(Ⅱコリント5:17)       大谷唯信牧師



「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は神から出ている。」
 


「古いものが過ぎ去った。すべてが新しくなった」とある。これは私達の過去の罪からの救いというだけの事ではない。「古いもの」とはアダムによってこの世に罪が入り罪に支配されている死の世界の事であり、「新しくなった」とはイエス・キリストの十字架の死と復活によりすべてが新しくされた神の命に支配されている世界の事である。


過去から現在という時間的な面を見るならば、これは永遠である。「キリストは多くの罪のために一つの永遠のいけにえをささげた後、神の右に座し…彼は一つのささげ物によって、きよめられた者たちを永遠に全うされた」(ヘブル10:12-14)とある。つまり全人類はすでに永遠の救いの領域に入れられており、その救いを行いではなく信仰によって受け入れるならば誰もが救われるようにその道は完全に備えられ完了しているという事だ。


イエス・キリストが十字架上で息を引き取られる最後に発した言葉は「すべてが完了した」(ヨハネ19:30)であった。罪の償いはすべてわたしが支払ったという意味である。当時の領収書には「すべてが完了した」というこの言葉が印とされ大きく押されていたと言う。さらに御言葉は「神の御旨に基きただ一度イエス・キリストのからだがささげられたことによって、わたし達はきよめられたのである」(ヘブル10:10)と語る。


しかし、私達が罪を犯さなくなったり神のように清くなったりしたのではない。私達は相変わらず罪を犯す弱い存在だ。それなのに「誰でもキリストにあるならばその人は新しく」とある。キリストにあるとはキリストを信じる信仰によってキリストの中に入れられているという事だ。だから「こう言うわけで、私達はイエスの血によって、はばかることなく聖所に入ることができる。…信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこう」(ヘブル10:19,22)と主は語られる。驚くべき恵みではないか。しかもすべてこれらの事は神から出ているのである。
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by oume-akebono | 2015-07-14 18:23 | 週報メッセージ

(ローマ3:23)       大谷唯信牧師



「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており・・・」
 


この世では人が罪を犯せば罪人と言うが聖書は人は罪人だから罪を犯すと語る。すべての人がすでに罪人なのである。例外はない。罪には強烈な力があり、どんなに強い意志で打ち負かそうとしても、もっと強く私達の中に入り込み私達を支配するまでになる。私達はこの内なる罪の働きを軽く見てはならない。罪は私達の良心を麻痺させあらゆる悪に向かう力となって私達の中に住むのである。すると「あらゆる不義と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となる」(ローマ1:29-31)のである。


特に心配なのは中高生であり、それをかこむ親や教師である。罪に対する無知、無関心が互いに問題を引き起こし、原因に気づかず表面的な心理分析程度で終わるのが現状である。イェスの伝道開始の一声は 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」(マルコ1:15)であった。悔い改めとは罪を認めて悔い、自分中心を神中心の生活に切り換える事である。 その決意には御聖霊が働いて下さり、私達を生きる者としてくださる。 罪の自覚は大きいほどよい。罪自覚は大切だ。罪の自覚なしには救いはないからである。


パウロは罪と向き合い「欲している善はしないで、欲していない悪は、これをする」と嘆き、「わたしは何とみじめな人間なのか!」と叫んだ。この時、キリストはパウロを罪から解放したのである。
 二千年前の十字架の出来事は聖霊の助けによって今の出来事として私達に示されるであろう。聖霊の助けを信じる事だ。十字架の救いはすでに与えられている。どうしてもわからない時、わかろうとするのではなくて、「主よ、わたしの力ではどうにもなりません」とそのままを祈るのがよい。聖霊に依り頼みつつ自分の無力の中から主を信じる信仰に委ねるのである。
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by oume-akebono | 2015-07-07 14:08 | 週報メッセージ