(ヨハネの第一の手紙 4章18~19節)      大谷唯信牧師


愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。わたし達が愛し合うのは、神がまず私達を愛して下さったからである。わたし達の罪のあがないの供え物として御子をおつかわしになった


神はすべてを御存知であり御自分の御手の中で私達を包み導いておられるのである。自分にとって良い事も悪い事も神はそれらを用いて私達をさらに主の器として訓練し成長させて下さる。心を尽して主を信頼せよ(箴言3:5)の御言葉は人生を開く鍵となる。しかも神は独り子イエスをこの世に賜り私達の罪を贖い、死から永遠の命に移る道となり主の御業はすでに完成しているのだ。驚くべき事だがこの命を受けるにはこのイエスを自分の救い主として信じればよい。


さらに「その名を信じた者には神の子となる力を与えた」と完了した形で言い切っている。しかも「それは血すじによらず、肉の欲、人の欲でもなく、ただ、神によって生まれた」とある。(ヨハネ1:12-13)これが「信仰によって救われる」と言う事である。ところが「自分の民はこれを受け入れなかった」信じなかったのである。


何故か!人間は総じて基本的に不信の塊であって神も人も社会も、時には自分すらも信じられない存在なのだ。例外なく人間の奥底には不信、恐れ、不安が満ち満ちているからである。それを何とか知識、経験、健康、金等で補強し支えているだけであって、その一角がくずれた時またたく間に「不安と恐れ」に巻き込まれる危い存在なのである。


精神科医赤星進師は人間の持つ「恐れ」は生後8ヶ月の間に経験する「基本的不信」によると述べている。精神発病因子は誰にもあるものだが、私達の自我はこの基本的不信を基礎として形成されているため発病するか否かはこの基本的不信の体験の量による。80%以上の基本的不信は生存困難、6080%は思春期に発病しやすい。4060%も軽い神経症が起きやすく、健康な人は2040%即ち基本的信頼が6080%の人を言う。100%の信頼は神の愛以外はなく、これこそ人を完全にいやす力である。





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by oume-akebono | 2016-11-27 01:43 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 11章24節)  大谷唯信牧師


「そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。」


私達はキリストを信じる信仰に立つが、さらに言うならばそれは御言葉に対する信仰である。御言葉は私達の思いを超え神の霊の領域に導いて下さる。ただ漫然とイエスを仰ぎ見るのではなく御言葉を通してイエスを仰ぎ望み、御聖霊の導きの中で「イエス様との出来事」として歩むのだ。この御言葉は「神を信じなさい」から始まっている。そして、「よく聞いておくがよい。」と注意を促す。その時言われたことは驚くべき言葉であった。どんなに秀でた人であっても想像を超えている言葉であろう。


「誰でもこの山に、動けと言いその事を心に疑わないで信じるなら、そのとおりになる。」


そして上記の言葉が続くのである。人生ではいつしか不可能と思える問題にぶつかるものだ。それを『山』という。山は余程天変地異が起こらない限り不動であろう。それが動き出して命令通りに動くとイエスは約束された。それもただ言えばいいというのではない。

「この山に動き出して、海の中に入れと言い、」とある。はっきりと自分の口で「言い」とは、宣言せよと言う事だ。しかも「自分の言ったこと」が「必ず成ると心に疑わないで信じるなら」、「そのとおりになる。」


神は私達の信仰の範囲で動いて下さるからだ。あのローマの百人隊長は僕の病の癒やしをイエスにお願いし、来ようとされるイエスを留め、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕は治ります。と言った。イエスはこの信仰を見て喜び「行け、あなたの信じたとおりになるように」すると、ちょうどその時に僕はいやされたのである。


私達の教会は、いよいよ霊的成長に預かり、次は信仰によって大胆に主に願い、自分の力ではなく主の働きで事が動き勝利する、無から有を呼び出す信仰の領域に一歩踏み出す時ではないだろうか。






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by oume-akebono | 2016-11-20 01:23 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10-11節)  大谷唯信牧師


「主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。」


天地創造の時、神が語られた言葉はすべてが「そのようになった」とある。私達も御言葉を聞く時、信仰によって「そのようになった」と信じよう。


悪魔の働きは巧妙で常に私達を御霊から引き離し「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に引き込もうとする。私達教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向かわんとするほど活発に彼は働き出すのだ。最もらしい理由のもとに互いに疑いや争いを起こさせ、ねたみや党派心を引き起こし分裂させようと働く。


それだけではなく霊的な良い行いにおいても競争させ較べ、奉仕や捧げ物をする中にも肉の思いや苦々しい気持ちを秘かに起こさせようとする。さらに教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起こさせる。何と多くの教会や信者が成長を妨げられて来たことか。しかし、サタンは決して姿を現さない。互いに相手の間違いを原因として争わせるのだ。この世は飢え渇くばかりである。


御言葉は真の食物、いのちのパンである。感謝しておいしく食べるのがよい。そうすれば理屈はわからなくとも元気が出るではないか。子供もよく食べよく寝る子は育つ。単純な事だ。「御霊の実」(ガラテヤ5:22)は自分の努力で造り出すものではない。そのまま信仰によって受け取ればよい。賜物としてすでに与えられているからだ。


何故ならこの御霊の実とは「愛、喜び、平和、寛容・・・」と九つの実が上げられているがこれらは個々別々のものではない。その本質は一つであり、キリスト御自身なのである。自分が出来るか、出来ないか等の問題ではない。それは全く関係ないのである。あの受胎告知を受けたマリヤのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と祈ろう。これは誰にでも通じる信仰姿勢の基本的一歩であり大きな祝福の基となる。




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by oume-akebono | 2016-11-13 23:54 | 週報メッセージ

Happy birthday!

毎年11月の第1主日の礼拝後は、私達の愛する大谷牧師のお誕生日をお祝いします。

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大きなケーキは、出席者みんなでいただきます!















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by oume-akebono | 2016-11-06 23:40 | 教会あれこれ♪

(ルカによる福音書 10章39節)         大谷唯信牧師


この女にマリヤという妹がいたが主の足もとにすわって御言葉に聞き入っていた


マルタが旅の途中のイエスを自分の家に迎え、妹マリヤと接待したのである。これから見てもマルタは世話好きな人情深い人物である事がわかる。少しでも疲れをいやし、もてなしたいと思ったのであろう。それなのに妹のマリヤは動かず主の足もとに座って御言葉に聞き入っていた。


ここで問題が起きた。マルタが接待の準備で忙しく心を取り乱し、妹の事でイエスにまで文句を言ってしまった。どこにでもよくある出来事と思う。マルタの言い分は黒白つけたかったのだ。勿論自分が白である。イエスが一言、「マリヤも手伝いなさい」と言えばすぐになごやかになりすべてが順調、平和に収まった筈とも言える。ところがイエスはマルタの方を注意したのである。「あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている」と。


私達の教会は皆さんの尊い奉仕と祈りによって主から大きな恵みをいただいている。これからもますます祝され主が働いて下さるだろう。もっと多くの人を迎えるにはもっと多くのマルタの働きをして下さる方が必要だ。実際に今でも多くの方々が見えない所でも働いて下さっておられる。主をお迎えしての素晴らしい働きである。


しかし、注意しなければならない。サタンは常に用いられている人を狙っているからである。「忙しくて心をとりみだし…」、イエス様をお迎えしイエス様のために「こんなにやっているのに…」との思いであろうか。教会でも家でも一番重荷を負って働いている者が陥る所だ。イラ立ち、怒り…、まわりを裁くのである。何故このようになるのだろう。


それは信仰の働きがいつの間にか肉の働きに移行してしまっているのだ。肉に立つと肉が見えなくなる。どんなに立派でも肉は肉である。「無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良いほうを選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。


どんな働きも主を仰ぎ見て「信仰の出来事」としての信仰に立とう。










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by oume-akebono | 2016-11-06 23:39 | 週報メッセージ