(コリント人への第二の手紙 5章17節)     大谷唯信牧師


「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。」


 信仰生活は「日々新た」なのである。川の水のように絶えず流れている。どんな名水であっても流れが止まればやがては腐る。コップに取れば流れは止まる。信仰も同じと言えよう。
確信ある信仰であっても、流れが止まれば化石のようになり、ただの頑固になりかねない。


そのために主は教会を与えられた。教会は単なるクリスチャンの会合の場ではなく、キリストのからだであり、その頭がキリスト、そしてキリストを信じる私達はキリストのからだの肢体とされている。即ちキリストの命の営みにあずかっている共同体であり豊かに実を結ぶ教会とされているのである。


 私達はキリストを信じる信仰によって「古いものは過ぎ去り」すべてが「日々新たに」されているのである。パウロがこの言葉の前に語っている一言は重要である。それは「わたし達は今後、誰をも肉によって知ることはすまい」の言葉だ。どう言うことだろうか。「肉」とは自分の知識やこれ迄に積み上げてきた自分の経験による価値観、自分の誇り等々である。さらにパウロは、「かつてはキリストを肉によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方はすまい」と語る。


 即ち、キリストに対してすら私達は今までの自分の得たキリストへの知識や観念を固定化し、キリスト像を描き、わかったとする。一旦自分の中で知識化され概念化されたものは、すでに静止画であって一枚の写真を見ているようなもので、そこに命はない。出会った時は確かに命に触れ、感動、喜びも生きていた。しかしそれが意識化され言葉や文字とされた時にはすでに過去のものである。「文字は人を殺し」とあるように、御言葉も慣れや惰性、習慣になると「熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるい」死んだ世界になりやすい。


 一方、「霊は人を生かす」のである。日々新たに御言葉の霊に触れ続けていく、日々新たに御言葉を味わい、自分を吟味し悔い改めつつ「御言葉がこの身になりますように」の信仰で祈り献身の想いを新たにする事であろう。
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by oume-akebono | 2015-10-25 13:20 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙 1章18節)     大谷唯信牧師


「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたし達には、神の力である」


 この御言葉を信仰によってわたし達の、否、自分の「信仰の言葉」として宣言しようではないか。「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」(ロマ10:10)。即ち信じて行動する、「信仰の出来事」として動く時、御言葉が神の力となってわたし達を支えるのである。


パウロが「十字架の言」と言う時、それは単にイェスの十字架の物語ではなかった。彼はパリサイ人であり、当時誰もが誇りとする律法学者ガマリエルの門下生として神学を語ったのでもなかった。むしろそれらの知識もプライドも打ち捨てて自分の罪と向き合い自分の心と正直に語り合い「わたしの欲する善はしないで、欲していない悪はこれを行う」と言う現実を認めたのである。


「わたしは何とみじめな人間なのだろう」。ここからが新しくされるには大切なのであるがここで苦しんで終わってしまう人が多い。他の事で気をまぎらわしてしまうのだ。ここでもう一歩、「苦しめ、悲しめ、泣け、笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」(ヤコブ4:9)と冒険なのだが自らを落とし込む、どこまでかは人によって異なるが自分のギリギリまでである。


自分の良い悪い、出来る、出来ないをも超え、つまり自分の存在そのものが罪の塊であり、いかようにも救いようがないと言う所まで行けば「だれが、この死のからだから救ってくれるのだろうか」(ロマ7:24)の断腸の想いで「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)とのイェスの叫びが自分の叫びと一つになり、神の審きを身に覚えながらも自分で自分を建て直そうとするのではなくて、主を見上げてそのままの自分を主に全託するのである。


するとしばらくして「わたしはキリストと共に十字架につけられた。生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きている」(ガラテヤ2:19-20)と十字架の言葉が神の力となって自分の中に確信となるのだ。勿論ここ迄しなくとも信ずる者は救われるのであるから無理する必要はない。しかし、確信を得たければ自我を突き破る経験が一度は必要だと思うのである。
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by oume-akebono | 2015-10-18 13:26 | 週報メッセージ

(ヤコブの手紙 4章1節)            大谷唯信牧師


「あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。」


 御聖霊は、わたし達が神と出会う前にまず自分の罪の実体、肉の心に出会うように導く。「求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないのか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである」と非常に手厳しくわたし達に迫る。


それはわたし達を愛し、生かし、豊かな命を与えるためである。わたし達には不思議に見えるのだが、神がわたし達一人一人を神の目的のために造られた。故に自分なりにではなく、造り主なる神の自分に対する御心を求めつつ生きるところに、真の人生との出会い、発見があることを教えようとされているのである。


人は皆、自我に支配され自我の中に閉じ込められているにもかかわらず、自我が満たされる時、自由や達成感を感じ、自我が満たされない時、不自由や不満を感じるまでに真実から大きくズレてしまっているのだ。世のもろもろの人間や社会の問題はこのズレが原因であるが、全員でそうなっているため気付かなくなっているのが現実である。


人々は社会、政治、経済、教育の在り方に解決を求めるが、聖書はそれ以前の人間の根本のズレ、即ち、自我とそうさせている罪の支配からの解放を与えようとしているのである。人は何故、罪を犯すのか。罪人だからであると聖書は語る。「二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ」と。即ち、自我の実体を正直に見て自分と直面し、「主のみまえにへりくだれ」と語られるのである。


するとどうなるのか。これが一番大切なのだが、「そうすれば、主はあなたがたを高くして下さるであろう」との約束である。自分で高くするのではない。自分は低いままでよいのだ。高くして下さるのは、神御自身がなさって下さる。だから安心して低くしていくことができるのだ。自分で何とかするのではない。わたしのすることは、神の前に己を低くすること、ここに神の力が働いて下さる。これを体験したなら本物になってくるのである。
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by oume-akebono | 2015-10-11 13:29 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書 4章14節)       大谷唯信牧師


「わたしが与える水を飲む者は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」



 この御言葉はクリスチャンなら誰もが知っている最高の喜び約束です。しかし、意外とこれを自分のものにできていない方が多いのです。何が原因なのでしょうか。それを御言葉で見てみましょう。


「見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。ただ、あなたがたの不義があなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が主の顔をおおったために、お聞きにならないのだ」(イザヤ書59:1-2)。


 わたし達の罪が神の命を止めていると言うのです。それならばその原因の自分の罪を明確に知る必要があります。自分なりに何となく感じている罪ではなくやはり御言葉によって自分の内を照らし自分の現実を正直に見ることです。聖書はどこを見ても罪と救いの事が記されているのですが特に罪を明確にしなければ救いも明確にはならないでしょう。


ローマ人への手紙1~3章は私達が行ってしまうもろもろの罪(複数)を見ることができます。4~8章はそれらの数々の罪を犯させてしまう内面の肉の中に住んでいる罪(単数)について記されています。又、ガラテヤ人への手紙5章の「肉の働き」、マタイによる福音書5~7章の「山上の教え」これはイエス様御自身が語っておられます。


 救いが明確でないのは自分自身の罪の実体を明確にしていないからです。何回読んでも教訓以上にはなりません。自分の罪と直面する時間を取って下さい。悪い思いには勿論ですが、良い思い、良い行いの中にも肉のエゴが入り込んでいます。御聖霊と御言葉の光に照らされ主の前に正直に心を見るのです。


「二心の者どもよ、心を清くせよ。苦しめ、悲しめ、泣け。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えよ。主のみまえにへりくだれ。そうすれば、主は、あなたがたを高くして下さるであろう。」(ヤコブの手紙4:8-10)。パウロの「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。」(ローマ人への手紙7:24)迄、自分に絶望する事です。救いの喜びの深さは自分への絶望の深さに比例します。絶望のどん底で主の十字架を見上げ委ねた時、チェンジします。
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by oume-akebono | 2015-10-04 01:33 | 週報メッセージ