(ピリピ人への手紙 3:12)    大谷唯信牧師



「わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。」
 


「それ」とは「律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになる」ことである
心に渇きを覚え、さらにイエスの霊なる命に満たされたいとの願いが起きる。それはそれ自体すでにイエスに捕らえられているのだ。イエスを信じバプテスマを受ける、その時から聖霊は私達に注がれ、ある時、さらに召し、成長させるために渇きを授かる。「罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)ためである。


自分の自己中心の罪や汚れが今まで以上に見えたり、クリスチャン以前より悪い人間になっていると思えたり、到底自分のようなものはクリスチャンとしてふさわしくないと絶望的になったりする。以前の満たされた喜びや平安は消え去り、暗い中で自分の弱さばかりが見え教会にも行けない思いが襲ってくる。必死でそういう自分から抜け出そうとするのだがどうにもならない。実にこれが神の召しの霊的成長の始まりなのだ。主が取り扱っておられる。主の訓練である。今までの救いについての学びは他の人から聞き教えられたものだ。それは入門でありきっかけである。


主は信仰を与え、暗きを通し主の訓練の中で、さらに召しのための導きが始まるのだ。だから逃げてはいけない。ヤコブのように一人残されて、自分の罪と直面し、キリストの十字架を見上げ、すべての罪を一つ一つキリストに預け、「祝福して下さるまでは離しません」と取り組み、キリストと共に死に、キリストと共によみがえる救いの秘儀を信じる信仰で必死に願うのである。そうすればあなたはイエスのいのちの実体に出会う事になろう。これを求める事自体すでに主イエスに捕らえられているのだ。これ得る者が一人でも多くある事を祈っている。
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by oume-akebono | 2016-02-28 03:53 | 週報メッセージ

(歴代誌下20:15)    大谷唯信牧師


「恐れてはならない。おののいてはならない。これらはあなたがたの戦いではなく、主の戦いだかである」


人生での戦いとは何か。仕事、学業、家庭生活、病気等々、あらゆる出来事が人生での戦いと思う。当面、目の前にある生活での戦い、困難や逆境との戦いがある。では、救われるとこれらの困難や苦しみがなくなると言うのか。そうではない。これらと戦う事によって神と出会い、神の命を得、それらの意味を示され勝利するのである。


「この世では悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」とイェスは言われた。イェスは十字架の贖い主となられ罪と死から勝利されこれを信ずる者には誰でもこの勝利が得られる道となって下さった。ここで言う勝利とは自分の自己実現とか有名になった等のこの世で言う成功者になる事ではない。それ以上にすばらしい事である。即ち、私達を罪と死の恐れの中に閉じ込め私達を支配しているサタンに勝利し自由になる事だ。


私達の究極なる敵はこの世でも目に見える相手ではなく、それらを動かしているサタンである。ほとんどの人がそれを知らないために互いを敵視してしまう。だからパウロは語っている、「私達の戦いは血肉に対するものではなくもろもろの支配と権威とやみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」(エペソ6:12)と。勝利はキリストによる神との和解から始まる。それはキリストを信じる信仰によって得られる。なぜならその時、すでに戦いは「主の戦い」になっているからだ。


しかも、ここで大切な事はこの勝利の約束は私達「教会」に与えられた恵みであり、決して私個人ではない事だ。これらの事をパウロは自らの研究で得たのではない。神の啓示によって知ったのである。そして「キリストの神、栄光の父が知恵と啓示との霊をあなたがたに賜って神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにしてくださるように」(エペソ1:17-18)と祈っている。私達も勝利はすでに与えられている事を啓示によって知ろうではないか。
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by oume-akebono | 2016-02-21 03:50 | 週報メッセージ

(創世記 32章24節 )        大谷唯信牧師


「ヤコブはひとりあとに残ったが、ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした。 」


 信仰生活は日々聖霊の助けによってのみ支えられる事を知ろう。聖霊なしの信仰は頭での知識と理解だけであって生きてはいない。律法的であり教条的である。本人は真面目で几帳面に頑張っていても、次第に初めの感動は失せ、無味乾燥となり重荷とさえ思えるようになってくる。孤独で暗く無気力になったり、実に辛いものだ。だがこれは霊的に次の成長段階に行くべきサインでもあるのだ。


神は時に、自分を支えているあらゆるものを取り外すことがある。自分の健康、能力、得意とする賜物、仕事、家庭、自分を支えているはずの信仰でさえもである。全て何もない無力の中に落とし込む。


「ヤコブはひとりあとに残った」とある。彼は賢く、さらに神の特別な祝福を受け、何をやっても成功し、莫大な財産と家庭を得て家族と共に故郷へ帰ろうとしていた。しかし途中、兄エサウが自分を殺そうと待ち受けている事を知り、恐れ、兄の怒りを和らげるため莫大な貢ぎ物を車に、一群、二群、三群と先に行かせ、最後に妻と子供を行かせる策を講じた。それでも恐れは消えず一人だけヤボクの渡しに残ったのであった。 彼は恐れと不安の中で自信もプライドも失い、家族や全ての財産をも切り離して、闇の夜をひとりぼっちで死の恐怖の中に取り残されていたのである。


ところがこの最悪の晩こそが最高の栄光ある出来事が起きた晩となった。「ひとりの人が、夜明けまで彼と組打ちした」。 ここに神との出会いが起きたのだ。彼はこの世で全きひとりとなって真正面から自分の実情、苦しみ、悲しみ、弱さ、罪深さを正直に自分の存在そのものだけになって神に叫び訴え、泣き、呻き、「主よわたしをあわれんで下さい、祝福して下さるまではあなたを離しません」と神に願うまでになった。


主の前に自分を捨て、得ではなく損を取ったのだ。全託でもある。主の御心の中に自分を浸し沈めていく、「そうすれば主が高くして下さる」(ヤコブ4:10)
これが霊的人生の法則である。
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by oume-akebono | 2016-02-15 15:22 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 4章24節)     大谷唯信牧師


「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



 神は霊的存在である。眼で見たり手で触れたりすることはできない。私達人間も同じく霊的存在として造られ、神とはぶどうの木とその枝の関係のようにつながっている時、豊かに御霊の実がみのるのである。もし離れているならば御霊の実はみのらず肉の働きとなってしまう。


神は私達を、そして教会も聖霊の命によって生きるものとしてくださった。それ故にパウロは「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」(ガラテヤ5:16)と語っているのである。


私達は、イエスを救い主と信じ信仰生活が深まると共に、自分の中にある肉の働きを自覚するようになった。救われる前は霊が死んでおり肉のみで生きているため肉が当たり前であるからそれが普通と思えてしまうが、イエスが聖霊となって自分の中に宿り霊の命が与えられてくると、肉の働きがしっかりと見えてくるのである。


ロマ書8章では、自分の中に肉と霊の自覚を常にもつことを教えている。「肉に従う者は肉の事を思い、霊に従う者は霊の事を思う」「肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である」「肉にある者は、神を喜ばせることが出来ない」と次々と肉と霊について述べられている。


箴言4章では「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」と述べている。サタンが常に働き、肉の中を歩ませようと働きかけているからである。サタンの働きは一つ、信仰をもたせない事、神と私達を引き離し霊の油を絶つ事なのだ。


また信仰の確信に立っている者をも増長させ、いつの間にか肉による確信に立たせてしまう事も簡単にする。
御霊によって目を覚まし、自分の心を見張り常に主を見上げる事である。御言により絶えず祈り、御霊の導きの中で互いに兄弟のために祈り合う交わりには、神の勝利と平安が満ちるのである。神はあなたがそのような器となる事を願っておられるのだ。
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by oume-akebono | 2016-02-07 15:15 | 週報メッセージ