ってしまうのだ。


勝利すれば自我が誇り、負ければ敗北感、挫折感となる。自我が中心の信仰だからである。ここで浮き沈みしている者は実に多い。自分の信仰だからである。自分の決意に支えられている信仰はまだ入口である。その奥に入るには自分の全身全霊で取り組み、完全に敗北し剣は折れ矢も尽き果て「わたしは何と言う惨めな人間か」と絶望の中で主に委ねる、この時の全託こそが信仰、と言う出来事になるのである。信仰が頭での理解、納得ではなく全身で救いの確信となり「神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたし達のいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:13)となるのである。自我の働きが尽きた時、御聖霊が働いてくださる。一切の罪が許された解放を知るものとなろうではないか。




















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by oume-akebono | 2017-01-07 15:03 | 週報メッセージ