(マタイによる福音書 16:24-25) 大谷唯信牧師


「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。


チョー・ヨンギ牧師は「3次元の人生を支配する 4次元の人」の著書を著し、どんな人も勝利の人生を歩むことができる法則が聖書の中にあるとして、わかりやすく説き明かしている。彼自身の人生を振り返り、大いなる神の祝福を受けたのは、この法則をいつの間にか無我夢中で実践していたからではないかと気づいたのである。


彼は貧しい牧師として出発したが、一代で会員が100万人以上の教会を築き、世界中に数千人の牧師・宣教師を送り出すなど、驚くべき偉業を成し遂げているのだが、80歳の現在も謙虚に教会と人に仕え、福音を宣べ伝えている。人々は特別な神の人と観るのだが、本人は神のあわれみですと感謝し、神によって勝利する人生の法則が示されました、としてこの本を著したと述べている。この法則を活用するならば、誰でも神の大きな祝福の人生が歩めます、との思いからであった。
私達もこの原理原則を知り、聖書の示す命の法則を実践し、自分の人生に取り組んでみようではないか。この法則に照らして聖書を読み、自分の人生を見てみると、聖書が具体的で分かりやすい人生の手引きとなると思う。


神は霊であり、私達の3次元の世界をも、すべてを支配されている。私達人間は、3次元の世界に生きながら、それを越え4次元の世界にも通じ、3次元を実は支配していると言うのだ。それは私達に与えられている4つの要素、考え、言葉、信仰、夢であり、人間はこれに支配され、3次元の世界は成り立っている。故にこの4つの要素が神の霊である4次元につながった時、私達の3次元の世界は大きく動く法則がある。イエスは霊であり、私達の4つの要素と一つとされた時、私達の命として働くのである。上の御言葉は3次元を突き抜け、霊によって人生を生かすという法則である。
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by oume-akebono | 2016-09-25 00:25 | 週報メッセージ

(コリントⅠ3:22-23)      大谷唯信牧師


「誰も人間を誇ってはいけない。すべては、あなたがたのものなのである。パウロも、アポロも、ケパも、世界も、生も、死も、現在のものも、将来のものも、ことごとく、あなたがたのものである。そして、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものである」



先週の礼拝メッセージで森元牧師は「わたしはキリストのもの」と題して話された。このテーマこそ今、わたし達(教会)がキリストと自分に対して明確に信仰宣言すべき時ではなかろうか。誰にでもわかりやすく端的で意味深く宣言しやすい。メッセージの中で全員で唱和したが胸が熱くなる思いがあった。これは一回ではなく何回でも、歩いていても、運転していても信じ唱えるとよいと思う。


「わたしはキリストのもの」と宣言するごとに 霊性が深められキリストが近くに、共におられる事がわかるだろう。ダビデが「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたが共におられるからです」の詩篇23篇も一言で言えば「わたしはキリストのもの」の信仰である。


あの放蕩息子が無一文になり豚の餌番になった時、「父のところには食物のあり余っている雇い人がいるのに…」と父に想いを向け本心に立ちかえったのも「わたしはキリストのもの」の関係に気づいたからである。気づきの深さは苦しみや喜びの深さに比例し分に応じて与えられる恵みである。聖書は始めから終りまでキリストの十字架の愛からの招きであるが「わたしはキリストのもの」と信仰によって応答した時、まず自分の霊が喜び心が開き主の臨在に気づかされるのではなかろうか。


「わたしにつながっていなさい。そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」(ヨハネ15:4)も「わたしはキリストのもの」と大胆に宣言していく毎に御言葉がわたした達の中に実現してくるのである。このように森本牧師を神が用いられ、わたし達、教会を励まして下さっておられると言う事はいよいよ教会の教会としての歩みが始まったかなと思うのである。
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by oume-akebono | 2016-09-18 00:22 | 週報メッセージ

(詩篇 42:5)     大谷唯信牧師


「わが魂よ、何ゆえうなだれるのか。何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。わたしはなおわが助け、わが神なる主をほめたたえるであろう。」



人は誰でも苦境に立たせられる時がある。思わぬ出来事に悲しみ、絶望に打ちひしがれる時があるものだ。
弟子たちはイエスと共にガリラヤ湖にて舟に乗り向こう岸に渡ろうとしていた。ところが急に嵐に見舞われ強風と高波にもまれ、舟が沈みそうになった(ルカ8:22-27)。
わたし達の人生の現実を語っているのである。その時イエスは眠っておられた。弟子たちは恐怖のあまりイエスのもとへ走り寄り、イエスを揺り起こし「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです。」と叫んだのだ。


主と共にいながら主への信仰は全くなかったのである。主のもとへ走り寄り主に頼ったことは主に良かった。しかし主の体に触れ主に依り頼みながらも主への信仰はなかったのである。恐れの中で「主よ、主よ、」と言うだけであった。どういうことか。主よ、主よと主に触れながらも主が助けて下さるであろうとの信仰も信頼もなく、また信頼していないから泣き叫ぶのである。主は起き上がって波を静めた。そこで弟子たちは始めて信じたのである。見るまでは信じていないのである。
私たちも、こういう事はないだろうか。求め、依り頼んでいるのだが信仰がない、願っているのだが信仰を持っていない。主と共にいながらも独りぼっちでいる。主から見放されている、主から遠くにいる、無視されていると感じてしまうのである。


アブラハムは「望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。サラの胎が不妊であるのを認めながらも信仰は弱らなかった」のである。
ダビデは信仰によって不信仰な自分に呼び掛けている「わが魂よ、何ゆえわたしのうちに思いみだれるのか。神を待ち望め。」と。
彼は必要な時にその都度、意識的に信仰のスイッチをオンにしているのである。
私たちもやってみよう。
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by oume-akebono | 2016-09-11 00:18 | 週報メッセージ


(Ⅰヨハネ 4:7,19)     大谷唯信牧師

「わたし達は互いに愛し合おうではないか。神がまずわたし達を愛して下さったからである。」



神の言われるのは、互いに愛し合い仲良しグループをつくりなさい程度のものではない。
神にとって愛するとは、命をかけるものである。
神はわたし達全人類への愛を、独り子イエス・キリストによってこの世の歴史的出来事として現わして下さった。


神が愛であること、イエスの教えの数々、その行い、人々への接する態度、十字架の死に至るすべての歩み、これらによって神が愛であること、全人類を愛しておられること、そして、キリスト御自身が神であることを現わして下さったのである。即ち、単なる理論や考え方ではなく、実際にわたし達と共に生きておられる神を現わし、また、人間としての本来の生き方、真実の愛、本当の許し、永遠の命、等々、この世がわかっているようで見失っているものを与えて下さった。


キリストは天に上げられ登ったのではない。弟子達を置き去りにされたのでもない。約束通り今度はキリスト御自身が御聖霊となって来られ、弟子達の内なる命となり、これをキリストの教会として建て上げ、キリストの権威と使命とを継承させ、今も導いて下さっておられるのである。


人間は神と同じく霊的存在なのだ。成長するには霊を育てる食物と環境が必要である。イエスは「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの霊の言葉で生きる」と言われた。神の霊の言葉にこそ人を豊かな人格として育てる力がある。「知識は人を誇らせ愛は人の徳を高める」、また、「文字は人を殺し、霊は人を生かす」。「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」とも言われている。


この世は神を無視し、社会のすべてはエゴの領域を満たすだけになっている。生きる内実がないのである。学びが悪いのではない。学びの中に命を吹き込む者が乏しいのである。今こそエゴではなく神の愛に立つ一人一人が貴重な存在となっている。
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by oume-akebono | 2016-09-06 17:46 | 週報メッセージ