(マタイによる福音書 6章33節)    大谷唯信牧師


「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」


 神を知るにはどうしたらよいのだろうか。多くの人は神は存在するか否か?と考えるのではなかろうか。そのために本を読む、人の話を聞く、教会に行く、聖書を読む、さらに深く知りたい人は専門書、神学書までの学びをしていく。どれも決して間違ってはいない。


しかし、色々努力し取り組んでも、満足するような思いには中々なれない。何故だろう。それはアダムのように、知識で分かろうとしているからだ。自分の頭で考え理解し、納得しようとしているからである。
この世のことはこの姿勢が必要であろう。しかし、神を求めるには、この方法は全く役に立たないのである。イザヤは語る「主は言われた、『この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。それゆえ、見よ、わたしはこの民に、再び驚くべきわざを行う、それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される』。」(イザヤ書29:13-14)


パリサイ人パウロは自らの救いの体験の中で示された事を述べている。「知者はどこにいるか、学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである」。 (コリント人への第一の手紙1:20-21)。


いかがであろうか。神を知る唯一の方法は、それほど難しいものではない。勿論、教会も聖書も学び、交わり、祈ることも必要であろう。しかし、一番大切なことは、「神を信ずる」ことなのだ。すべての学びも探求の努力も「神を信ずる」中で意味が出てくる。わかってから信じようとする人は、人生がわかってから生まれようとする胎児のようなものだ。「心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。」(マタイによる福音書18:3)と主は言われる。


まだ信じることが出来ないという方も、意識して信じて乗ってみることだ。冒険である。そして「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。」(マタイによる福音書6:33)の神を信ずるのである。
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by oume-akebono | 2016-01-31 15:10 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 4章16節)     大谷唯信牧師


「すべては信仰によるのである。それは恵みによるのであって、すべての子孫に、即ち、律法に立つ者だけにではなく、アブラハムの信仰に従う者にも、この約束が保証されるのである。」


 神は常に人を選び用いて御自分の救いの働きを進められる。決して神単独ではなさらない。どんな時にも人を用いてなさるのが神のやり方なのだ。神は人の心の内に語りかけその人の人格を重んじその人の意志、決断を促し信仰によって歩むように導かれる。「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう」(創世記12:1-2)


アブラハムはこの約束の言葉を信じてこれを実行したのである。二千年後のヘブル書には「信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」(ヘブル11:8)と記している。聖書が啓示する本来の世界、本来の人間の命、その力を神の霊なる命の領域から出るものでありその入り口は信仰なのである。


現代は目で見える物理的世界、封建社会から民主社会、平等、多数決、個人の権利、一致、平和等々といろいろ論じられるが結局は黒か白かの戦いであり灰色でしかないこの世はこれが現実であり、どんなにあがいても空まわりであり出られない。


しかしここからの脱出が聖書が示すアブラハムの信仰なのである。論外の世界だ。「彼はこの神、即ち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである。彼は望み得ないのに、なおも望みつつ信じた。およそ百才となって彼自身のからだが死んだ状態であり、また、サラの胎が不妊であるのを認めながらも、なお彼の信仰は弱らなかった。神の約束を不信仰のゆえに疑うような事はせずかえって信仰によって強められその約束は必ず成就すると確信した」(ロマ4:17-21)のである。私達もすべてを信仰による行いとして取り組もうではないか。
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by oume-akebono | 2016-01-24 15:05 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 10章15節 )     大谷唯信牧師


「だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。


イエスの最初に語った宣教は「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。ところが「世は彼を知らずにいた。彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった」(ヨハネ1:11)とある。確かに祭司ザカリヤもパリサイ人の指導者ニコデモも、この世は分からなかったのである。そういう現実を主は神に感謝し「あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことにみこころにかなった事でした」と語っているのである。


富める青年が主のもとを悲しみながら去った時、イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは何とむずかしいことか、それより、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」と言われている。と言うことは、全く不可能と言うことではないか。弟子達は驚き「それでは、誰が救われることが出来るのだろう」とイエスに問うた。これは私達教会にとってもクリスチャンにとっても大変な事ではないだろうか。
イエスは彼を見つめて答えられた「人には出来ないが、神には出来る。神には何でも出来ないことはない」と。


即ち、「この世の知恵ある者、賢い者には隠して、幼な子にあらわして下さった。」「誰でも幼な子のようにならなければ神の国に入ることは出来ない」。しかもこれは神の御心にかなった事としているのだ。
わたし達はそろそろ気付かなければならない。神の国の出来事(教会の出来事すべて)は、難しく考えるのではなくて、幼な子のような素直で単純な信仰の出来事にした時、神御自身が聖霊の力となって可能にして下さると言うことである。自分ではなく「神成し給う」の信仰、「心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る」(マルコ11:23)との信仰である。聖書には不可能を可能にする信仰が満ちている。今年はこの信仰に信仰をもってチャレンジしようではないか。
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by oume-akebono | 2016-01-18 14:59 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5章16節)      大谷唯信牧師


「わたしは命じる。御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」



 パウロは自分の無力さの中で御霊の助けを願いつつ十字架の主を仰いだその時目が開かれた。それが神の力となって自分に迫り、満たされ「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」(Iコリ1:18)との確信に至ったのである。


「十字架の言」とはわたし達を罪から救い出すための十字架の死をもって贖って下さったキリスト御自身の事であり、滅び行く者とはそれを信じる事の出来ない者の事である。それは自分の知識を優先しているのである。人はアダムが知識の実を食べて以来、今でも知識を求め続けているのだ。聖なる神の律法ですら知識として受け、取り組んでいたのである。


 パウロは語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、その律法に達しなかった。なぜであるか。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「わたしは、彼らが神に対して熱心である事はあかしするが、その熱心は深い知識によるものではない。


なぜなら、彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。
キリストは、すべて信じる者に義を得させるために、律法の終わりとなられた」(ロマ9:31-10:4)。これは実に重大な言葉である。パウロの失敗体験そのものでもあったからだ。「律法の義については落ち度のない者であった」(ピリピ3:6)と断言するほど完璧であったがそれが故にイェスを迫害する者となってしまったのである。


この世の知識は肉であり真理に対しては眼をふさぐのである。富める青年のように「それらの事は小さい時から守っております」となる。実に知識は人を驕らせ盲目にする。ニコデモ、ザカリヤも同じであった。多くの人が気づいてないのだが、いくら神の言葉であっても知識の領域で受け取るならば力どころか弊害なのである。


私達は自分の無力さを認め聖霊に依り頼み祈る。「主なし給う」の信仰で歩もう。信仰は祈りと聖霊と御言葉によって生きたものになるのである。これが御霊によって歩く事であり霊と真とをもって礼拝する事になるのである。
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by oume-akebono | 2016-01-10 09:10 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書16:15-16) 大谷唯信牧師


「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。信じてバプテスマを受けた者は救われる。しかし、不信仰な者は罪に定められる」



新年を迎えての最初の主日である。今年はどんな志をもって歩もうとしているのだろうか。各自それぞれの課題や計画に取り組もうとしておられると思うが、同時にキリスト者としては常に世の光、地の塩としての務めが主から託されている事を覚えよう。それがイエスの「全世界に出て行って福音を宣べ伝えよ」の世界宣教への祈りとなる。野口日宇満牧師は昨年インドネシアに宣教師として旅立ったが、「全世界に」とは外国に行ってとの事だけではない。国内、国外、隣人、家族、すべての人々という事である。私達は全世界を視野に入れながら日々出会う方々に福音を伝え救いを知らせる責任を主からあずかっているのである。これは自分の力でするのではない。主が私達の祈りと信仰に応じて御聖霊を注いでくださり、私達を主の器として用い行ってくださるのである。


私達は自分の救いで留まるのではなく、主の器として主の御心を求めつつ用いられることを願おうではないか。そこに自らの成長と人々との新しい出会いがあることを体験しその喜びを分かち合いたいのである。


御聖霊は求める者に注がれ、次のように新しい心を下さる約束がある。
①清き汚れなき心(詩篇51、マタイ5:8)
②砕けた悔いた心(詩篇51:17)
③低い心(マタイ11:29)
④霊の人(ガラテヤ6:1)
⑤信仰の確信(ヘブル10:22)
⑥聖別された潔い心(コロサイ3:12)
⑦神にかたどれる心に立ち返るよう日々祈る
⑧罪より開放された心(ロマ6:7,22)
⑨罪を憎む心(詩篇97:10)
⑩上よりの愛に満たされた心


神は私達にこれらを御聖霊によって与えてくださるのである。イスラエルの民は何故失敗したのか。信仰によらず自分の力で取り組んだからである。受胎告知を受けたマリヤの応答に信仰の原点を見る。私達もここに立とうではないか。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」と神の御言葉に従った。ただそれだけである。それが信仰の原点なのだ。
今年はこれを学び深め共に歩み、主からの恵みを豊かにいただこうではないか。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:35 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書6:63)   大谷唯信牧師


「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である 」。


今年の最後の主日礼拝を迎えた。一年を振り返ると沢山の感謝、反省そして新年に向けての新たな思いが出てくると思う。私達は、それら全ての自分の行動を、神の栄光のため、また人の徳を高めるためと、霊的目標を定めて取り組もうではないか。自分の力で出来るかどうかではなく、信仰の出来事として、取り組むのである。


あの受胎告知を受けた時のマリヤを思い起こしていただきたい。信仰を複雑化してはならない。信仰は単純な方が良い。理屈ではなく本気でぶつかれるからである。マリヤは「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」。と驚きの中にも非常に冷静に現実を直視し、事実に直面している。思いもしない事が起きた時、「ひどく胸騒ぎがして何のことであろうかと思いめぐらしていた」。むやみやたらに悲鳴をあげたり、懐疑的になったのでもない。


これはなかなか出来ない事ではなかろうか。しかも御使いによって、これは聖霊の働きであることが解き明かされた時、「わたしは主のはしためです。お言葉通りこの身になりますように」と従順であった。正に信仰の原点である。それに比べ祭司ザカリヤは「どうしてそんなことが私にわかるでしょうか」と答えている。彼は自分で分かろうとしていたのだ。自分の経験と能力で分かろうとしている。これは信仰ではない。マリヤは分かろうとしたのではない。御言葉に従おうとしたのだ。


聖書は語る「義の律法を追い求めていたイスラエルは、律法に達しなかった。何故か。信仰によらないで、行いによって得られるかのように追い求めたからである」。「彼らは神の義を知らないで自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったから」とある。私達も御言葉に従う時、自分の力で行うのではない。まず信仰によってキリストに従い、「お言葉通りに」の心で立つ事である。目新しいものを求めるのではない。御言葉に向かう自分の心姿勢、信仰姿勢を新しくするのである。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:30 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書1:20~22) 大谷唯信牧師


「ダビデの子ヨセフよ、心配しないでマリヤを妻として迎えるがよい。 その胎内に宿っているものは聖霊によるのである。彼女は男の子を産むであろう。その名をイェスと名づけなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」

マリヤの婚約者ヨセフは彼女が身ごもったとの噂をどこかで耳にしたのであろう。彼は静かな正しい人であっただけに彼女を心配し、公にする事なく離縁すべきか案じていた。その時に御使いが現われ、「心配するな」と語りかけ、これは創造主なる神の霊、聖霊の御業であることがわかったのである。


神の出来事はわたし達の理解を超えている場合が多い。ゆえに信仰によって信じ受けるしかないのだ。神の出来事はどんなに考えても答えは出ない。恐れと不安が増すだけである。わかろうとするほどわからなくなる。しかし、信仰によって信じ受け入れるならば驚くほどの道と勇気が出てくるのである。


信じるとは自分が信じれるようにわかった、理解した、納得したからではない。わからないから、理解できないから信ずるのだ。わかったら信ずる必要はないと思う。信ずるとはわからなくても、理解できなくても受け入れ信ずる、否、信ずることに自ら意思決定する事である。信ずるとは意志で決め受け入れること、それが信仰となり力が注がれるのである。


よく「信じられない」と言って自分で決定しないで信じれるのを待っている人がいるが信仰は受け身では得られない。決定して奪い取る主体的なものである。すると御言葉が生きた力となって道が見えて来るのである。「御言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます」(詩編119:120)「御言葉はわが足のともしび、わが道の光です」(詩編119:105)が自分の中に実現するのだ。マリヤも「わたしは主のはしためです。お言葉どうりにこの身になりますように」の信仰で出発したのだ。エリサベツは「主のお語りになった事が必ず成就すると信じた女は何と幸いでしょう」(ルカ1:45)と告白している。
クリスマスは聖霊の出来事であり信仰で受けとめる出来事である。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:27 | 週報メッセージ

(ルカによる福音書 1:34)   大谷唯信牧師


「どうしてそんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」
 「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」

 

今年も私達はクリスマスを迎えようとしている。幼稚園では早くも毎年恒例のクリスマスページェントが、今年は幼稚園2階のホールで二度にわたっての公演、一同感動の喜びを分かち合った記憶も新しい。上の御言葉はイエスの母となったマリヤが受胎告知を受けた時の事である。驚きと信仰によってお受けし、主に従っていく姿が見える。私達は一つの物語としてその筋書きを知っており、何回も耳にしており、また、クリスチャンの方なら直接聖書を読み慣れ親しんだ美しい出来事として接していると思う。
 

しかし、当時のマリヤ達にとってはすべて初めての出来事として現実に起きているわけだから、その驚きと言ったら大変なことだったと思う。これが起きる700年も前に預言者イザヤは預言しているのである。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」、「ひとりのみどり子がわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた」(イザヤ9:6~)と。すでに成就したものとして預言されている。これはイスラエルのすべての民の希望であった。しかしそれがいつどのように来るのかは誰も知らなかったのである。それが突然自分の身の出来事として起きてきたのであるから、その驚き、不安、恐れは大変なものであったろうと思う。
 

マリヤの初めは驚きと全否定であった。「わたしにはまだ夫がありませんのに」。動かせない現実の状況である。もしこれが事実であったなら、当時は姦通罪での死罪である。しかしこれが聖霊の出来事、神の出来事としての御業と聞き、「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますように」と受ける決断をした。これこそ信仰によっての服従と献身である。身を投げ出しているのだ。今の私達にも御言葉は迫って来ているのだが、あなたはどうするのか。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:24 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 5:16)  大谷唯信牧師


「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない」。


今年も、クリスマスを迎える時期となった。イエスの誕生は、御聖霊によるものであった。私達が救われたのも御聖霊の導きである。私達は、すべての事が御聖霊の導きの中にあるという自覚を、常に信仰によって持つべきであろう。いつの間にか肉の力で推し進めていることが実に多いからだ。有能で自分に自信がある人ほどそうなってしまうから、気をつけよう。周りからも喜ばれ、感謝され新たな生きがいを得たりもする。しかし信仰生活は霊的出来事なのだ。それなのにこれを肉の力で維持することになると、これは肉の働きになってくる。


勿論、自分の調子の良い時、気分が乗っている時には快調で、どのような仕事でも、生き生きと楽しくできる。クリスチャンになって良かったとも思う。自分が肉の力でやっている等とは到底思ってはいない。何をしても楽しいのである。しかし自分の限度を超えてくると、肉の部分が悲鳴を上げるのだ。霊的にはまだ幼く、力が無いからである。実に、ここからが成長の第一歩なのだが。こういう現実を通して肉が自覚され、悔い改めの恵みにあずかり、一歩ずつ成長するのである。


信仰に入った途端に完全になるわけではない。救われ、神の子とされたことは事実である。しかし、神の器としてはまだ幼いのだ。肉的なのである。パウロが言った「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼子に話すように話した。…食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない」。(コリント人への第一の手紙3:1-2)何かトラブルがあると傷ついたり、ふくれたりするのだ。


「あなたがたの間でねたみや争いがあるのは、肉の人だからだ」とも語る。何年経ってもこのレベルの人がいる。自分の問題ではなく、他人の問題にしているからである。自分の問題として受け取った時は、痛いが悔い改めのチャンスとなる。「自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけて」(ガラテヤ人への手紙5:24)を実践した者が、成長の恵みを受けるのである。思いを肉ではなく、霊につなげるのだ。
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by oume-akebono | 2016-01-07 03:21 | 週報メッセージ