(ペテロの第一の手紙 2章1-2節)       大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生まれたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである」


「まず自分の内側を整える」これは私達が「教会の祈り」として第一番目に上げている課題でもある。「まず」とはイェスの語られた「まず神の国と神の義を求めよ、そうすればそれらのものはすべて添えて与えられる」と同じく「神第一」の生活を言う。ここには神の大きな祝福と神の守りがあるのである。あたかも親子の関係のようにナチュラルなのだ。何故なら「神は人を御自身のかたちに創造された」(創1:27)、即ち神が霊であられるように私達人間も霊的存在として造られたのである。


神の霊とつながると御霊の実が私達の中に豊かに実ってくる。御霊の実とは「愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラ5:22)の九つの実である。これは信仰によってイェスにつながると誰にでも流れ込んでくる命である。自分の働きや努力によってではなくイェスを信ずる信仰によって与えられる上からの賜物なのだ。神は私達にこれらの御霊の実を与え満たしたくてしょうがないのだ。今年度は私達はしっかりこれを受け取ろうではないか。


アダム以来、人はサタンの誘惑によって神中心の存在を自分中心のエゴにしてしまった。霊的存在から肉的存在におちてしまいそれが普通になってしまったのである。肉は人を罪に対して盲目にする。イェスが十字架上で「彼らは自分で何をしているかわからないのです」と身をもって許しを願ったのもそのためである。


パウロもイェスに出会って初めて肉の罪が見え「肉に従う者は肉のことを思い」「肉の思いは死である」ことがわかった。イェスによって霊の目が開かれたからである。ペテロも同じだ。示された罪は祈りの中で捨てるのだ。自分で治そうとするのではない。イェスは「悔い改めて福音を信ぜよ」と言われたではないか肉は捨てイェスを信じる。あとは「御霊みずから、言葉にあらわされない切なるうめきをもってとりなして下さる」。罪からの解放である。
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by oume-akebono | 2016-04-24 03:41 | 週報メッセージ

休日を除く毎週月曜日には、赤ちゃんとお母さんお父さんが楽しく過ごせるプレイルームが開かれています。
最近は、お父さん(イクメンでしたっけ?)が来て下さることが増えました!

たくさんのおもちゃで自由遊びをした後は、お集まりの時間。
絵本の読み聞かせや、手遊びなどをみんなで一緒に。
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先日は、園庭の桜(そめいよしの)が咲き始めたので、お花見をしました。
テーブルのお菓子は、スタッフの手作りもあります。
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今、園庭は八重桜がきれいです。
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by oume-akebono | 2016-04-21 17:12 | 教会ホットニュース!

(ペテロの第1の手紙 2:1-2)       大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救いに入るようになるためである。」


 新年度を迎え今日は教会総会が行われる。だからと言って何か特別な事を企画し盛大に行うということではない。今まで祈り求め進めてきたことを振り返り、私達がキリストの体としてさらに生きた教会に成長し、私達一人一人がそれぞれの分に応じて「世の光」「地の塩」とされ、主の証し人にならんとする決意を新たにするのである。


私達の教会には「教会の祈り」として五つの祈りが示されている。その一番最初には「常にまず自分の内側を整える」とある。外側ではなく内側なのだ。人も教会もそして社会も腐るのは内側からである。この一番さえ満たされてくれば、あとの課題は必ず実現する。


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか」(ルカ24:5)。とても考えさせられる言葉だ。弟子達は決して不真面目ではなかった。真剣であり、命がけでもあった。しかし死人の中に求めてしまうことになる。以前のパウロ、ペテロも同じである。前者はイエスを迫害し、後者はイエスを裏切ることになった。実に狭き門と言えよう。両者とも自分の肉の力によって行動していたのだ。律法ではなく福音であっても教えとして受け、自分の力で全うしようとすると善意であってもやがて肉の働きとなり、不平、不満の産物となる。


「内側を整える」とは自分の内側の霊性を深めることである。と言っても、自分で霊性を深めることはできない。できることはペテロが述べているように肉の思いを捨てることだ。肉は霊に従うほどよく見えてくる。それでも捨てきれない肉の自分が見えた時、パウロは砕かれた。砕かれた深さに霊性の深さは比例する。霊性は砕けた者への賜物である。それは非常に個人的だが同時に普遍的な力である。


これからの私達の教会の課題は、一人一人が霊的相互牧会の実践者になる事ではないか。これが私達の求めるバプテスト教会である。
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by oume-akebono | 2016-04-17 15:34 | 週報メッセージ

2016年度CS教師任命式

本日4月10日は、第1礼拝で「教会学校 生徒表彰式・進級式」が、第2礼拝では「教会学校教師任命式」が行われました。
毎年年度初めに行われるこのセレモニー、「生徒表彰式・進級式」で子ども達は昨年度のCS出席回数に応じて、皆勤賞、精勤賞、努力賞を頂きます。「教師任命式」では、今年度子ども達の霊的成長を支える先生方が任命されます。
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by oume-akebono | 2016-04-10 15:38 | CS(教会学校)便り

(ペテロの第一の手紙2:1-2) 大谷唯信牧師


「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。 」



 これはペテロの言葉である。イエスを裏切ったペテロである。イエスの十字架の直前、最後の晩餐となった夕食の時、ユダの裏切りが発覚し一同衝撃の思いの中、ペテロは思い余ってか「主よ、あなたのためには命も捨てます」と宣言するのである。しかし「鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われ、その通りになってしまった。誰がそれを攻める事が出来ようか。皆、動揺し同じ気持ちがあったに違いない。ペテロはイエスを愛していた。愛するが故に必死に自分の気持ちを正直に告白したのであろう。


 しかし、現実に直面すると余りにも弱かった。これが私達の現実でもあろう。
イエスは以前に「わたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい」(マタイ16:24)と言われた。しかしどんなに必死になっても出来ないのである。そのペテロが立ち直ってペテロの手紙を書き記しているのだ。その一行一行には、彼の失敗があったからこその人間味あふれる暖かい愛情と、絶大な深いイエスの愛に生かされている無上の喜びが伝わって来るではないか。一体何がそうさせたのか。私達はそれを知らなければならない。


 それにはこの世にある教育、訓練ではない。銀や金のような朽ちる物によったのでもない。「それはキリストの尊い血によったのであり天地の造られる前から知られていた事である」とペテロは語る。その命に触れたのだ。その命は、今ではそれを信じた者には誰にでも与えられると主は語る。これこそ「聖霊」である。聖霊の助けによったのだ。ペテロは上の御言葉を述べた、聖霊の助けの中でこれを実践する。即ち、自分を捨てて聖霊の助けを求め主に従う信仰である。その信仰と望みは、自分ではなく「神にかかっている」(1ペテロ1:21)のだ。今年は聖霊の助けによって霊的信仰を求めようではないか。
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by oume-akebono | 2016-04-10 15:31 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙 1:8-9)  大谷唯信牧師


「真理はわたしたちのうちにない。もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は…その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。」


 多くのクリスチャンが感じている問題は、イエスを信じバプテスマを受けたにもかかわらず、いまだに心の内にある秘かな肉の思い、肉の働きの罪が取り切れないという現実の、罪意識ではなかろうか。どんなに表面を繕って、快活に明るく振る舞っても、良心が痛み出す。そこで「自分は駄目だ、不信仰だ、駄目クリスチャンだ」と自分を責めてしまう。これは不安である。


 そこで二つのタイプが出てくる。一つは諦めて何となくやめてしまう人、二つ目は不安を自分の熱意と力で乗り越えようと、犠牲的精神を発揮して、他者のため、教会のために奉仕をし、その遣り甲斐の満足感や、他者が喜んでくれることを喜びとする人である。だが、その動きが止まったり、思うような反応が周りから返って来ないと、落ち込んでしまう。だからまた走り続ける。やっていること自体は悪いことではないのだが、どこか違うのである。


 昔のイスラエルの民も熱心に求めたが、得られなかった。それは「信仰によらないで、行いによって得られるかのように、追い求めたからである。」(ローマ人への手紙9:32)と、パウロは語っている。また「彼らが神に対して熱心であることはあかしするが、…神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである」。(ローマ人への手紙10:2-4)とも述べている。


 わたしたちはキリストを信じる信仰で救われたはずなのに、御言葉を自分の力で行い、実践しようとしているのではないだろうか。イスラエルの人々は年ごとにいけにえを捧げる儀式を行った。罪の自覚が無くなるはずが、無くならなかったからである。(ヘブル人への手紙10:1-3)。


 私たちも聖書やイエスの言葉を教訓として受け取っていたなら、折角の福音が律法になってしまうだろう。罪を見出したらイエスを信じる信仰によってそれを認め、告白すること。これが大事なのである。そうすれば御子イエスの血がすべての罪から私達を清めるのである。自分で直すのではない。許し清めて下さるのは、主御自身であるから、主に任せるのである。自分は何もしない、してはいけない。そうすれば、罪悪感から100%解放される。
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by oume-akebono | 2016-04-03 15:27 | 週報メッセージ