(ピリピ人への手紙 3:12)    大谷唯信牧師


「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。」


 何と印象的な奥深い言葉であろうか。どんなに熱心でも「生きた方を死人の中に求めている」状態になってしまうのだ。これら命の出来事を聖書ではすべて霊的出来事としている。近頃、病人や老人に対するケアに於いてもスピリチュアルと言う言葉が聞かれるようになって来たようだが、よく考えて見ればわたし達のいのち、また聖書で言う心の罪、愛、哀しみ、孤独等々すべて人間性に関する事はスピリチュアルケアという霊的領域ではなかろうか。とするならば教会は勿論のこと家庭、学校、職場、いわゆる人間の居る所はすべてスピリチュアルケアの必要性から見れば無くてはならない働きと言えよう。これは聖書の教えそのものである。


聖書の人間観はまず動物的存在、精神的存在であるが最も大切なのは霊的存在と言う事である。つまり人間は神に似せて造られ神と共に在る神中心の霊的存在であったが、神から離れ自己中心の肉的存在になった。霊と肉の二つの領域に生きる者としているのである。


「人はパンだけで生きるのではなく神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである」(マタイ4:4)とイエスは言われたが肉のパンだけではなく霊の食物をとる必要を語っているのだ。又、「人を生かすのは霊であって肉は何の役にも立たない」(ヨハネ6:63)「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊の事を思う」(ロマ8:6) 
肉の働きは「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ・・・」、それに対し、「御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:19-23)としている。


 現代社会の混乱の原因は人々が肉によって動いている事にある。教育や社会の在り方の前に私達一人ひとりが正しい霊の命に立ち返る事である。肉にあるならば生きた方を死人の中に求める結果になるからである。よみがえりのキリストの命に生きることから始まる。
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by oume-akebono | 2016-03-27 15:10 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20)   大谷唯信牧師


「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのである」


キリストの十字架の死と復活は「我が罪のため」と信じて告白した時、神の力が私達を支えて下さるのだ。自分の中で思っているだけでは何も起こらない。信じての一歩、その瞬間から神の力が注がれ御霊が命となって私達の中に住んで下さるのである。キリストの名によって神の子とされるのである。


信じる信仰によってキリストと共に十字架につけられ、キリストと共に復活して生きる。これを大胆に信じようではないか。人間の理解を超えた出来事であるから信じるしかない。むしろ理解できるならやめた方がよい。大したものではない。わからないから信ずるのだ。わかろうとするのではなくそのままを信ずるのである。すると十字架のキリストこそ神の最高の愛であることがわかる。キリストの命の中に深く生きようとするなら背のびするのではなく、さらに深くキリストの死の中に自分を沈みこませるのである。


多くの人がここで信仰の確信を得ようとしてもっと信じようと力を入れ信じこもうとする。それは逆である。カラ廻りするだけだ。キリストと共に生きようとするなら日々キリストと共に死ぬ決意で歩むのだ。その時々の喜びだ、不安だ等の感情に左右されてはいけない。ただ祈りをもって十字架に死ぬのである。その時は当然、引き上げて下さる時は必ず神がなさって下さると確信をもって飛び込むのであって自分で自分を助けようとしてはいけない。勿論そこ迄したくないと言うならそれでもよいがそれなりにしかならない。中途半端だからである。要はキリストと共に死線を越える覚悟から始まる事を覚えてもらいたい。サタンは常に十字架から引き離し愛とゆるし、正義等を語らせる。イェスが救い主として立つにはカルバリが必要であった。私達も同じである事を覚えよう。
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by oume-akebono | 2016-03-20 01:02 | 週報メッセージ

2016年3月13日  神の愛

(ヨハネの第1の手紙 4:8-10)  大谷唯信牧師


「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。」 


人間は何故罪を犯すのか。毎日報道される
いろいろな犯罪、事件は年々老若男女、多種多様であり、実に凄惨なものが多いように思う。昔と比べ教育の場もあり、経済的にもあらゆる面で豊かになっている筈である。学識経験もあり社会的地位もあり金銭的にも恵まれている者も、全て関係ないかのように問題を起こしているのが現実である。
法律と刑罰の対処で間に合うのだろうか。


勿論、犯罪になる以前の教育、環境の整備、精神医学、心理学、行動科学等の専門家による分析、配慮も行われている事であろう。しかしこれらで本当に解決につながるのであろうか。
聖書によるならば人間が罪を犯すのはそんな持って回った言い方はしていない。ただ一言、それは人間が罪人だからであると断定している。教育、心理学、精神分析等の表層的な問題ではないのだ。


もっと人間の本質、根源的な存在そのものにメスを入れ取り組ませるのである。それは余りにも深く不思議で人間の知恵や科学では全て手の届かないものなのだ。罪とは生命と同じく具体的で日常的なものであるがその根源は神の霊的領域のものである。人間の浅知恵では全く歯が立たないのだ。いつまで人間は自分の分をわきまえないのだろうか。この姿こそ罪そのものから出ているのであるが。
神からの啓示である御言葉は語る。

「すべての人間は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっている」(ロマ3:23) 
「罪の値は死である」
「義人はいない、ひとりもいない」
「すべての人は迷い出て、無益なものになっている」(ロマ3:10,12)
「すべての人間は神の前に義とせられない」(ロマ3:20)

これらの御言葉が現す罪の根源とは何か。それは神を信じない事、神を知らない事、神を無視している事である。この世のどんな重罪よりも重い罪がこれなのである。すべての罪は重いここから出ているのである。このままでは、全人類が滅びる事になる。しかし神はこの罪をわたし達に負わせるのではなく御自身の独り子イエスに負わせ救いの道となって下さった。これによって生きるようにして下さったのである。
これが神の愛である。
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by oume-akebono | 2016-03-13 03:59 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 8:8,13) 大谷唯信牧師


「主よ、・・・ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。  ・・・『行け、あなたの信じたとおりになるように』と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。」



単純な信仰に主の力は働く。信仰とは望んでいる事柄が既に実現したと確信することである。もし目で見えたら、信ずる必要はないだろう。信仰とは、見えなくても、感じなくても、触れなくとも、全能なる主なら出来ると信ずることだ。生まれつきの考えと、信仰とが最も激しく戦うのが、ここであろう。私達の心の中が、理性と信仰による御言葉との、激しい戦場となるのだ。


このローマの軍人百卒長はイエスのもとに来て、自分の僕が病に苦しんでいる事を訴えた。イエスはすぐ彼の家に行こうとされたが、それを留めて「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、・・・僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。と言った。イエスは「イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない」、と大変喜ばれ、冒頭の御言葉を述べたのである。


人は常識や理性の考えの下に信仰を置いてしまう。百卒長はそれらの上に信仰を置いたのだ。弟子のトマスは、わたしは見なければ決して信じない、と言ったが、イエスはこれを喜ばなかった。信仰は理性や常識の上に置く、即ち、信仰の根拠は神の言葉を信ずる信仰のみであるのだ。神に対しては一切の理屈、感覚抜きである。復活のイエスはあのトマスに「あなたは見たので信じたのか。見ないで信じる者は幸いである。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」。と言われている。


クリスチャンになってからも同じである。御聖霊はさらに罪に目を開くであろう。これを何とかしようと苦しんでしまう人が多い。罪の自分は日々キリストの十字架にかけ、キリストと共に死ぬ信仰に委ねるのである。罪のわたしではなくて、十字架のキリストを見るのである。わたしはキリストと共に十字架で死んだ。今やキリストがわたしのうちに生きている、との信仰を宣言しようではないか。
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by oume-akebono | 2016-03-07 00:56 | 週報メッセージ