(コロサイ人への手紙 2:6-7)  大谷唯信牧師

「・・・あなたがたは主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また、彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて、あふれるばかり感謝しなさい」。



今日は夏の霊交会の日である。私たちの教会はここ数年、神の豊かな恵みに導かれ、生けるキリストの教会としての「かたち」に整えられて来ていると思う。先日の執事会にて今日の霊交会のテーマを考えていたが、私達の教会のこれからの課題は、やはり「霊的に深められる」ではないだろうか、との声が出てきた。


多くの教会は、いろいろな年間行事、活動計画等々を上げるのだが、そうでなく「霊性の深まり」が課題として出てきたことは、素晴らしい事である。正に使徒行伝の初代教会の歩んだ道であるからだ。教会のこの世に対する働きは、それぞれの教会によって色々あると思う。しかし、私達の教会では、それらの働きを生かすためにも、私達一人ひとりの「霊性の深まり」を最優先させるという事を、考えるのである。


イエスは仕事に忙しくしているマルタではなく、主の前に座り主と向き合っていたマリヤを喜ばれた事を思い出そう。「・・・無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。(ルカによる福音書10:42)私達は何事をするにも「霊に燃え、主に仕え」を求めることを第一とする。


しかし、今ひとつ霊に燃えず、モヤモヤした不完全燃焼を感じてしまい、信じているのに何かはっきりしないと言う方・・・。それは救いは信じていても、キリストによって「自分の罪が許された」事を明確に認め、確信していないのではないか。自分の気持ちではなく、御言葉を信じるのだ。「神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった」。(コロサイ人への手紙2:13)「バプテスマを受け、キリストと共に死に、共によみがえらされたのである」。どれほど大きな罪でもすでに許されているのだ。
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by oume-akebono | 2016-08-28 17:41 | 週報メッセージ


(コリントⅠ 1:18)       大谷唯信牧師

「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには神の力である」



十字架の言とは十字架のキリストのこと。キリストは私達の罪を贖うため十字架の死を御自分の身に受けて下さった。これは神の御計画であり、預言者イザヤによってキリスト誕生の700年も前に予言しておられる。「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(イザヤ53:4-5)

キリストの十字架はこの世の歴史的出来事であるが同時に神のこの世に対する霊的出来事なのだ。しかもこの世と神の国との接点であり入り口である。
イエスが最初に語られた第一声は「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:14)であった。


では、この救いを得るためにはわたし達はどうしたらよいのだろうか。神はそのために聖霊によって教会を誕生させ、信仰による水のバプテスマを教会に与えて下さったのだ。その本質はキリストである。バプテスマはイエス・キリストを自分の救い主として信じる信仰を目で見える形で現した信仰告白である。その霊的意味は深くわたし達の思いもはるかに超えた神の出来事なのだ。


「あなたがたはバプテスマを受けてキリストと共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである」「神はあなたがたをキリストと共に生かし、わたし達のいっさいの罪をゆるして下さった」(コロサイ2:12-13)
今日も二人の方がバプテスマを受けられる。これは私達教会の喜びである。私達は皆、信仰によってキリストの体なる教会とされた。決して独りではない。教会は私達を育てる家庭であり人生である。日々死んでよみがえる信仰で互いに成長し訓練され神に喜ばれる器となるよう祈り求めようではないか。
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by oume-akebono | 2016-08-21 17:38 | 週報メッセージ


(イザヤ書 45:4-5)     大谷唯信牧師

「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」



神は人を霊的存在として造られた。誰もが肉を超えた霊の命をすでに持っているのである。人は神から離れているため霊の命がわからず、結果的に肉の食物だけを求めてしまい、霊の命は満たされず、また意識もないので心の奥に閉じ込められている。現代人の言い知れぬ孤独感、不安、恐れはここから来るのである。まわりでどれほど手を差し伸べても届かない。かえってちょっとした一言にでも傷つき自分の殻に入ってしまうのだ。


「自分探し」等の言葉を聞くだろう。そう、誰もが意識するとしないとに関わらず、これをしているのである。人生にはいろいろな出来事が起こる。その都度、喜んだり悲しんだり、何とかしなければと頑張り、前進したり後退したり、立ち止まったり…、常に自分を意識しているではないか。「自分探し」をしているのだ。究極の自分をどこか求めているのである。それは物心のついた子どもの頃からすでに始まっている。とするなら人生はすべて「自分探し」の旅といえないだろうか。


人は更なる確かなもの、生活や心の豊かさ、ありとあらゆるものを求めて今日に至っている。人は霊的存在として造られているので、心の奥で神の霊を求めるのは当然である。心が霊で満たされない限り何を求めても渇きを覚え悩み苦しむとしたら、それこそ全く健全であり正常の悩みである。しかしこの世は神の霊を知らず他のもので満たそうとする。イエスは「人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きる。」と語っておられる。そのパンこそがイエスであり私たちの罪を贖い救いの人生の土台となって下さった。


「恐れるな。わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたがわたしを知らなくても、わたしはあなたを強くする。」これはあなたへの言葉である。
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by oume-akebono | 2016-08-14 16:23 | 週報メッセージ

(ローマ 12:1)     大谷唯信牧師

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたのなすべき霊的な礼拝である」



この御言葉は神への礼拝の最も大切な本質的な事柄を述べている。これはパウロがキリストからの啓示によって語ったものだが、イェス御自身も礼拝について語っておられる。「神は霊であるから、礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:14)と。
礼拝する時の「なすべき礼拝」の絶対条件である。
それはプロ並みの美しい音楽、感動的な祈り、よく準備された名説教、整えられたプログラムがその通りに重々しく厳粛に行われると言う事ではない。
大きな式典等ではよく見られ形式的にならざるを得ないのであるが、礼拝はそうであってはならない。


礼拝は神の愛への応答である。決して眺めている見物人ではない。一人ひとりが、わたし個人として、人間として、クリスチャンとして、又、教会員全体としての自分の有り方について問われ、吟味し、新たな課題と行動を示され、感謝と讃美の中で決断し応答していく。現実の事実の状況の中で信仰によっての自分の行動決断である。


単なる自分の考えの漠然で終わらず「自分のからだを」と具体的である。自分を喜ばす満足ではなく「神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物として神に捧げていく」これが神への応答であり、これが霊的な生きた礼拝となるのである。


自分の安全地帯である自我、これが成長を止めている。自我は自分の力では破れない。しかし、イェス様の十字架を信じて主に従い始める時、自我は破れ、主に従うほどに解放され本来の自分が新しくされていくのだ。冒頭の御言葉をもって日々のすべての生活に応用してみよう。すると、必ずサタンは邪魔して来ると思う。詩編35編を見てほしい。ダビデは主に戦っていただいているのだ。日々を礼拝とし主と歩もうではないか。
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by oume-akebono | 2016-08-07 16:17 | 週報メッセージ