(コロサイ人への手紙 2:13)   大谷唯信牧師



「あなたがたは、先には罪の中にあり、死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。 」



何と素晴らしいことか。これが私達に与えられた神からの恵みである。神は、私達が独り子イエスを信じるその信仰を、告白とバプテスマによって表した時、御聖霊が私達の内に入り、死んでいた私達の霊を生きる者として下さったのである。聖書に「キリストが自分のところに来たのに、世は彼を知らずにいた。自分の民は彼を受け入れなかった」(ヨハネ1:10)とあるが、それはアダム以来、現在も同じである。すべての人の中にアダムが受け継がれているのだ。即ち、この世は創造主なるキリストの神だけは嫌いなのである。自分なりの神や人間の造った宗教は好きなのだが…。


聖書に「肉の思いは神に敵する」(ローマ8:9)とある通りである。現代人はキリストの神ではなく、自然や宇宙、それらを動かし支配している普遍や愛を「何となくの神」としたり、神学や知識を神とする。要するに束縛されず自分の思い通りの自由な愛の中で安定した生活ができるという、これこそニューエイジ的考え方でサタンの巧妙な罠である。


聖書は、「彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、その思いは空しくなり…」と語っている。だからこそ「あなたがたは、肉における残りの生涯を、もはや人間の欲情によらず、神の御旨によって過ごしなさい。今迄は好みにまかせて、好色、欲情、酔酒、宴楽、暴飲、気ままな偶像礼拝などにふけってきたが、もうそれで十分であろう」(ペテロⅠ4:2-3)と語っておられる。
私達は主に対して日々の心を整えようではないか。それは大きな事ではなく、日常の夫や妻や子供、まわりの人に対しての「怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る悪い言葉を捨ててしまいなさい」(コロサイ3:8)から始めよう。


まず自分の家庭をキリストの愛があふれる家庭にしようではないか。自分の力ではなく、御聖霊の助けで歩むのだ。必ず御霊の実が与えられるからである。
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by oume-akebono | 2015-04-29 18:28 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙 10:3)   大谷唯信牧師



「・・・彼らは神の義を知らないで、自分の義を立てようと努め、神の義に従わなかったからである。」


ユダヤ人は神に律法を与えられたが、救いを得るに至らなかった。彼らの神に対する熱心は他に比べようもないものであったのだがとパウロも証言している。パウロも彼ら以上に熱心であり、律法については落ち度のない者と自ら言い切れるほどに、熱い情熱を注いでいたからわかるのである。何故救いを得ることが出来なかったのか。熱心であれば、命がけであればよいということではなかったのである。これは私達にとっても気を付けなければならない事であろう。


その問題とは?彼らは神の義を深く知ろうとはせず、自分が律法を行う自分の努力や、自分の行いにより自分の義を立てる事で、救われようとした事にある。彼らは神の義によって救いを得るのではなくて、自分の義によって救われようとし、結果的には神に従っているのではなく、自分の思いに従い、自分の義で救われようとしていたのであった。


私達も忠実なクリスチャンとなり、主に喜ばれるキリスト者になろうとして、頑張って取り組んでいるうちに、いつの間にか自分の義を立てて救われようとしている事がある。これは誰もが陥るところである。即ち、良いことであっても、肉(自己中心)の働き(ガラテヤ人への手紙5:19)になってしまっているから、傷ついたり、つまずいたりして教会から離れたくなったり、つまり苦しむことになってしまう。こういう事を通して一人前に成長して行くのだが、霊的に成長するまでは、社会人としては立派であっても、信仰的には子供で、すぐ不機嫌になったり、つまずいたりする事が起こるのである。


だから、成長・訓練の場として教会が与えられているのだ。教会を離れては成長はないのである。「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。・・・決して行いによるのではない。」(エペソ人への手紙2:8-9)私達は信仰によって「神の側に立つ」のである。「神の側に立って」御言葉を味わい、御言葉の約束を受け取り、主の恵みの中にいる自分を感謝し、その喜びを証しする者になろうではないか。
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by oume-akebono | 2015-04-20 12:50 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙6:3-11)    大谷唯信牧師


「あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたし達は、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。即ち、これによって、わたし達は彼と共に葬られたのである。故に、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって、神に生きている者であることを、認むべきである。」


 どうであろうか。キリスト教はこのように、人間にとっては全く信じられない出来事を前面に押し出して始まる。しかもこれを信じてバプテスマを受ける者は、イエスと共に十字架上で死に、イエスと共によみがえり一切の罪から解放され、神の子となる力を与えられると。だから尊いのである。


イエスの時代でも現代科学のこの時代でも、復活については誰もが信じられない。誰が聞いても馬鹿げていることに見える。何故だろう。自分の正しいと判断する常識のものさしに合わないと拒絶する習性があるからだ。不思議なことにすべての人にあると言えよう。それなのにである。


神はすべての人を救うためにと言ってこの誰もが信ずることの出来ない馬鹿げた話を一番の中心に据えている。こんな宗教が他にあるだろうか。キリストの墓もない。他の宗教は教祖の墓を造り壮大な寺や神社を造って力を誇示している。このように、どこを取っても、キリスト教は人間の理性、常識を越えているのだ。さらに宗教をも越えている特別な存在なのである。


これらは上からの啓示であるので、地上のこの世の知識ではわからないところが当然あるのである。わかるためには唯一つ、イエスを信じるのだ。信じるとわかってくる。「信じた人々には、彼は神の子となる力を与えた。それらは血すじによらず、肉の欲にもよらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」(ヨハネ1:12,13)。すべてが上からの導きであって正に奇跡的出来事である。決して私達の行いによって得られるのではなく信仰によるのである。今年はこの「信仰によって」の一点を深めたいのである。
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by oume-akebono | 2015-04-13 12:29 | 週報メッセージ

(コリント人への第一の手紙1:18) 大谷唯信牧師


「十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。」



 「十字架の出来事、そこに秘められているキリストこそ、世界中の人が渇望し、捜し求めていた神の救い、神の力では無いか!」パウロ自身、得た命の喜びに感動し確信を持って語っているのである。彼は自分の事に触れている。「私はヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、熱心の点では教会の迫害者、律法の義(正しさ)については落ち度のない者であった」と。正に当時の社会ではエリート中のエリートであり他の者を寄せつけない程の完璧さと実力は学者以上であったであろう。彼は自分にとって益であったそれらのものをふんどのように捨てたと言う。


それはキリスト・イエスを知る知識の絶大な価値から見たら全てが損である事がわかったからである。それは律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、即ち、信仰に基づく神からの義を受けてキリスト・イエスの中に自分を見いだすことであり、それをキリストの十字架と復活の中に発見したのである。彼は神を見い出した。即ち、自分がその中に生かされている事実を発見したのだ。


この世は皆、自分も含めて神を求めていた。しかし、「この世は自分の知恵によって神を認めるには至らなかった。それは神の知恵にかなっている。そこで神はこの世が愚かと言っているその宣教の愚かさによって、十字架と復活を信じる者を救うこととされた」とパウロは語る。


 パウロは十字架と復活のイエスこそ救い主と信じてから心眼が開きこの世の賢さがいかに愚かで盲目であるかが見えてきたのである。「ユダヤ人はしるしを請い、ギリシャ人は知恵を求める。このキリストはユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの、召された私達にはユダヤ人にもギリシャ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」と。生きたキリストを信じる者は困難でも決して行き詰まらない。かえって主と近くなり力を得る事になるからである。
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by oume-akebono | 2015-04-06 12:17 | 週報メッセージ