(エペソ人への手紙 2:21-22)    大谷唯信牧師


「キリスト・イエスにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。 」


 不完全な私達がキリストのからだとされ、聖なる教会へと成長し、聖なる神の住まいとなると言うのだから驚きである。しかも、「神の多種多様な知恵を教会を通して、この世を盲目にしている天上にある諸々の支配や権威(サタンと彼の天使達)に知らしめるため」というのだ(エペソ3:10)。


正に呆れる程の教会の力を示しておられる。それは教会がキリストであり、キリストの命が与えられているからである。私達青梅あけぼの教会にも、この約束が与えられているのだ。神はそれを信じる者には与えて下さる。


教会は始めは小さな集いであろう。しかし、「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいる」(マタイ18:20)と約束されておられる。教会はこの「ふたりまたは三人」の集まりなのだ。大切な事はそこにキリストが御臨在されているか否かである。感謝な事に私達の教会は、礼拝をはじめどのような集いにも主の御臨在を感じるようになってきている。主の働きの反応を皆さん方に見るのである。今、大切な事は私達一人ひとりが主の御臨在を信じ、神の恵みを信じる信仰によって感じ受け止めることであろう。


私達が教会として整えられ深められてきている。誰がリーダーとか、誰がやったとか、やらないとかではない。組織とか制度、又、主義とかイデオロギーでもない。それらの全てを超えて包み、徹底的に赦し、新しく一つに生かしてしまう力、これこそイエス・キリストの命であり御聖霊の生きた力だ。この恵みは教会を通して流れてくる。故に教会から離れたり粗末にしてはいけないのだ。


自分の栄光とか邪心を捨て、純粋に御名を称え主に従おう。昔、青年時代、大井教会で10数名の学生と青年とでこれを実践したところ、7年余りで200名の青年会となった。教会全体では千人教会が見えるようになっていたのである。基本は主にある「ふたりまたは三人」の集いにあった。
これが主の働かれる道になっていたのだ。主は弱い者の献身に答えて下さるお方であった。
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by oume-akebono | 2015-11-29 01:51 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 2:19-20)   大谷唯信牧師


「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。」


 神は私達を選び、愛し、さらに豊かに成長することを願っておられる。成長するとは「御霊の実」が私達に、そして教会に豊かに実ることである。そのためには私達一人ひとりがしっかりとキリストにつながっている事が大切であろう。私達の生活のすべてがキリストと共にある「信仰の出来事」として、「教会の出来事」として取り組んで見る事である。


 今やほとんどの人が「自分なり」の生活を求めている。「自分なり」にできた時、喜びがあり達成感があるからだ。しかしこれは初歩の初歩である。「信仰生活」も「自分なり」にやろうとする人が意外と多いのではなかろうか。これはすぐに行き止まりになるものだ。


何故なら信仰は自分を捨て自分の十字架を負って主に従う事が基本であるからだ。「自分なり」とは捨てるべき自己にしがみついているに他ならない。信仰とは自分ではなく神を中心にして自分から解放される事である。それなのに神の名を借りて自己中心となり自分の殻に閉じこもってしまう。神に守られていると思いながら自己の中の安全地帯にもぐり込んでしまうのだ。


これは自分に正直に自分の心を吟味する勇気が必要であろう。自分を捨て神に従おうとする時、これを阻む強い障壁を感じると思う。しんどいのである。これが自我でありエゴと言う罪なのである。罪は「自分なり」にやっている時はほとんど気づかない。真剣になって本気で神に従おうとする時にその途端に罪が見えてくる。自分の罪の思いが深くならない従い方はまだそれほど真剣ではないのである。


パウロは「わたしの欲する善はしないで、欲しない悪がこれをする」と告白し、自分は罪の奴隷ではないかと自覚した。同時にわたしはキリストと共に死にキリストと共によみがえる信仰に至ったのである。キリストの十字架が自分の体験となった。私達も「自分なり」を信仰によって脱皮していこうではないか。
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by oume-akebono | 2015-11-22 02:04 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙 1:1)    大谷唯信牧師


「人々からでもなく、人によってでもなく、イェス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ」


 ベテランクリスチャンでもイェスに直接つながっている方は意外と少ない。肉で頑張っているからだ。パウロを動かしているのは私達を日々支えて下さる御聖霊と同じ御聖霊でありイェス・キリストである。御聖霊への信仰が私達を直接キリストにつなげて下さるのだ。


今、求道している方も心の内にキリストのノックを少しでも感じ御言葉に共鳴しているならばすでに主に捕えられ御聖霊の導きの中におるのである。「わたしは弱いので…」と自分の弱さを気にしたり、「もっと強くならなければ…」と思いつつもそうなれないで嘆いている人は意外と多い。真面目な人ほど自分の弱さを抱え込んでしまう。


聖書も読み、祈りもする。しかし目立った効果はない。何故だろう!。それはそう言う自分に信仰の根拠を置いているからである。もう一度はっきり言うが、あなたの信仰の根拠はあなたではなく十字架のイェス・キリストである。あなたは強くても弱くてもどちらでもよい。否、弱い方がよい。自分を頼みにできないからだ。肉を殺すには自分の弱さ罪深さを覚えたら強くしよう等とは思わず信仰によって感謝してそれを認め、もっと徹底して弱くなり、まさに死ぬ気で自分を死の淵まで落とし込み、実にここからが大切なのだが、信仰によって自分から目を離し、信仰によって十字架のイェス・キリストを心に描き自分の全存在を罪のありのままでイェスに投げ出すのである。


十字架のイェスと共に死ぬ思いに至ることだ。あとは眠るのも横になるのもよしである。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」(ガラテヤ2:19-20)が湧き上がる泉となって自分の中に実現するのである。
すべては御聖霊の導きによる。いつまでも肉のクリスチャンではいけない。私達は霊のクリスチャンとしての成長を主に願おう。教会は神の霊の宮であるからだ。
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by oume-akebono | 2015-11-15 02:00 | 週報メッセージ

(マタイによる福音書 27:46)   大谷唯信牧師


「 わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」



キリストの十字架上での死の直前の言葉である。この中にわれわれ人間の極限の絶望と救いの法則を見るのである。イエスは罪なき神の子であったが、我々全人類の罪を背負って、全き罪人として神から断罪され、見捨てられた姿がある。親や友に捨てられた者はいるであろう。


しかし、今迄神に見捨てられた者はいない。「天の父は悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らせて下さる」。(マタイによる福音書5:45)私達が神を無視したり、批判したり、見捨てたりはする。それでも神は私達を一人も見捨ててはおられない。


しかし、私達は色々な不条理な出来事に直面し、取り返しのつかないその中で、ただ絶望するしかない時もあるのではなかろうか。イエスは「どうして」と言われた。今や世界中は聖書に示されているように、「・・・被造物が虚無に服し・・・被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けている」。(ローマ人への手紙8:20、22)。そこで我々は叫ぶ、「どうして!」と。絶望の声である。
イエスの「どうして」は我々全人類の究極の絶望の叫び、我々の死と苦しみの叫びをすべて代弁し、神に願いつつ自らの命を神に投げ出していく。それ故に、神はイエスに復活を与えられたのである。


「自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために、自分の命を失う者は、それを見いだすであろう」。(マタイによる福音書16:25)と言われた命の法則がここにあるのを見る。
パウロも、自分の中にある罪の働きには勝てなかったことを告白している。「罪の法則」がわたしをとりこにしているのを見る、と述べている。ついに「わたしはなんというみじめな人間なのだろう。誰がこの死のからだから、わたしを救ってくれるのだろうか」と絶望し、神に委ねている。「この死のからだ」と言うほど、罪の自覚が深いことが分かる。罪の自覚の深さに比例して、恵みも大きいのである。自らを低くする者を、神は高くしてくださる事を覚えよう。
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by oume-akebono | 2015-11-08 01:56 | 週報メッセージ

(ガラテヤ人への手紙5:5)   大谷唯信牧師


「わたし達は、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。尊いのは、愛によって働く信仰だけである」



 教会の成長は私達の霊性が深められるか否かにかかっている。教会は聖霊の注ぎによって誕生し、弟子達も聖霊の力によって霊の命が与えられ生きる者とされた。決して自分の力ではなかった。しかしここで起きてくる一つの問題は、私達は信仰生活をしっかりやろうと決意をするほど自分の力で頑張って取り組んでしまうことだ。


自分の課題、目標を決めて取り組むことは良いことであり必要なことであるが、それがいつの間にか自分の力、自分の行いとなり自己達成、自己実現の喜びとなり、さらに自分の栄光を人に現わしたくなることである。勿論、神様のための奉仕として取り組んでいるので、余程自分の心を正直に見、吟味しないと見落とすほどの小さな思いから始まるのだ。だから敢えて意識的にすべての栄光は神にお返ししますとの意識が必要と思う。


 律法は神から与えられた聖なるものであった。彼らが律法と言う時、それは忠実に実行することにある。命がけでもあった。パウロは「わたしは律法の上ではパリサイ人、律法の義については落ち度のない者である」と断言できるほどに徹底していたのである。しかし、「熱心の点では教会の迫害者」になっていったと告白している(ピリピ2:6)。それは律法の文字づらを実践する自分の行動ばかり見ていて、神の律法がイエス・キリストの救いに向けられているという一番大切な神の御心が見えず、自分の自己実現だけが目的となってしまったからである。


 律法は行いなのだ。行いのない律法等は無意味であろう。私達の信仰生活も同じ課題が含まれている。生活は行いだからである。行いのない信仰生活があるのか。キリストに出会ってからのパウロは「律法によって義とされようとするあなたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている」(ガラテヤ5:4)。しかし「もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法のもとにはいない」(同5:18)と言う。頭で考えるとわからなくなるだろう。文字の限界である。御霊への信仰が命の泉を開くのだ。御霊によって歩もうではないか。
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by oume-akebono | 2015-11-01 01:52 | 週報メッセージ