(詩篇34:5)   大谷唯信牧師

「主を仰ぎ見て、光を得よ。」



 あなたの目はどこに向けられているのか。主を仰ぎ見るのだ。日々の思いわずらいにいつの間にか暗い心に取り込まれてはいないだろうか。自分の弱さや心の痛みに思わず目がいってしまい、どうしたらよいのかわからない。こういう時こそ、信仰によって祈り、受け止め、信仰の一歩を踏み出すチャンスとして求めるべきではないだろうか。


心を静め、暗い自分から目を離し何もないのだが、信仰によって御言葉に聞き主を仰ぎ見るのである。初代教会がそうであったのだ。「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて…地の果てまで、わたしの証人となるであろう」との御言葉の前に、何をどうしたらよいのかさえわからなかったであろう。イエス様が捕えられ、十字架の死、復活の出来事、天に上げられる主、次々起る受難の出来事に弟子達はすべて整理もつかず、意味も分からず、ただ迫害のただ中で恐れおののいているだけであったろうと思う。


弟子達は市内の泊まっていた屋上の間に上がった。そしてせめて彼らのできた事は「イエスの母マリヤ、およびイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使徒1:14)とある。


今のわたし達の教会もここが大切な点ではないだろうか。聖霊がくだった時も、「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると…」とある。


かつてイエス様は「もしあなたがたのうちふたりが、どんな願いごとについても地上で心を合わせるなら…:」「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所にはわたしもその中にいるのである」(マタイ18:19)と主の臨在の約束を語っているのである。

これは教会の原点である。個人の能力やリーダーシップでもない。教会に注がれる聖霊の力である。わたし達の教会がさらに生きた教会になるには、ここにヒントがあるのではないだろうか。みんなで考えてほしいのである。
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by oume-akebono | 2016-07-31 16:16 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書 4:24)  大谷唯信牧師


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。




「霊とまこととをもって礼拝する」とは、自分の目線ではなく、神の目線で世の中や教会の出来事を見、御言葉と聖霊の導きによって キリストに出会い、従っていくことである。


私達は普通誰もがそうであるように、自分の目線で生きているものだ。しかし、これをある時からキリストによって「神の目線」に切り替え生き始める。これがクリスチャンである。とは言ってもこの世に生き、この世の知恵で生きてきたのであるから、そこに根付く自分の目線はかなり強い。そこを敢えて意識して神の目線に切り替えるには、かなりの心の戦いがあろう。これが信仰の戦いである。ここで大切なことは、御言葉と聖霊の助けによって「神の目線」で見る意識を常に持つことである。


自分の目線のまま神の出来事を見ると、あの律法学者ニコデモのように「どうしてそんなことがあり得ましょうか」となり、行き詰まりである。あの漁師ペテロは「先生、私たちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と正直に告白している。これは泣いても笑っても事実であり、現実であろう。ところが彼はここで終わらなかった。「しかし、お言葉ですから網をおろしてみましょう」と従ったのだ。これは「神の目線」である。


その時は何もわからないが、神の目線の中には行き詰まりはなかった。むしろ無限の拡がりがあったのである。ここでは、妙な争い事や競争はない。御霊の実の世界である。自分の目線の世界は、わかりやすく、納得、理解し易いはずだが、常にもめごと、争い、我慢の世界、肉の働きの世界である。


私たちは余りにも自分の目線で、神の世界を見ようとしていたのではなかろうか。自分の目線のままでは、神の世界は到底見えない。「神の目線」に切り替えよう。パウロも初めからそうなったのではない。神の目線に切り替えられた時があるのだ。神の目線でエペソ人への手紙を読んで欲しい。驚くべき神の世界が、心に見えてくると思う。
祈り、信じ、神の前に頭を垂れ従う者、 ペテロで出発し、パウロの見た世界を見ようではないか。
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by oume-akebono | 2016-07-24 16:06 | 週報メッセージ

7月10日の午後は、野口日宇満・加奈宣教師ご夫妻をお迎えし、インドネシアでの宣教活動の様子をお話しいただきました。

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報告会の始めは、野口宣教師ファミリーが、インドネシア語で賛美を歌って下さいました。


写真では分かりづらいのですがプロジェクタで沢山の写真を映しながら、気候も文化も違う地での日常生活を含め、インドネシアのクリスチャンだけでなく他国の宣教師の方々とも助け合ってイエス様を伝える御業を、日宇満宣教師、加奈宣教師が交代でお話し下さいました。
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最後は、報告会の記念に参加者全員で。
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これからも、世界中の困難な状況で宣教の業を担う方々のために、私たちは祈りと献金で支えてまいりましょう。

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by oume-akebono | 2016-07-20 18:21 | 行事

(ローマ人への手紙 12章1節)   大谷唯信牧師

「あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それがあなたがたの霊的な礼拝である」



 神はわたし達がこの世に於いても豊かに成長するためにキリストの命と聖霊によって教会を与えて下さった。救われ与えられた新しい命は誰でも初めは赤ちゃんである。生まれてすぐ大人になる赤ちゃんはいない。たとえ人生経験の豊かな人であっても霊的命に関しては幼な子なのだ。

 こうして私達は神の導きによって神の子とされ教会とされたのであるがどのように歩めばわたし達、教会が成長できるのであろうか。

 そのために神は聖書を教会に与えて下さったのである。聖書は神の霊によって啓示された神の言葉でありわたし達の命を養うまことの食べ物である。

 教会の成長と私達の成長は一つなのだ。しかも成長は神がして下さるのだがわたし達のすべき事もある。それは私達が祈りの中で御言葉を味わい実践し、自分の体験として証しを持つ事である。つまり自分でやってみて、「この御言葉は本当だ!」と確信をもって言い切れる体験をしてみる事である。心の冒険をしてほしい。聞くだけの者ではいけない。

 冒頭の御言葉はロマ書12章であるが、まず神との交わり、そして人との交わりについて述べられている。自分を豊かに成長させたければ自分独りの有り方だけでは駄目なのだ。他者との関係性の有り方を見なければならない。ごく当り前の事だが実際にやって見ると中々出来ないのである。肝心な事が抜けているからだ。それは神との関係である。これが健全にならない限り他者とは健全にはならないのだ。このロマ12:1に取り組むとその後に語られている人とのかかわりに導かれてくるのである。「兄弟の愛をもって互いにいつくしみ、進んで互いに尊敬し合いなさい…」御言葉は信じる者には神の力となる事を知ろう。人からの伝え聞きではなく、主との出来事として主に触れてほしいのである。
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by oume-akebono | 2016-07-17 16:19 | 週報メッセージ

(コリント人への第二の手紙 3章6節)   大谷唯信牧師


「文字は人を殺し、霊は人を生かす」


 イエスは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。」(ヨハネ6:63)と語られた。
御言葉によって霊的に成長するには暗記するだけでは駄目である。あの富める青年はイエスに「永遠の命を得るには?」と大切な問いをしながらも、イエスの答えに対して「それは小さい時から知っていますよ」と答えるだけで自分の心を見ることも、耕し深めることもしなかった。知っているという知識が耳を塞いでいることも、イエスの言葉を跳ね返していることにも気付いておらず、イエスの自分に向けられている心のメッセージにも気付かず悲しみながら立ち去るのである。

 神は霊であり、私たち人間も霊的存在として造られているのだ。「神は霊であるあら礼拝する者も霊とまこととをもって礼拝しなさい」と主が言われるのもそのためである。

 御言葉は読むと言うより御言葉と交わるのだ。読んですぐ実行の前に、交わるのである。御言葉のその光を自分に照らし耕し、吟味し肉の部分を見つけ出しては悔い改め捨てていくのである。あとは御言葉を通し「御心が成りますように」と主に委ね主に期待するのである。「自分で実行するぞ」とばかり決意して頑張らない。頑張ると肉の働きに変化しやすいからだ。

 信仰経験が長く聖書にも通じベテランクリスチャンになると霊の御言葉が文字となり、石に刻まれた化石のような文字クリスチャン(Ⅱコリント3:3)にさえなる事もあるので気をつけよう。

 霊的に成長するのは順調な時より困難、気落ち、無力感に閉じ込められた時が成長のチャンスと言える。パウロは「極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失ってしまい、心のうちで死を覚悟し、自分自身を頼みとしないで、死人をよみがえらせて下さる神を頼みとするに至った。」(Ⅱコリント1:8)とあるが主の訓練はここまで来ると最高の恵みの境地で自由とされる。肉を捨てる決意と祈りに主は御霊を注いで下さるのである。
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by oume-akebono | 2016-07-10 16:15 | 週報メッセージ

(IIコリント 3:6)     大谷唯信牧師



「それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす」




私達の教会の祈りの第一は「まず自分の内側を整える」にある。それは常に霊性を深める事だ。

私達はクリスチャンになるために信仰告白として水によるバプテスマを受けた。型としては水に沈むバプテスマであるがその信仰の霊的意味は実に深い。それは自分もキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に死に、共に葬られ、キリストのよみがえりと共によみがえり新しい命に生かされているとの信仰である。この信仰を深め真実なものにして下さるのが御聖霊である。決して自分の力、自分の行いではない。上からの霊的賜物による。


ところがこの信仰生活をいつの間にか自分の力、自分の思い、自分の都合と言う肉の力で押し進めてしまう人が多い。

パウロはガラテヤ諸教会へ語っている。「あなたがたは、そんなに物わかりが悪いのか。御霊で始めたのに、今になって肉で仕上げると言うのか。あれほどの大きな経験をしたことは無駄であったのか。わたしはただ一つの事をあなたがたに聞いてみたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行ったからか。それとも聞いて信じたからか!」と大変な叱責である。

これは他人事ではない。現在のわたし達の問題でもある。この世は何もかも肉で支配され、国も社会も教育そのものの考え方も生きる価値観も肉でおおわれ、目には見えないがサタンが支配しているのである。


そのクリスチャンに何が足りなかったのか。パウロは指摘している、「十字架につけられたイェス・キリストが、あなたがたの前に描き出されたのに、いったい誰があなたがたを惑わしたのか」と。即ち一人ひとりの内にある「霊的認識の欠如」である。自分の内にある霊性が浅いと、その信仰は理屈と言う文字になってしまうのだ。御言葉は霊の言葉である。文字ではなく霊的認識の事実となるまで祈り求めねばならない。
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by oume-akebono | 2016-07-09 09:27 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙6:11-12)  大谷唯信牧師



「わたし達の戦いは、血肉に対するものではなく、…やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」



私達の戦う相手はサタン、肉、この世の三つである。教会にしっかりつながり聖霊と十字架との交わりにあるならば必ず勝利する。

サタンの働きは巧妙で常に私達を主の霊から引き離し、「肉の働き」(ガラテヤ5:19-21)に取り込もうとする。それは私達の教会が霊の命に目覚め、さらなる成長に向わんとするほど活発に動き出す。もっともらしい理由のもとに互いに争いを起させ、ねたみや党派心を引き起こし分裂の方向へと促す。さらに霊的な事柄においても競争させ比べさせ、奉仕や献げ物をするその中にも肉の思いを密かに起こさせようとする。教会一致、福音宣教を願うその中にも理解や方法の違いで争いを起させる。


何と多くの教会や信者がその手に乗せられたことか。サタンは決して姿を現さない。自分の存在を認めさせないためである。その方がやりやすい、自らの意志で動いているように思ってくれるからだ。神を信じないように疑うようにも働く。互いに相手の間違いを原因として争わせるためである。今や世界中がこの手に踊らされ、自分は賢く正しいと思うようになる。サタンは御言葉を用いても争わせる。気をつけよう。霊的高慢というのもあるからだ。


「もし、あなたがたの心の中に苦々しいねたみや党派心をいだいているなら誇り高ぶってはならない。また真理にそむいてはならない。そのような知恵は上からではなく、地につくもの、肉に属するもの、悪魔的なものであり混乱とあらゆる忌むべき行為とがある」(ヤコブ3:14-16)と警鐘を鳴らしている。

あらゆる争いの背後にはサタンがいることを覚えよう。しかし主は勝利しておられるのだ。救いの確信の根拠は私達の中ではなく神にあるのである。「キリスト・イエスは死んで、否、よみがえって、神の右に座し、わたし達のためにとりなして下さっておられる」のである。自我を捨て御霊に生きよう。
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by oume-akebono | 2016-07-09 09:23 | 週報メッセージ