(使徒行伝 2章4節)        大谷唯信牧師


「みんなの者が一緒に集まっていると……一同は聖霊に満たされ……」



 無力な弟子達に約束どおり聖霊が注がれた。「ただ聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて、地の果てまでわたしの証人となるであろう」(使1:8)が始まったのだ。「ただ聖霊がくだる時」の「ただ」とは、どんな「悪条件があろうともそれらをすべて超えて…」ということである。

わたし達もこの聖霊を今の出来事として信じようではないか。聖霊は神の霊であり、神の生命である。ここから教会が始まった。当時は弟子達にとっては最悪の困難な状況であったであろう。しかし教会の働きは聖霊なる神の生命によって前進した。組織でもなく制度でもない。人の知恵からくる主義主張でもない。ただ神の生命である聖霊によって、しかも一人一人の中から始まる新しい霊的革命となった。

現代は病んでいる。人々は精神的に乾ききっている。恐れ、怒り、不安、利己主義という病気である。小学校の学級崩壊どころではない。今や、地球崩壊、社会崩壊、人格崩壊にまで及ぶ兆しが全世界に現れているではないか。この世はやたらに忙しく動いている。気をつけよう。まず主の日が奪われ祈りが奪われる。霊的貧困は自覚のない中で襲って来る。「身を慎み、目を覚ましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩きまわっている。この悪魔に向い、信仰にかたく立って抵抗しなさい」(Ⅰペテロ5:8)とペテロは語る。

この世はサタンの支配下にあることを忘れてはいけない。確かにわたし達はキリストによって救われている。だからこそサタンにねらわれるのだ。冒頭の御言葉が示すのは「みんなの者が一緒に集まっていると」とある。サタンは教会の群れから離れた者に襲いかかる。油断してはいけない。「霊に燃え主に仕える」ことを祈り求めよう。初代教会の力の秘訣を見い出そう。富める青年やニコデモのようにわかってしまう信者にならないようにしよう。
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by oume-akebono | 2016-05-22 16:10 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 1章17節)    大谷唯信牧師


「主なる栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように」


 「何をしているかわからないのです」と十字架上の主は言われた。本来見えるべきもの、見なければいけない真実が見えていないと言う事だ。「目あれど見えず、耳あれど聞こえず」と言うことである。この世はアダム以来、「自分の知恵によっては神を認める」事が出来なくなったのである。


「それは神の知恵にかなっている。そこで神は、人々が言う『宣教の愚かさ』によって信じる者を救うこととされた」(コリントⅠ1:21)
「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシア人は知恵を求める。しかし私達は、十字架につけられたキリストを宣べ伝える」
「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(コリントⅠ1:25)
「学者はどこにいるか、この世の論者はどこにいるか」とパウロは語る。
パウロ自身すべての知識に通じ神に対し確信を持って行動したが、キリストに出会ってはじめて目が開かれ、神に反逆する者であったことに気付くのである。


 今や、この世は危うい。
 どんなに平和が唱えられ、人類愛が説かれ、高い理想が掲げられても罪が支配するエゴからは抜け出すことが出来ないのだ。毎日の凶悪な事件、事故、戦争等々の現実に対してこの世の識者たる人々が社会を憂い、分析し声高らかに政治、行政、教育について評論しつつ犯人捜しをし熱く語るが、その繰り返しでしかない。我々もその中の一人になっている現実を見なければならない。これらは政治、社会、教育の問題以前の人間の問題、即ち、人間の内面にある罪の問題として取り組む以外にはないのではないか。


私達人間個々の問題である。これを知るのはクリスチャン以外には手の打ちようがないと思う。「義人はいない。一人もいない。すべての人が迷い出て無益な者になっている」(ロマ3:10-12)これらの答えは教会に与えられた福音の中にあることを見ようではないか。それは初代教会の歩みの中に示されているのだ。ここに働く聖霊なる神と共に歩む時見えてくるものだ。
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by oume-akebono | 2016-05-08 02:20 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 8章1節)    大谷唯信牧師


「今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」


 とにかく、クリスチャンとして歩んでいる者は罪に定められることはない。その根拠は十字架のキリストにある。


 だが、自分の信仰の弱さ、その確信の無さ等に不安を感じる方もおられると思う。それも当然である。この世は神から離れサタンの支配の中に落ち、すべてが肉の力で動いているのだ。その中をクリスチャンとして霊に歩むにはそれなりの戦い方が必要だ。だからイエスは「この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい、わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)と勝利宣言をなさってわたし達を励ましておられる。


 自分の弱さに嘆く事はない。神の救いは私達の罪も弱さも大きく包み込んで下さっておられる。「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放したのである。」(ロマ8:2)


 パウロもペテロもヤコブも始めから信仰の確信を得たのではなかった。皆、同じ失敗をし、皆同じ入口から確信を得ている。それは何か、失敗は自分の力で確信を得ようとした事、成功はそのどん底に落ちたからからこそ自分のどうしようもない罪をしっかりかかえ神に持ち出し、さらに神に迫った事だ。ヤコブは「祝福してくれる迄あなたを去らせません。夜明けまで組み討ちした」(創32:24-26)。パウロは「善をしようとする意志は自分にあるがそれをする力がない」と正直に認め、自分が罪の奴隷であるみじめさのどん底から「誰がこの死のからだから私を救ってくれるのだろうか」と主を仰ぎ見て自分を全託したのである。決して受身ではない。


「入口」は自分の罪のどん底にあったのだ。そこで十字架の主にお会いしたのである。十字架のキリストに出会う入口はどこか。自分の罪のどん底にあったのだ。安易な慰めは初心者の玄関口だ。「本もの」を得る入口はもう一歩奥にある。「罪の増し加わったところに恵みをますます満ちあふれた」(ロマ5:20)


 ここで気づかされるのはクリスチャンとは罪の激しい自覚と救いの確信は矛盾せず御霊によって一つとされ、ますます信仰の確信が与えられ生きた教会にされていくことである。
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by oume-akebono | 2016-05-01 02:27 | 週報メッセージ