(使徒行伝 2:37)     大谷唯信牧師



「人々はこれを聞いて、強く心を刺され、ペテロやほかの使徒たちに、『兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか』と言った。



ペンテコステの時、聖霊に満たされペテロの語った言葉を聞いた人々の叫びであった。誰でも神からの御言葉が心の奥にある霊にまで届くと、このような反応が起きるのである。勿論、それを自分の心で打ち消したり否定する事はできるであろう。しかし自分の自我の心を破り真実の自己に立ち帰るには、またとないチャンスでもあるのだ。


聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであるから絶対に間違いはない。読む者も、霊と真を尽くして読むべきなのである。即ち、疑ったり批判的な心で読むのではなく、受胎告知を受けた時の処女マリヤのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身に成りますように」(ルカ1:38)との思いで読み、主に向き合うのである。


ペテロはまず「悔い改めなさい」と言った。これは今迄、神を知らず自分中心で生きていた罪を悔い、これからは神を心に受け入れ、神を中心に生きていく決意を言うのである。そして次に「あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によって、バプテスマを受けなさい。」と言われる。これはキリストの十字架に死と復活を表し、これを受けることによって、わたし達もキリストの十字架の死と復活にあずかる者とされることを語っているのである。もし、これを受けるならば、賜物として与えられる聖霊によってキリストの十字架の死と復活の恵みが与えられ、私達は神の子、神の家族とされるのである。


「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。」(Ⅱコリント5:17-18)
私達は日々新たに生きようではないか。それは日々自分に死ぬことである。死ねば主が生かして下さる。自分で生かそうとするから不安が出る。マリヤは捨て身に生きたことを覚えよう。
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by oume-akebono | 2015-05-24 12:17 | 週報メッセージ

(ヘブル人への手紙 12:2)    大谷唯信牧師


「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、・・・信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」



御言葉は個人にではなく教会に与えられている。神は御聖霊を弟子たちに注がれ教会を誕生させ、イエスの十字架の福音とその宣教をこの教会に託された。教会がこの世に主の証人として立てられていくのは、神の御心なのである。私達はこの世にあってどのような時も教会として、キリストのからだとして立つことを覚えよう。


この世はアダム以来、サタンの支配の中にあり、たとえキリスト者になろうとも、肉に働きかけ、罪の奴隷とするため、常に誘惑してくる。その誘いは巧妙でタイミングも抜群に良く、理路整然と合理的なもっともらしい正論を以って語りかける。家族のため、仕事のため、…のためと、あたかも荒野に於けるイエスを誘惑するように優しく、鋭く迫ってくる。


特に主に用いられている人、また、用いられたいと願っている人が狙われるのである。
まだクリスチャンでもない人でも、ただ静観しているだけなら何事もないが、いざ信仰が呼び覚まされて真剣に求めるべきとの思いが出てくると、これは聖霊の導きであるが、その途端、サタンはそうはさせまいと働きかけ、もっともらしく邪魔を入れてくるのである。


サタンは個人は恐れないが、教会は恐れる。私達以上に教会が持つキリストの権威と力を知っているからである。サタンは常に教会から私達を引き離し、個人個人を独りぼっちにさせようと、躍起になっている。まずいろいろな事情で、礼拝や教会の集会に出られないようにする。互いの欠点を探して不信感を起こさせたり、とにかく手段を選ばずに心を乱すのである。


私達はすべての事を個人ではなく教会の出来事、信仰の出来事として取り組もう、というのはこれに打ち勝つためである。信仰の導き手であり、その完成者であるイエスを仰ぎ見るのだ。即ち、この御言葉をもって主に祈り、主の御声に心の耳を傾け、主の御心に聞いてほしいのである。
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by oume-akebono | 2015-05-18 12:36 | 週報メッセージ

(ルカ10:40)    大谷唯信牧師



「ところが、マルタは接待のことで忙しくて心をとりみだし、『主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください。』」



仲の良いマルタとマリヤの姉妹がイエスを家にお迎えしおもてなしをするという最高の喜びの日の出来事である。
ここに当人は意識してはいないだろうが人間同士の「いじめ」の構造がある。
二人ともイエスを心からお迎えしたい気持ちでいっぱいなのだ。マルタは最高のものをお出ししたいとお料理の準備に必死で取り組んでいる姿が見えてくる。マリヤはイエスの足もとに座って御言葉に聞き入っている。これが前もっての二人の役割分担であったのか、自然の流れでそうなったのか。実はそれはどちらでもよいのだ。大切なのは現実に今そうなっていることなのだ。


マルタはその現実を受け入れなかった。何故なら自分は忙しく働いているのにただ座っているマリヤは間違っていると判断したからである。つまり黒、白の決着をつけて裁いたのだ。もしかしてマリヤもマルタと同じように、イエスを心からお迎えしようとして主の御もとに座っていたのかも知れないのに…。マルタはまったくマリヤの心遣いに気付かなかった。気付こうとする心もなかったであろう。「自分が正しい」という前提のフィルターで見ているからである。


自分が正しいと思うからいら立ち怒りが出る。すでに裁いているからだ。ついにイエスにまで、文句を言って怒りをぶつけている。何のためのおもてなしなのか。結局、マルタは自分の満足のためではないのか。私達の夫婦、親子、人とのかかわりはこのレベルが多い。これがいじめ、争い、やがては戦争にまでなる元凶ではないか。アダム以来、人は裁くことしかできない。しかしイエスは裁いてはいない。怒ってもいない。マルタよ、マルタよと愛をもって呼びかけ、一番大切なものを示し悟しているのである。もう私達も裁くのはやめよう。イエスの名によって託し愛し合うことを学ぼうではないか。
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by oume-akebono | 2015-05-11 12:55 | 週報メッセージ

(ヘブル11:8)    大谷唯信牧師



「アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った」



2015年、新年度を迎え早くも5月を迎えた。国も社会も混迷する中でさらなる道を求め右往左往しているのはいつの時代も同じである。しかし、私達は神の救いの恵みに授かっている。その歩む指針として神の御言葉と教会が与えられその交わりの中で日々新たに歩めるとは何と感謝な事であろうか。
私達はこの世に有りながら主に従う事によってこの世の罪に溺れるどころか、一人ひとりが「世の光」、「地の塩」として世に光り輝き、塩としての深い味わいを出す者として召し出されているのである。


そのために主は私達教会に御言葉と御聖霊を与えて下さった。冒頭の御言葉は、アブラハムが主の招きの促しを心に受けた時、「行く先を知らないで」とは、それがその後、どうすれば良いのかもわからないのだが、信じて、御心に従ったと言う事である。
御言葉と御聖霊は信じた時に神の力となるのである。


パウロも自分の経験として「十字架の言は滅び行く者には愚かであるが、救いにあずかるわたしたちには、神の力である」(Ⅰコリント1:18)と証ししている。


それでは、神の力となる御言葉への取り組みとはどのようにしたらよいのだろうか。
御言葉はすべて信仰の言葉である。「神は霊であるから、礼拝する者も霊と真をもって礼拝すべきである」(ヨハネ4:24)とイェスが言われたと同じく御言葉も単なる言葉ではなく「信仰の言葉」であるから受ける者も信仰の言葉として受けるべきなのである。即ち、「すぐ実行してみよう」とか「出来る、出来ない」と思うのではなく、信仰によって「この御言葉がわたしの中で実現されますように」と願い信じて主に委ねるのである。自分の理性や力で行うとそれは信仰による義とはならず、自分の行いの義で得ようとする事になり、イスラエルの民と同じで必ず失敗する事になる。イェスへの信仰に主は働かれるのである。
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by oume-akebono | 2015-05-05 10:18 | 週報メッセージ

ふだんの教会学校

こんにちは!

今日はふだんの教会学校の写真を紹介しますね!

あけぼの教会学校(CS)は、毎週日曜日の午前9:30~10:30に
幼稚園園舎2Fのホールにて行われてます。


小学科・中高科の子供たちがたくさん集まって
ゲーム賛美をしたり、教会学校の先生がお話してくれる聖書のメッセージを聞きます。
そしてそのあとは学年ごとに分かれて、さらに先生と一緒にイエスさまのことを知るのです。


これは最初に賛美をしているところ。



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毎週みんなでいろいろな賛美をします。
踊りながら歌う賛美もあって、あけぼの教会にはそのためのダンスチームもあるんです(^^)



そしてそのあとはメッセージの時間。


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毎週その日にお話しするテーマがあって、教会学校の先生が順番にお話ししてくれます。
話を聞くみんなも真剣!





あっという間の1時間です。
楽しい教会学校、ぜひぜひ来てくださいね。
保護者の皆様、お子さんをぜひ教会学校に送りだして下さい。
そして待つ間、同じ時間に礼拝堂にて礼拝が行われています。

自分を見つめ直す素晴らしい時となりますので、ぜひお越しください。
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by oume-akebono | 2015-05-01 10:35 | CS(教会学校)便り