(ヨハネの第一の手紙4:8,18-19) 大谷唯信牧師


「…神は愛である。…愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。…わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからである。」




神の愛はすべての罪を覆い、完全に赦し、平安を満たす命である。あなたがたもこの愛を受けようではないか。私たちはすでに神の愛に包まれているのだ。それを知らないだけである。私たちはいつの間にか自分で理解し、納得したものだけを受け入れるようになってしまっている。この世のものはそれでも良いが、その理解を越えている御方である。五感でわかろうとしてもわからない。それは胎児が自分の母親をその胎内で探しているようなものだからである。


胎児は7ヶ月も過ぎると完全に人間である。母親の心理状態がそのまま安心、不安の影響を与える。さらに生まれてからの8ヶ月間こそが一生の精神的土台となる基本的不信と基本的信頼の中心軸が決まると精神科医の研究によって実証されている。この期間の乳児にはまだ自我はないので、乳児からの問題ではない。母親をはじめとする環境のあり方による。即ち、離婚、争い、失業等による不安、憎しみ、怒り等による基本的不信体験の量が問題となる。


80~90%は生存困難、60~80%は思春期に内因性精神病を起こし易い。40~60%は神経症になり易い。健康な人は20~40%としている。即ち、基本的信頼の体験の強度が60~80%であれば、比較的育ち易いと言われている。


私は自分のことを見てみると、長いこと不安定な危うい時を過ごしたと思う。それは、生まれた時未熟児で命も危なくかなりの間保育器にいたと聞いているので、そのせいかなとも考えている。しかし、その不安定感があったからこそ、神を求め、神からの救いと恵みに浴したのである。


人は所詮、孤独で寂しい存在である。心に穴が開いているようだ。だから良かった。必死に求めるからだ。それは神の愛でしか満たされない。人は神の霊と同じく霊的存在であるから、神はイエスによって神の愛を命として与えて下さったのである。
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by oume-akebono | 2016-12-25 14:15 | 週報メッセージ

(コロサイ人への手紙 2:12)   大谷唯信牧師


「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」




救われた信仰の根拠は、自分の中にではなくキリストにあり神にある。決して自分ではない。しかし、やがて信仰の弱さを感じると弱い自分をさらに見て焦り、強くするために祈り、御言葉を読み、また自分を見る。一時は強くなったようであるが、少し日がたつとまた弱く不安になり、強くならなければと自分に鞭を打つ、…この繰り返しのカラ回りに苦しむことになる。いつの間にか自分を見て評価し、自分の力で強くなろうとしてしまう。真面目な人ほど責任感が強く自分で何とかしなければと思う傾向があるからだ。


パウロもそうであった。ローマ6章は、彼の受けた完全な救いについての啓示である。これは客観的事実である。美しい富士山を景色として見ているようなものだ。実際に登ってみると道は険しく、美しい富士山は見えず瓦礫の山々である。自分の足もとから、一歩一歩の足の運びから、現実のこととして「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」「わたしの中に悪が入り込んでいる罪の法則を見る」。そこで初めて自分に全く絶望し、自分を見放し、「わたしは何というみじめな人間か。誰がこの死のからだからわたしを救ってくれるだろうか」と主を見上げ、十字架上のイエスが「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで神に自分のすべてを託したように、パウロも神に託したのだ。その瞬間に「わたし達の主イエス・キリストによって神は感謝すべきかな」と、主と一つにされたのである。


ローマ7章は救いの主観的事実なのである。この罪の自覚は人によって異なるだろうが省略は出来ない。6章で救いの客観的事実を見せ、7章で主観的事実となり、恵みの8章に入る。肉が霊へ導かれるためにはローマ6章から8章は常に行き来する。すべてが聖霊の働きである。
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by oume-akebono | 2016-12-18 14:00 | 週報メッセージ

今年は、クリスマスに礼拝です!
24日のイブ礼拝、25日のクリスマス礼拝共に、幼稚園と教会のハンドベルクワイヤによる演奏もあります。
クリスマス礼拝の後には、ティータイムでクリスマスをお祝いします。
どなた様も、どうぞご一緒にイエス様のお誕生をお祝いしましょう!

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by oume-akebono | 2016-12-18 02:42 | 集会案内

(ヨハネの第一の手紙 4章15節)   大谷唯信牧師


もし人が、イエスを神の子と告白すれば、神はその人のうちにいまし、その人は神のうちにいるのである。


今日も礼拝にて信仰告白とバプテスマ式が行われる。三人の方々だ。皆、それぞれの人生を歩んできて主イエスと出会った。何と素晴らしい事か。主イエスを信じる信仰によって救われたのだ。新しい人生が主と共に、そして教会の兄弟姉妹の交わりと祈りに支えられ、共にキリストの命をいただき神の家族とされたのである。バプテスマとはイエスを信じ救われた信仰を見える形で現した信仰告白そのものである。これはキリストの死と復活を現している。「わたし達は、その死にあずかるバプテスマによって、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活し新しい命に生きる」信仰の告白である。


神は愛である。絶対的な完全な愛である。その神に似せて人間は造られた。即ち私達は神の愛によって造られ、私達も愛の存在として造られている。故に、人が生きるには空気が不可欠のように、神の愛が不可欠なのだ。ところが神を知らず認めず自らの力で生きる道を進んでいるのがこの世での現状である。


「人はパンのみで生きるのではない。神のことばで生きるの」とイエスは言われた。神のことばとは神の命、神の愛、それはキリスト御自身である。


 人はこの世でどんなに成功しても、すべてのものを手に入れても、心の奥は孤独であり恐れと闇がある。神の愛以外のものでは絶対に満たされない心なのだ。人は神と同じく霊的存在として造られているからである。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。信じない者は、すでにさばかれている。」(ヨハネ3:16


救われるためにはどうしたらよいのだろう。使徒ペテロは語る「悔い改めなさい。罪のゆるしを得るために、イエス-キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば聖霊の賜物を受ける」と。あなたの中にクリスマスを迎えようではないか。






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by oume-akebono | 2016-12-11 01:50 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章23~24節)      大谷唯信牧師


その言った事は必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりになるであろう。何でも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう


主の命令と約束が示されている。「信じるならそのとおりになる」と2回も述べている。何と勇気が与えられることか。しかし「心に疑わないで信じるなら」と条件がついていると思わず「そんな強い信仰は自分には到底持てないのでは…?」と弱さを覚えるのではなかろうか。10人が10人とも、100人が100人とも私達をも含めて立ち止まってしまうのではなかろうか。


私達はこの自分の弱さをどのように克服したらよいのだろう。これを克服しない限り主の約束されているダイナミックな信仰生活は死ぬまで有り得ない事になる。これでは主を偽り者にする事であり、証しにもならない。私達は教会としてもここを突破し信仰による勝利を獲得しなければならないのではないか。


パウロに学ぼう。彼はどのように弱さを克服したのだろう。驚くことにパウロは弱さを嘆くのではなく「むしろ喜んで弱さを誇ろう」(IIコリント12:9)と語っている。彼も私達と同じように弱さを克服できるように祈ったのだ。ところが「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」との啓示を受けた。神は私達の弱さは全く問題にされていない、むしろ、「神の力は私達の弱いところにこそ現われる、強いより弱い方が良いと言われるのだ。


と言う事は祈り願うのは私達であるがこれに応えて下さるのは神であってわたし達の強さではないのである。強さどころか「わたしはキリストと共に十字架につけられ死んだ」と告白している。ゆえに「生きているのはもはやわたしではなく、キリストがわたしのうちに生きている」と信仰によっての告白である。私の内に私ではなくキリストが入れ替わって生きて下さる。それならば大胆にキリストと共に生きようではないか。




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by oume-akebono | 2016-12-04 01:47 | 週報メッセージ