(マルコによる福音書 5:35-36)      大谷唯信牧師


「あなたの娘はなくなりました。このうえ、先生を煩わすには及びますまい」。
イエスはその話している言葉を聞き流して、会堂司に言われた、「恐れることはない。ただ信じなさい」。




 娘の死を知らされた父親がいる。会堂司ヤイロであった。娘をなおして頂くためにイエスをお連れする途中の事だ。


 私達ならどうするだろう。死という動かす事の出来ない重い現実を悲しみ嘆きながらも、受け入れざるを得ないと思う。人間がどんなに願っても泣き叫んでもどうにもならない現実、現代の知恵も力も死に対しては全くの無力なのである。この世がどんな力を誇っても、独裁者であっても、死に対しては無力であろう。
この無力を当然の常識として人々は受け入れ生活している。


 しかし神はこの無力なこの世の常識に囚われている私達に、それを超えた命の世界をイエスを通して得させようとしているのだ。そのイエスは死の宣告を耳にした時どうしたのか。「イエスはその言葉を聞き流して」とある。普通なら、この言葉だけは聞き流せないはずだ。こんな深刻な、しかも病人のために行こうとしていたのに、一番肝心な事ではないのか。

 イエスは何も感じていないのだろうか。肉である私達はどんなにあがいても肉でしかない。イエスは霊の世界の方であるのだ。突然イエスは悲しみ惑う人々に向かって「恐れるな」と言われた。肉の世界に霊の世界が突入してきたのだ。「ただ信じなさい。」と。


 ただ信じるとはどういうことか。私達はすぐそう考えてしまう。ただ信じるとは「ただ信じる」ことだ。
霊の世界を受け取るには「ただ信じる」のだ。
他には何もない。何の理由も根拠もない。
「ただイエスを信じる」信仰だけである。


イエスに関する知識や神学でイエスに「押し迫る者」であっても、それがどんなに深い理解であっても、実際にはイエスに触れていないのだ。そこでイエスは会堂司の家に入る時、ペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて信仰の戦いに挑んだのである。
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by oume-akebono | 2015-06-29 12:11 | 週報メッセージ

6月20日!
なんと前日まで降っていた雨が上がりました~!感謝!
いよいよ楽しみにしていたピザ作り!


まずはその前に、礼拝堂に集まってお祈りと賛美から♪♪

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その後準備してあったピザ生地を伸ばしたり~トッピングしたり~~!

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その後釜に移動・・20枚焼きました!

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赤ちゃんも大谷牧師先生にだっこされてにこにこしてました。

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焼きたてのピザって最高に美味しい!
たくさんの笑顔があふれた一日になりました!

次回イベントは8月。今度は卓球大会です!お楽しみに!
イベントは隔月で開催されます。小学5年生以上の参加をお待ちしてます!
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by oume-akebono | 2015-06-23 07:44 | J-Switch

(ローマ人への手紙 8:26)    大谷唯信牧師



「…わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さる…」



御聖霊は失意のどん底にいた弟子たちと約120名の者たちの上にイエスの約束通り注がれました。そこに教会が誕生し、世界宣教への目覚ましい歩みが始まったのです。これらは全て神の御計画であり、弟子たちを用いての御聖霊の働きであることがわかります。見えるところは弟子たちの働きですが、それを動かし導いておられるのは御聖霊でした。


この御聖霊の働きは、現在の教会、そして私達の教会にも働き続けておられます。聖書で語られている出来事、御言葉には永遠の普遍的な神の命の原理、原則が隠されておりますが、私達も御聖霊に導かれ、信仰を持って取り組まなければ、御言葉は単なる文字、出来事は過去の出来事となってしまい何の力にもなりません。


しかし、信仰を持って取り組むならば、小さな信仰であっても御言葉は神の力となります。御聖霊が助けて下さるからです。ペンテコステ以来、御聖霊は今や全世界をおおっておられます。この世は不毛の地でありましょう。しかし御言葉によるならば、この世にあっても、「神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、」(エペソ人への手紙1:3)とあります。


私たちはそれを感じませんが、自分の最も深いところに神の御霊がすでに与えられているということなのです。これはわからなくても感じなくても、神の言葉として信仰によって認め受け入れるならば、御聖霊が働かれ、見なくとも信ずる信仰を与えて下さるのです。「…神の言を取りなさい。絶えず祈りと願いをし、どんな時にも御霊によって祈り・・・」。(エペソ人への手紙6:17-18)とあります。


自分の感覚、理解の中ではすぐに行き止まりです。御言葉と御霊によって祈りましょう。どう祈ったらよいかわからない時こそ、御霊に願って祈りましょう。御聖霊がとりなしてくださいます。ペンテコステは今も続いています。すでに私たちの奥に御霊が住んでおられることを信じて、静かに祈り続けて下さい。
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by oume-akebono | 2015-06-23 07:19 | 週報メッセージ

今週末の6月20日(土)に行われる教会学校の中高生中心の学び「J-Switch」のスペシャルイベントに向けて、今日14日の午後は、手作りピザのリハーサルが教会学校のスタッフを中心に行われました。

まずはピザを焼くために、教会の片隅に設置した炉に炭火を熾し余熱します。
キッチンでは、ピザの生地作りとトッピングの準備。
せっかくだからと、一緒に焼くジャガイモやバナナを調達する人も…。
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余熱が終わった炉に手作りのピザを投入し、焼き上げます。
この焼き上がり!
思わずみんなから歓声が!
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結局、教会に残っていた兄弟姉妹がみんな集まって、賑やかに試食会!!
手作りピザも、集まってきたみんなのためにたくさん追加しました。
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20日の本番が楽しみです。
神様が、天候を整えて下さいますように!
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by oume-akebono | 2015-06-15 01:27 | 教会あれこれ♪

(コリント人への第二の手紙  5:16)            大谷唯信牧師

「それだから、わたし達は今後、誰をも肉(外見)によって知ることはすまい。
かつてはキリストを肉(外見)によって知っていたとしても、今はもうそのような知り方をすまい。」



 パウロは肉によってイエスを知った時どうしたのでしょう。誰よりも激しくイエスとその弟子達、信者たちを苦しめ迫害したのでした。それがどうして命がけでキリストの福音を宣べ伝える者となったのでしょう。この驚くべき変化は何故起きたのでしょうか。それはイエスの外側の肉ではなく、内側の命、霊的実態に触れたからです。

 「神は霊であるから礼拝する者も霊とまことをもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)とイエスは言われました。わたし達も神の霊によって造られています。ということは、わたし達も互いに霊とまごころをもってかかわらないと真実の出会いにはならないのです。

 この世ではいろいろな事件が起きていますが、霊とまことのかかわりを知らないからです。それは自分に対しても霊とまことをもって向き合わず、自分を外側からしか見ず、自分なりの無難な殻の中に閉じ込もってどこか自分を捨てているからではないでしょうか。


 霊とまことを尽くして出会っていくとはどういうことかわかりますか。あの12年間も病で苦しんでいた貧しい女性が必死になって群衆の中を押し分けイエスに触れましたが、その求めた姿に見ることができます。その時は多くの人々が肩を押し合い「押し迫っていた」のです。


 彼女は人の流れにもまれながらもやっとのことでイエスのそばにたどり着き、せめて後ろからみ衣にさわっただけでも治していただけるものと思いさわったのでした。その瞬間、彼女自身が病が治ったことを身に感じたのでした。彼女は12年間も苦しんだ病があったからこそ、霊とまことをもって主を求めたのです。イエスに対しても自分に対しても見物人や群衆の一人にはなれませんでした。


 パウロもそうです。それは痛みがあったからこそ霊とまことをもって生きようとしていたからです。この世は見物人や群衆の流れです。あなたはどこにいるのでしょう。
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by oume-akebono | 2015-06-15 00:44 | 週報メッセージ

(使徒行伝 1:14)     大谷唯信牧師



「彼らはみな、兄弟たちと共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた。」
 


使徒行伝は聖霊行伝とも言われています。使徒の働きを導いておられるのは正に聖霊御自身だからです。主役は聖霊なのです。聖霊が教会を誕生させ、使徒の働きを導かれました。イエスが招天され残された弟子達は約120人の方々とどんなに不安で心細かった事でしょう。


確かにいくつかの言葉をいただきました。「エルサレムから離れない父の約束を待つこと、聖霊がくだる時、力を受けてわたしの証人となる」と言うことでした。だからと言って彼らはこの世に対してどうしたらよいのか見当もつかなかったのです。この世に対しては全くの無力と恐れを感じていたのではないでしょうか。


考えてみて下さい。この状況は私達とこの世の関係に似ているのではないでしょうか。今も同じで「あなたがたは、わたしの証人となるであろう」と言われているのです。
しかし弟子達は最高の武器で前進しました。「彼らはみな・・・共に、心を合わせて、ひたすら祈をしていた」であります。「みな」「共に」「心を合わせて」「ひたすら」「祈り」をしていたのです。また、聖霊がくだったその時も「五旬節の日が来て、みんなの者が一緒に集まっていると」(使徒2:1)とあります。


一人ひとり祈ることはもちろん大切ですが「共に」「心を合わせて」「ひたすら」「祈る」ことの大切さが示されているのではないでしょうか。私達を簡単に「分かっているよ!」と思いますが本当でしょうか。迫害とまではなくともちょっと困難にぶつかった時はどうでしょう。弟子達は「主よ、今、彼らの脅迫に目をとめ僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい・・・しるしと奇跡とを行わせて下さい、彼らが祈り終えると、その集まっていた場所が揺れ動き、一同は聖霊に満たされ、大胆に神の言葉を語り出した」(使徒4:29-31)とあります。


教会の祈りは聖霊を動かします。「わたし達はどう祈ったらよいかわからないが聖霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもってわたし達のためにとりなして下さるのです。」(ロマ8:26)礼拝出席の三分の一は祈祷会に必要です。これからは祈りの武器を持つ教会となるべきではないでしょうか。
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by oume-akebono | 2015-06-10 12:33 | 週報メッセージ

(Ⅰヨハネ 3:18)    大谷唯信牧師



「わたし達は言葉や口先きだけで愛するのではなく、行いと真実とをもって愛し合おうではないか」



青梅市には六つの私立幼稚園からなる青梅私立幼稚園父母会連合会があり、今年の年間活動のテーマが「日々新しく 出会って行こう 子供と家庭」とされました。実に今の時代、日々の切実な課題でありましょう。すでに十数年前にもなりますが、ある統計で中学生の親との対話の一日平均の時間は2分とされていました。言葉だけでもこの程度とするなら出会いとなるとどうでありましょう。


毎日、顔は見て会ってはいるものの本当に出会っているのでしょうか。しかも日々新しくです。私達の教会には何人もの赤ちゃんや子ども達が沢山います。小学生ともなると礼拝後4時、5時になってもサッカーや遊びに夢中になって家に帰りたがりません。上級生のお兄さん、お姉さん達とそれぞれ遊んだりおしゃべりしたりする楽しい時なのですが、お母さん方も当然それを待ちつつ楽しい交わりの時となります。特に赤ちゃんは一週間振りに会う中でも大きく成長し変化しているので「笑ったネ!寝返りができるんだ!お話上手ネ!」と皆が声をかけ喜び合っています。これが毎週日曜日の午後の教会のあけぼのファミリーの光景です。
 

先週、幼稚園卒園生の保護者友の会で一人の方が「わたしはこの前の母の日で久し振りに子供について礼拝に出たのですが、一つ気づいたのは、自分の生活にこのような心について考える時間が何もないのではないか、と言うことでした。これからは出来るだけ礼拝に出ようと思います」と、自分の思いを語って下さいました。実に今の時代に必要な言葉であると思います。
 

ある御婦人が言いました。「わたしの主人は一つの島のようです。私は登りたいのですが、そのまわりをボートでグルグルまわるのですが登り口がないのです」と。互いがこんな事になっていないでしょうか。互いに愛し合っているのに肝心な所は少しもふれ合ってはいないようです。本当の出会いはどうしたら得られるのでしょうか。
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by oume-akebono | 2015-06-04 09:58 | 週報メッセージ