(伝道の書 3章11節)        大谷唯信牧師


「 神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」。


神は人に、小さなからだと、永遠にまで及ぶビジョンを描きそれを求める心を、与えて下さった。下から上に、マイナスからプラスに、貧しさから豊かさに進んで行く向上心を与えて下さったのである。優越性のエネルギーだ。永遠を思う思いとは究極、神を求め神の栄光を現わすことにある。


しかし人はサタンの誘惑に乗って神を捨て、その与えられている力を神ではなく自分の栄光、自己実現のために生きるように、変えられてしまったのである。神のためか、自分のためかは、外からはわかりにくい。しかし自分を正直に御言葉によって見ればわかると思う。


人は神へのビジョンを失った。神を失った優越性は、達成すると自己満足の優越感となり、達成できないと劣等感となる。優越感も劣等感も神を中心に生きているならば、すべてに時があり、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」と、大きな刺激と励ましとなるが、神を中心にせず自分中心に生きているほど、高慢になったり、劣等意識に押しつぶされたりで動けなくなる。何と多くの人がこの優越感コンプレックス、劣等感コンプレックスによって、自分を駄目にしている事だろう。


だから私達はクリスチャンとしての道を歩み、今日まで導かれて来た。しかしもう何年信仰生活をしているのだろう。時に吟味してみよう。信仰によって、「地の塩」とされている。大丈夫だろうか。「もし塩の効き目がなくなったら・・・」とイエス様は語られる。「世の光」とされているのに、明かりを枡の下に置いていないだろうか。(マタイによる福音書513)九つの御霊の実が与えられている。「愛、喜び、平和、・・・」。肉の力でやってはいないだろうか。それはすぐ、肉の働きに移行してしまうのだ。(ガラテヤ人への手紙519)怒り、つぶやき、不平は努力しないでも出る。御霊の実はどうだろう。努力しているなら、肉であるのだ。日々、十字架に死に主と共に生きる霊交会にしよう。












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by oume-akebono | 2016-10-30 23:23 | 週報メッセージ

(詩篇 42章5節)       大谷唯信牧師


わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえ私のうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。私はなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう


誰でも暗く落ち込む時がある。ダビデは信仰の側に立つ心で落ち込む自分に語りかけているのだ。「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか、何ゆえ私のうちに思いみだれるのか」と。優しく自分に信仰の言葉で語りかけるのだ。信仰に立って自分を励ますのである。自分の弱さをそのまま受け入れ自分の暗い思いから目を離し「神を待ち望め」と主を仰ぎ見るよう促す。「私はなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう」。


信仰の御言葉は霊の次元を開くのである。自分で自分の心を奮い立たせるのではない。自分の心が弱く落ち込んでいてよいのである。もっとドン底になっていてもよいのだ。ここでこそ自分ではなく主を信頼する。惨めな自分から目を離し、「主を仰ぎ見る」。御言葉に行行御言葉を信じ味わうのである。「苦しむ者が呼ばわった時、主は聞いて、すべての悩みから救い出されたのだ」「王はその軍勢によって救いを得ない。見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみは望む者の上にある」。


それでも望めない時があるかもしれない。それも主に告白して委ねて「主を信じます、不信仰の私をお許しください。信じる信仰を下さい」と祈ろう。自分の力で信じるのではなく御聖霊の中で思いを一転させて下さるよう祈るのである。アブラハムは「サラの胎不妊であることを認めながらも、望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。」「彼は神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し神を確信した」(ロマ4:19-21)のである。


パウロも弱さと戦った時、主は言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である」(IIコリント12:9)であった。わたしが弱い時にこそ、私は強い」事実をパウロは恵みによって得たのだ。











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by oume-akebono | 2016-10-23 23:21 | 週報メッセージ

(箴言 3章5-6節)    大谷唯信牧師


「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」


 創造主なる神は御自身の栄光を現すために全地を造られ、その中心として特別に御自分に似せた霊的存在としての人間を創造され、この地を治める事を委ねられた。しかし人間は神を離れ無視し反抗し神中心ではなく自己を中心とし神の栄光ではなく自分の栄光を求める者になってしまった。


これによって本来の神と人との正しい命の関係がくずれてしまったのだ。本来の人が立つべき根源的な立ち位置からずり落ちてしまったのである。以来、人間は神の知恵を失い、自分の知識のみに頼って生きるしかなくなりそれが当たり前になっているのが今日である。


このずれを聖書は「罪」と言っているのだ。法律的なこの世での罪ではない。神との関係が断たれてしまっている状態を罪と言っているのである。そしてこれは法律的な罪よりも深く致命的な問題なのである。あたかも健康な体に潜んでいるガンのようなものでやがては全身に拡がり死に至らせるものである。この世の全ての悪は人間の根本のずれ即ち自己中心と言うエゴからである。


そもそも「自分の知識」そのものが罪なのである。今やこの世はますます自分の知識、情報で成り立っている。しかし知識は人を誇らせるだけなのだ。これがこの世の教育の限界であろう。神を離れた知識はエゴイストを養成するだけになる。この世の状態を見ればそれを証明しているではなかろうか。


今や国と言うより人間そのものがこわれてきている。あなたはそれを感じないだろうか。これは政治や教育の問題ではない。根本的な罪をかかえている人間の問題である。罪の恐ろしいのはガンと同じく自覚症状がない事だ。


社会ではなくわたしやあなたの問題である。神は呼びかけている。「自分の知識に頼るな。心をつくして主に信頼せよ。そうすればあなたの道は整えられる」と。神の約束である。神の知恵を求めようではないか。



















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by oume-akebono | 2016-10-16 23:18 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 7章24節)        大谷唯信牧師


わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな


私達は今、「四次元の人」(チョーヨンギ牧師著)を学び、神の霊的世界を動かすことでキリストの霊に満ちた教会になろうと取り組もうとしている。


確かに御聖霊は求める者に与えられる。私達以上に主御自身の方が私達に聖霊を注ぎたくてうずうずしているのではなかろうか。しかしできないのだ。石地にまかれた種のようにすぐ発芽し、感謝し喜んで得意になり高慢になるのだ。妙な神がかりのような上から目線となり他者を裁くようになったりする特徴がある。浅いのである。信仰の深さを競い合い内心得意になったり悲しんだり、野心漫々になったり…。俗に聖霊派等と揶揄される事になる。冷めた教会も困ったものであるが熱く燃えても分裂、分派が教会内で起ったりもする。聖霊は一致する力であるはずが全て反対の事が起きたりもする。正に肉の働きそのものになっているのに気づかず相手の不信仰の原因と裁くのである。


だから私達はパウロのローマ書7章から学ばねばならない。これはパウロ自身のどうにもならない罪への絶望の叫びである。では何故この7章がこの場所にあるのだろうか。1章から始まって、神、罪、救いについて語られ、6章に於いては、「わたし達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた…もはや罪の奴隷となる事がないため」と罪からの解放を語っているのだ。それなのに7章では「絶望」を語っている。7章を抜かし8章に行けば素晴しくつながるのに何故ここでこの内容なのだろう。


これは教理ではなくパウロの信仰体験である。救い喜び確信の輝きは常に罪の自覚の深さに比例するのである。パウロは無限に深い罪、死のからだの自覚迄落ち切った所で主に投げ出しきれたのである。十字架の無限の赦しは無限の罪の深さの自覚の故であることを示しているのである。












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by oume-akebono | 2016-10-09 23:15 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 8章8節)         大谷唯信牧師


「ただ、お言葉をください。そうすれば僕はなおります。」


自分の僕が中風で苦しんでいるのを見かねてイエスに助けを求めて来た。イエスはすぐに快諾し、行ってあげようと申し出たが、彼にとってはこんな事でイエス様に御足労かけては誠に申し訳ない、しかもイエス様のような方をお入れするにふさわしい家ではありません、との意でお断りし、「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と答えたのだ。しかも自分がローマの軍人百卒長であり、「わたしも権威の下にある者で命令の言葉一つで部下は事をする」と語った。キリストの権威を認めていたからこそ、「わたしも権威の下にある者ですが」と述べたのである。何とさわやかな対応であろうか。威張って権威をちらつかせるのでもなく、ごく自然な謙虚さをもち、妙な宗教臭さもなく軍人としての礼儀、節度もあり部下思いの姿がある。


日々軍人として命をかけての生き方がそのまま信仰の在り方、生き方に純粋に重なり合っていたのであろう。私達も日常生活、仕事への取り組みにおいてもこのような重なりを求める事は大切なことである。イエスは非常に喜ばれ、「イスラエル人の中にもこれほどの信仰を見たことがない」と言わしめたほどであった。


百卒長の忠実な取り組みであっても肉は肉である。しかしイエスにつながりイエスへの信仰によって「ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります」と四次元に働きかけた時、イエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように、と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた」のである。


百卒長の四次元への働きかけがイエスを動かし、僕の病という三次元へ働いたのである。

ペテロは「夜通し働きましたが、何もとれませんでした」と三次元の現実を認めた上、「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と四次元に働きかけた。そこから信仰の世界が拡がったのだ。私達もこの聖なる「しかし」で人生逆転が得られるのだ。









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by oume-akebono | 2016-10-02 23:07 | 週報メッセージ