(コロサイ人への手紙 2章12節)           大谷唯信牧師


「あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。」


 本日、第二礼拝にて二人の信仰告白とバプテスマが行われる。これは本人は勿論、教会にとっても大きな喜びである。だがクリスチャンとなったからといって完全な人間になったわけではない。小学生でもイエス・キリストを救い主と信じバプテスマを受けるならクリスチャンとなれる。かといって急に大人になるわけではない。小学生のままであり長所も欠点もそのままである。


どこがちがうのか。外面は同じでも一番肝心な内面の霊のいのちがキリストの霊と一つになって、キリストの命が自分の中に誕生するのである。普通は自分のエゴが心の中心であるが、そこにキリストの命が入りキリストが生きて下さるのである。


だが始めは誰でも霊的には赤ちゃんであることを覚えよう。どんなに社会的経験が豊かであっても霊的には赤ちゃんなのだ。神はこれを育てる場として教会を与えて下さった。教会はゆりかごであり家族であり、学びや訓練の学校である。教会生活を通して成長し、人間としても成長し、本当の意味で神のためにも人のためにも役立つ者とされてくる。


これこそ聖霊の訓練である。霊的成長がそこ迄いっていないのに能力があるとのことで、たとえば公認会計士だからといって教会の財務をしたり、プロの音楽家というので礼拝で演奏したり指導したり…だが、数ヶ月でつまずいたりする。霊ではなくて肉の力でやっているからだ。


肉は人の評価や報いを求める。ほめられたり感謝されたりの人からのねぎらいがないとプライドが傷ついてしまうのである。霊性が幼いから無理ないと思うが、ここで教会に失望し離れたりもする。上に立つ者は仕えるが如くと主は言われたが、常に自分を捨て自分の十字架を負って教会につながり仕えていく中で、人は大きく成長するのである。
[PR]
by oume-akebono | 2015-09-27 09:00 | 週報メッセージ

(詩篇 33篇16-17節)                     大谷唯信牧師


「 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない 」。


 この世はどんなに科学文明が発達し、知識、教養を身につけたとしても、その内面には昔から変わることのない、弱肉強食の醜いエゴが潜んでいる。故に世界の平和、国民一人一人の幸せを願いながらも、それを得る方法となると、相手を殺す力を持つことが、絶対条件となってしまう。武力による抑止力のバランスで平和を造ろうという、昔ながらの発想がある。


 これこそ妄想である。争いの原因は、政治以前の私達一人一人の中にあるエゴという、個人的な問題から来ている。エゴは常に利己心と恐れと不安をもたらす。それを克服するために武力を得ようとする。相手に負けないためである。この発想そのものがエゴの心、エゴの力なのだ。


 エゴは誰でも持っている。どこへ行ってもついてくる。それは自分の心の中にあるからだ。どんなに美しく着飾っても、一流の大学を出ても、エゴが自分を支配している。聖書はこのエゴ-自己中心の心を罪という。即ち、本来の神中心ではなくて、自己中心の姿を言っているのである。心はどんなに磨いても、エゴはエゴ、ガラスをどんなに磨いてもダイヤにはならず、ガラスであるのと同じなのだ。このエゴが隣の人との争いから国際紛争まで起こすのだから恐ろしい。


 今の国会を見ても平和を願い求めながらも、武力によって他を制するため戦争のできる日本にしようとしている。何と愚かな事か。だからイエスは「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」。(ヨハネによる福音書3:3)と語られたのだ。今の国会の姿こそ、我々人間の現実であり実態なのである。国会(人間)からは平和は生まれない。平和を論じはするが造り出す力はない。人間自身が平和でないからである。


 自助能力なしと神は見ておられる。平和は神の側にあるのだ。私達の自我が砕かれ、謙虚にされ神を見上げる時、キリストの十字架の愛と、神の平和が私達の内に注ぎ込まれてはじめて、憎しみや怒り、恐れが愛に変えられるのである。
[PR]
by oume-akebono | 2015-09-20 00:52 | 週報メッセージ

(マルコによる福音書 9章23-24節)       大谷唯信牧師


『「もし、できれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。
「信じます。不信仰なわたしをお助け下さい」。』



 子供の病の癒しを求めた父親は「できるか、できないか」を問題にした。ところがイエスは「信ずるか、信じないか」を問題にしたのだ。


 肉の世界は常に、できるか、できないか、わかるか、わからないかの自分の考えの中での問いであり、自分の理解の中での納得を求めているのだ。この自分の納得こそ自我、肉なのである。
イエスが私達に求めておられるのは、この肉にある自分の現実を認めさせ、それを突き破り、霊の命の世界へ導こうとするものだ。
 

 「もしできれば、と言うのか。信ずる者には、どんな事でもできる」。父親は「信じられないのです」とは言わなかったことに注意すべきであろう。「信じます。不信仰なわたしを、お助けください」であった。誰が信じるのか。わたしである。他の誰かではない。「不信仰なわたしを…」なのだ。不信仰なわれわれ、一般ではない。実に「わたし」なのだ。これが真実に自分と向き合うことであり、現実の自分を見ることになる。「もしできれば、と言うのか」はイエスが父親の不信仰の肉の思いをえぐったのだ。何と苛酷な!とも思える。


しかし、これによって彼は真剣になりイエスと向き合ったのである。同時にそれが自分と向き合うことになったのだ。彼の「信じます!」の叫びこそ、肉の自我を飛び越えて霊の世界へ入り込む入口としての信仰の告白になったのである。わかろうとする者から信ずる者への飛躍である。わかろうとする安全地帯(自我)から飛び出したのだ。


ここでグズグズしている人は多い。「もう少し考えてみよう」等のサタンの声が入ってくるところだからだ。「もう少し確信のある信仰をもってから…」等の声に引きずられる場合もある。信仰はからし種一粒から始まる。信仰の火種さえあれば、キリストはその必要に応じてその時々に信仰を賜物として与えて下さり、教会の交わりの中でキリストを基として愛のうちに育てて下さるのである。
[PR]
by oume-akebono | 2015-09-13 00:46 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 6章10,12節)           大谷唯信牧師

「最後に言う。主にあって強くなりなさい。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである」


私たちは強くなろうではないか。自分でなるのではない。「主にあって」である。主の中で、主と一つとなっての意味である。バプテスマを受けた者はすでに霊的には主と共に死に、主と共によみがえらされているのであるから、これを心で認め信じ「わたしは主と共に強い!」と強く念じ、弱い自分からは目を離し、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、イェスを仰ぎ見つつ、わたし達の参加すべき競争を、耐え忍んで走りぬく」(ヘブル12:1)。これが祈りと信仰になる。


この世でクリスチャンとして歩もうとする時、必ず自分の外からも内からも信仰がゆさぶられるであろう。それほどこの世とわたし達は悪の支配の中に生きているのである。
勿論、キリストはすでに悪魔に勝利しわたし達もその勝利の中におるのであるが悪の霊の働きも聖霊の働きと同じく霊の次元で迫ってわたし達の思いを捕え、それは実に巧妙で合理的なこの世に合う肉の知恵者となっていかにも真実らしく、自分に正直であれば良い等とわかりやすく投げかけてくる。


わかりやすくとは、わたし達自身の中にはまだまだ肉の思い、習慣が残っており、しかも世の中は肉そのもので動いているのであるからつい引き込まれてしまう。すると悪魔は「お前の信仰は本物か?」等と問いかけ信仰をなしくずしにしようと仕掛けてくる。


それ故パウロは「わたし達の戦いは血肉ではなく悪の霊に対する戦いである」と語る。しかし肉の力ではなくキリストとともにある信仰に立つ時、勝利が与えられるのである。それは御言葉と祈りによって主を仰ぎ見る時のみ与えられる信仰による。ペテロ達も肉で戦っている時はいつも失敗していた。ゲッセマネの祈りも眠りこけ「誘惑に陥らないように目を覚まして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」(マタイ26:41)とイェスに言われてしまう。これから私達は御言葉と祈りがあらゆる問題の突破口であることを経験しようではないか。
[PR]
by oume-akebono | 2015-09-07 00:37 | 週報メッセージ