(コリント人への第一の手紙 1:28)       大谷唯信牧師



「神は、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」




教会とされている私達は、互いに無きに等しい者、取るに足らない者の集まりであることを覚えよう。「それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。」と聖書は語る。


サタンは私達の肉に働きかけ、あらゆる状態の中で私達が自分を誇り、神や人に自己主張して自分の栄光を得るように誘導するから気をつけよう。かといって意識して謙虚になろうと努力してなれるものではない。
その努力がもし実って「実に私は誰よりも謙虚になった!」等と思えたとしたらそれは最悪であろう。


謙虚や高慢は他者にはすぐ分かるが本人には自覚できないものだからである。もし自分の高慢さに気付いたならば、そういう自分が情けなく恥ずかしく、まわりの人には申し訳なく身の置きどころがないほど打ち砕かれてしまう方向に導かれるのであって、自分で自分を意識して打ち砕くものではない。その打ち砕かれ情けなく無きに等しい者と自覚している状態を謙虚というのであって、これも意識的に出来るものではないのだ。


意識してなったとすれば、それは謙遜の「振り」と言うものであろう。「振り」をしている人は世の中には沢山いる。しかしそれは、へりくだり高慢と言うものだ。このように自分の心は思いのままにはならないのである。
神の祝福を止め教会や私達の成長を止めるものは、この高慢という罪なのである。


アダムがサタンの誘惑に乗ったのも「神のように目が開く」と言われたことにある。今もこの誘惑は世界中の人々を捕らえ、この世の栄光に目をくらませている。これに気付いているのは神の御言葉に立つ教会だけであろう。心の砕けた教会に神は豊かに御聖霊を注ぎ、わたし達を導き、常に豊かな命を満たして下さる。
今日の3人の信仰告白とバプテスマを与えられている喜びの礼拝の中で、私達も初心に帰って新しく歩み出そうではないか。
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by oume-akebono | 2015-08-30 03:49 | 週報メッセージ

(ヨハネの第一の手紙4:19)    大谷唯信牧師


「わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。」



人が生きるには「互いに愛し合う」、究極はこれしかない。愛こそが命であり、知恵や生きる力です。しかし、私達の愛はなんと弱く、一寸した風にも揺らぐ、ローソクの炎のようではありませんか。命とは愛であり、生きるとは愛し合う事です。私達が生きるという時、独りで生き、独り勝ちを描いているのではないでしょうか。愛する時でさえ自分なりで愛し、自分は孤独の中に身を置いてしまう。自分の身軽さや安全のためでしょうか。いつの間にか独りよがりの殻の中、防衛的で攻撃的にもなりやすくなってしまいます。何故でしょう。


それは自分のための愛だからではないでしょうか。愛は自我から脱皮させ、チャレンジさせる最高のチャンスです。しかし、実際は自分を自分の中に閉じ込めてしまっているのです。一応は平静で自分本位で自由なようですが、心の内は自分にしがみつき、新しい歩みに対しては不安と恐れでいっぱいになります。


このような時こそ、聖書に照らして正直に自分を見てみましょう。愛に生きているつもりが、エゴに生き、自己愛に立っている自分に気づかされるでしょう。「わたしたちが愛し合う」その根拠は自分ではありません。神です。「神がまずわたしたちを愛して下さったからである」と御言葉は語ります。


人と人の関係は互いに愛し合う事ですが、それは同時に互いにゆるし合うことです。その根拠も自分ではありません。神御自身です。聖書は「互いに忍びあい、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。」(コロサイ人への手紙3:13)と教えています。


愛もゆるしも自分を超えた力なのです。自分の中のものでは人間の心は養えません。人間は神に似せて神の霊を受けて生かされる霊的な存在だからです。今の世が乱れているのは、これを知らず、認めず、自分の力のみでやろうとしているからです。同じ生きるなら、自分なりではなく、本当の生き方を求め、愛の根拠を確実にいたしましょう。それは神の独り子イエス・キリストです。
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by oume-akebono | 2015-08-24 15:37 | 週報メッセージ

小学科のキャンプのあと・・・

あけぼの教会にいる中高生のうち7名&スタッフで、


8/3日~4日の一泊二日、千葉の館山に行ってきました~~!!

館山といえば、この春まで教会の相山喜祈・早苗夫妻が喜祈兄の転勤で住んでいたところ・・・。
そしてその時に通っていたのが館山教会です。


そんなご縁で、去年の夏に館山教会のサマーキャンプのお手伝いに、わがあけぼのの中高生と行ったのでした。そして今年も・・・。


さらに人数も増え、パワーアップした(?)7名の女子中高生たち。


この子たちと、今年はさらに人数の増えた館山教会のサマーキャンプのお手伝いに行ってきました!
(お手伝いというのもありますが、なんてったって海遊びができるのが嬉しい!これも目的のひとつです)



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海で遊んで、市内観光して、お土産を買って、夜はビーチで花火を楽しんで、
朝は寝起きに浜辺で波の音を聴きながらディボーション、そして35人の子供達のキャンプサポート、その中での証しもあったり・・・と、ギュギュギュッと濃厚な2日間でした。


行きたかった気持ちを祈りの中で抑えて、受験の準備のためにお留守番組にまわった仲間もいました。その仲間の思いも携えてのキャンプ、子供達の心にはそれぞれ、様々な祈りと新しい課題も与えられたことと思います。


神様の造られたきれいな海に感謝!!


たくさんの素晴らしい出会いがあったことに感謝!!
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by oume-akebono | 2015-08-17 19:24 | CS(教会学校)便り

こんにちは!教会学校です。

の報告をします!


今年度のキャンプは7/23㈭~25㈯に、あけぼの幼稚園園舎にて行われました。

今年のキャンプのテーマは

「愛すること ゆるすこと」

行うのに難しいテーマです。


そして与えられた御言葉は


コロサイの信徒への手紙3章13~14節。




「たがいに忍びあい、責めるべきことがあっても赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これら全てに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。」





このテーマのもとに、36人の子供達が参加しました!


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暗証聖句の発表、たっくさんのゲーム、さんびいーーっぱい、メッセージ、
わかちあい、水遊び、流しそうめん、などなど・・・盛りだくさんの3日間でした!



とても暑い3日間を、神様が守ってくださり、どこを見ても笑顔があふれる、
とても楽しいキャンプでした!


感謝!!
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:57 | CS(教会学校)便り

(ガラテヤ5:13)      大谷唯信牧師



「あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい」
 


 この世の人はすべて肉の力で仕事をし、子育てをし、互いに愛し合うことすら肉の力でやっている。それしか知らないから無理はない。肉の力とは自分の能力、力、努力、真面目、責任感、一生懸命、忍耐等々で取り組んでいる事だ。それぞれは良い事ばかりであるがこれが問題なのである。


自分の能力、自分の知識、自分の努力、自分の成果と自分の力でありすべてが自分に属している。つまり自己中心なのだ。人を助ける、人を愛する事さえ自分がやっている自己意識である。どんなに善意でやっている事でも順調にうまくいっている時は良いものだ。嬉しい。


しかしうまくいかなくなったらどうだろう。自己中心の本質はエゴ、「肉の働き」が頭をもたげてくる。一生懸命やった人ほど激しく肉の働きが自分の中から湧き起こるのである。誰もが皆、持っているものだ。ただ、我慢、忍耐で押え込んでいるだけである。限界が来ると切れるのだ。それなりの見返り、報酬でバランスが取れているだけである。


金銭的な見返り、精神的な見返り、これがなければ自己中心は肉の力が発動され振り回されることになるのである。肉の働きとは聖書によると「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、およびそのたぐいである」(ガラテヤ5:19-21)と語る。


国の内閣、政治、行政、又企業の動き等々、実に「肉の働き」そのものが見えるではないか。これは政治、経済、教育の次元では解決できない。エゴでは平和一つできないのだ。数千年前と何も変わらない。どんなに崇高な談話が語られても肉の領域は出ない。言葉遊びの繰り返しである。肉に対するものは何か。神の御霊である。「御霊によって歩きなさい。そうすれば肉の欲を満たす事はない」。私たちはこれを深めていこうではないか。
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:23 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙6:3)    大谷唯信牧師



「それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたし達は彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。」
 


 パウロはバプテスマを受けた者達へ、そこに含まれている意味とわたし達が思いもよらない程の尊い神の御業がなされている秘儀を語っているのである。
 パウロはこれを非常に激しい口調で「それとも、あなたがたは知らないのか…」と切り込んでいる。それは自分の受けたバプテスマを単なるセレモニーとして過去の思い出ぐらいに見ていることが分かったからである。私達もそんなことになってはいないだろうか。信仰の世界はその意味の深さと価値の尊さを知るか知らないかでは、その得るところは100倍も1000倍も違ってくるのである。
 

 このバプテスマは「キリストの死にあずかる」「キリストと共に葬られた」「それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたし達もまた、新しいいのちに生きるため」「わたし達の古き人はキリストと共に十字架につけられた」「それは、この罪のからだが滅び、わたし達がもはや、罪の奴隷となることがないため」「すでに死んだ者は、罪から解放されている」、それ故に「あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを認むべきである」と語っている。
 

 初代教会誕生とその活動が爆発的に展開された時は人間的に見れば最悪であった。イエスは十字架で殺され、弟子達も迫害の恐れの中で、死の恐怖に自尊心も信仰も砕かれ一室に閉じこもっているだけであったのだ。世の人の求める力も魅力もなく惨めな状態であった。真っ暗な失意のどん底に留まるしかなかったのである。
 

 教会はここから始まったことを覚えようではないか。一人一人のわたし達がイエスの十字架の死をこの身に帯びて、主のために自分が今示されているところは何か、常に問いかけ祈り、新しく出発するのである。
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:20 | 週報メッセージ

8月2日  御霊によって

(ガラテヤ人への手紙5:16)   大谷唯信牧師



「御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。」
 


 信仰は霊的出来事なのだ。それなのに肉の力で維持するとなるとこれは苦しい事になろう。自分の調子の良い時、気分が乗った時には快調で、どんな奉仕も生き生きと楽しくできる。クリスチャンになって良かったとも思う。自分が肉の力でやっている等とは到底思えない。何故なら労する事そのものが感謝であるからだ。


しかし、自分の力の限度を超えて来ると肉の部分が悲鳴を上げてくる。霊的にはまだ幼く力がないからだ。しかしこれは嘆く事ではない。こういう現実を通して肉が自覚され、イエスの十字架の贖いの深みに導かれるからである。クリスチャンになった途端に完全になるわけではない。確かに永遠の命の世界に入れられ、救われた事はゆるぎのない事実である。しかしまだまだ未熟であり霊的には赤ちゃんである。


パウロはコリント教会の人達に語っている。「わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話す事が出来ず、むしろ肉に属する者、即ち、キリストにある幼な子に話す様に話した。食べる力がなかったからである。今になってもその力がない」(コリントⅠ3:1-2)


何かトラブルが起きると傷ついたり、腹が立ったりするものだ。その部分がまだ肉である証拠なのである。この肉への気づきが十字架のキリストに向き合わせ成長するチャンスとなるのだが、自分の悲しみの内に閉じこもりここで止まってしまう人は意外と多い。「あなたがたの間に、ねたみや争いがあるのは、あなたがたが肉の人であって、普通の人間のように歩いているためではないか」(コリントⅠ3:3)とパウロは語る。即ち、相手の問題ではなく、自分の肉の問題なのである。自分の肉が見えたら後は早い「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけて」(ガラテヤ5:24)しまうことができるからである。肉を捨て、霊に生きようと決めることだ。そうすれば聖霊が働いてくださるのである。
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:17 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 6:4)    大谷唯信牧師



「 わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、…わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」



「救われるためにはどうしたらよいのでしょうか」の問いは、聖霊によって心が動かされた者の共通した問いである。バプテスマを軽視してはならない。与えられた信仰をバプテスマと言う形で表す。心で信じ口で告白するのと同じくバプテスマは信仰告白である。
即ち、「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。」(ロマ10:9)のである。


時に他の教会で、救われるのはイエスを信じる信仰によるのであってバプテスマで救われるのではないから受ける必要はないのでは?との質問が出た事がある。信仰は内面の問題であるから形のバプテスマ式は不要と言うのだ。とんでもない間違いである。
このような自分の考え、自分なりの信仰では意味がない。信仰によってバプテスマを受ける事こそ「自分を捨てイエスの十字架の命を受け取ります」との信仰告白なのである。


今、夏のサマーキャンプが行われている。3日間行われるが、教会学校の生徒が36人出席している。「愛することゆるすこと」と題して聖書を学びつつ3日間の楽しい生活をする。子どもたちがしっかりと神様の愛にふれ、神様に生かされ選ばれている事を知って強く豊かな心で生きて欲しいと願っているからである。教師やスタッフ、食事作りの女性会の方々等多くの方々の奉仕で進められている。本当に感謝な事だ。私達は主イエスからこの世に対し、「地の塩」「世の光」として務めを与えられている。信仰の継承がなされなければそれも出来なくなってしまうだろう。この乱れた社会に対応するためにも私達教会が真剣になって、子供達への信仰の継承に取り組まねばならないと思う。一人でも多くの子供達が新しい生命を受け、神様の子として世に出ていく事を応援しなければならない。
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:13 | 週報メッセージ

(使徒行伝 3:6)        大谷唯信牧師



「 金銀はわたしには無い。 しかし、わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい 」。



ペテロは信仰によって完全にキリストの側に立っているのだ。自分の側にいてキリストに願っているのではない。自分の力を強くしていただいて、その力でというのでもない。自分の力が強いとか弱いとかはもう関係ない。ただ信仰によってキリストの側に立って行動しているのである。


信仰によってとは、一見信仰深そうに振る舞うことではない。自分を捨ててキリストの側に立って世の中を見、自分の生活を見、御聖霊の導きに応答することである。
これが今の私達、私達の教会に投げかけられている上からの課題ではなかろうか。信仰とは常に自分の習慣、自分の殻を破っていくきっかけを与えるものだ。これに従う時、新しい世界が広がっているのを見るのである。肉は安住と惰性を生み、信仰に生きていると思いながらも、命の泉は涸れてくるので気を付けねばならない。


主の御声に肉は抵抗するものだ。肉の声を振り捨てて、主の御声に嫌でも従ってみなければならない時がある。それは大きな出来事ではない。日常の小さな事、どちらでもよいと思える小さな事から、心が主から離れていく事をサタンは知っている。気を付けよう。


肉の中にいると信仰に立つ事がしんどくなるのである。誰もがそうである。そういう中にキリストの御声がかかってくる。「沖へ出て網を下ろしなさい」と。思わずペテロは「わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした」と言ってしまう。しかし、「お言葉ですから、網を下ろしてみましょう」。と、その通りにしたところ、おびただしい魚の群れが入って網が破れそうになった、と聖書は語る。


ペテロは肉からキリストの側に立ったのである。漁は自分の仕事であった。イエスの名によって仕事に向かった時、全く新しいものが生まれてくるのである。
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by oume-akebono | 2015-08-17 18:10 | 週報メッセージ