教会学校イースター

Happy Easter!
みんなでイースターを、楽しくお祝いしよう!003.gif

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場所 : 園舎2F ホール
時間 : 9:30~10:30

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by oume-akebono | 2015-03-30 18:59 | お知らせ

(コリント人への第一の手紙 3:5)  大谷唯信牧師


「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させて下さるのは、神である」


 今日は春の霊交会が開かれる。春、夏、秋、冬と年4回開かれている霊交会は私達教会の大切な会である。この目的は私達教会が御言葉によって学び、分かち合い、交わりを深め信仰の初心に立ち返り新たに主を仰ぎ見、成長することである。


何故ならこの世でのサタンの攻撃は巧妙で激しく、時には優しく、常識的、合理的でわかりやすく、私達の思う正論に訴えて来る。その狙いは常に教会から離れさせ不信仰に落とし込む事にある。


勿論、これらも神の御手の中で起こっている事であるから慌てずに自分の力で戦うのではなく、すべてを「信仰の出来事」としていくならば必ず最善が与えられ勝利が与えられる。「この世に勝つ者は誰か。イェスを神の子と信ずる者ではないか」(1ヨハネ5:5)を体験する良いチャンスであろう。「イェスと共に」の信仰である。こども讃美歌を思い出す、「主イェスと共に歩きましょう、どこまでも、主イェスと共に歩きましょういつも。苦しい時も悲しい時も、歩きましょうどこまでも、主イェスと共に歩きましょういつも」


つい自分の力で戦うのが私達ではなかろうか。それがいつの間にか肉の戦いになってしまう。気をつけよう。
「あなたがたが救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いではない。それは誰も誇ることがないためである」(エペソ2:8)


時に自分の無力さに打ちひしがれたり孤独さを味わったりする。ふさわしくないとも思える。私達はすでに神の子とされた。それは「血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」(ヨハネ1:13)。一度受け入れた我が子を神はそう簡単に手放しはしない。独り子イェスの命がかかっている程、私達を愛しておられるから。
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by oume-akebono | 2015-03-29 21:48 | 週報メッセージ

(エペソ人への手紙 2:8-9)   大谷唯信牧師


「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。決して行いによるのではない。・・・」


 どうしたら救われるのだろう。神様のためや人のために良い行いをすれば救われるのではない。また、教会のために奉仕をしたり、献金を沢山すれば救われるのでもない。わたし達が救われ、一切の罪から解放され、神と一つとされるのは、ただイエスを自分の救い主として受け入れ信じる信仰によって、救われるのである。


 たとえ、その信仰が小さく、からし種一粒のようであっても、その信仰によって救われ、神の子、神の家族とされ、この地上に居ながらにして天に国籍は記され、永遠の命が与えられた者として、日々の生活をすることが出来るのである。肉を持ちながらも、その信仰によって、聖霊なる神の命がキリストによって注がれ、肉を超えた霊的成長が促されるのである。


 誰もが生まれた時は赤ちゃんであるように、クリスチャンも最初は、霊的には赤ちゃんである。つまり肉的なのだ。いきなりは大人にはなれない。温かい家庭で家族に見守られながらやがて大人に成長するように、信仰も教会の交わりの中で成長する。独りよがりではなくて、健全で健康な人間として、また霊的にも信仰的にもバランスの取れた大人として訓練され、成長の恵みにあずかるのである。それぞれの賜物を発見し生かされ、キリストのからだとしての教会とされ、私達一人ひとりが霊の人、神の人として育ち、神の栄光を現していくのである。その原動力はイエスを信じる信仰によるのであり、決して行いによるのではない。


 それだから、日々のすべての行い、行動はこの信仰による、「信仰の出来事」として行うのであり、すべてが、「神様との出来事」、「イエス様との出来事」としての信仰に立つ時、力となるのである。故に、行いのない信仰はあり得ず、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、行いのない信仰は死んだものとなってしまうのである。これらを真に生かす力は、教会と、御言葉と、御聖霊の働きから来る事を覚えよう。
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by oume-akebono | 2015-03-22 21:42 | 週報メッセージ

(ヨハネによる福音書15:5)  大谷唯信牧師


「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人とつながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる」


 誰でもイエス様を心に受け入れ救い主と信じ、それがたとえ小さな信仰であっても主はそれに応え、今度は主の方からしっかりと私達につながって下さるのである。


 主は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり」と語り、さらに「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。」(ヨハネ15:16)と約束して下さっておられる。すべての事が神様の方からの一方的な働きかけであり、わたし達がしなければならない条件はただ一つ、主を受け入れ信じるだけなのだ。


その後の信仰生活もすべて主が与え主が導いて下さる約束であり、これは聖書全体に流れている一貫とした主の姿勢である。私達は自分で求め自分で信仰決心をする、この決断は大切なものだ。しかしそういう中にあっても聖書は語る「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」(ピリピ2:13-14)と。


この世で信仰生活するには、いろいろな戦いがある。それも主は御存知である。時に力弱く負けそうになるものだ。そこでイエス様は言われる「この世では悩みがある。しかし勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」と。


主はわたし達が肉によってではなく信仰によって歩む訓練をされておられるのだ。この世の人は肉の強さで頑張っている。しかし主は「あなたは弱くてよいのだ。わたしがあなたの中で戦うから大丈夫だよ」と語っておられる。私達は強くなろうと頑張るのではなく、自分の弱さの中でイエス様が強く戦って下さっていると「信じること」に頑張ろうではないか。肉の働きではなく「信仰の働き」にしていくのだ。そのためには自分はもっと弱くならなければいけない。そしてイエス様にスイッチ・オンである。
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by oume-akebono | 2015-03-15 21:37 | 週報メッセージ

(使徒行伝 24:16) 大谷唯信牧師



「わたしはまた、神に対しまた人に対して、良心に責められることのないように、常に努めています。 」




 パウロは常に自分の良心の声を聞き、これに従っていた。良心は自分の持っている知識、経験のすべてを駆使して、その時、その状況の中で自分や他者の行動や内面の思い、考えを洞察し、それらの正しさ、間違いを判断し正しく歩むよう促す内なる声となって私達を導くのである。


しかし絶対的なものではない。救われる以前のパウロはキリストを伝えているステパノが迫害され、目の前で殺されるのを心では賛成し、さらに教会を荒らしまわる迫害者となったのだ。律法に照らして生きるパウロの良心は、それが正しいと判断したからである。


聖なる神の律法であっても肉に生きる良心の声では、殺すことが正しいとしたのである。肉(エゴ)が中心となっている良心が神の名をもって判断すると、殺す事が正義にもなるから恐ろしい。600万人ものユダヤ人を殺したナチス、現代のテロ「イスラム国」も、また、日本でのオウムの集団もいろいろな犯罪も狂った良心の結果であろう。パウロはキリスト・イエスを信じて、はじめて良心の目が開かれ、すべて逆の事をしていたことに気付き、良心が新たにされ、キリストの宣教者として命を献げたのである。


旧約聖書を観ると、「神は言われた『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り」(創1:26)さらに「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創2:7)と記されている。その意味は深い。即ち、神が御自分のかたちに似せて人を造られ、土のからだに「命の息」(神の霊)を吹き入れると人は「生きた者」(魂・心)となったのである。


良心は霊から出て魂とつなぐ橋となり、霊の思いを魂に伝え、それがからだで表現されるのであるが、霊が死んだ今は、良心はかろうじて魂に残ってはいるものの弱く、自己中心である。もしキリストを信じるならば霊は生き返り、良心は力を受け、内なる声となって私達を導くことを知ろう。
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by oume-akebono | 2015-03-08 21:26 | 週報メッセージ

(ローマ人への手紙7:24) 大谷唯信牧師



「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。 」



 あなたは自分に絶望したであろうか。「あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない」(ヘブル12:4)と御言葉は語る。一体これはどう言う事か。現在のクリスチャンや教会がいつまでも成長できない理由は御言葉によって自分の罪が照らされ、罪と戦い徹底的に打ちのめされ敗北し完全に打ち砕かれる迄の経験を得ていない事にある。


イエス・キリストを信じ、十字架の贖いを信じれば確かに救われる。しかし、同時にその中に自分の古い体の性質が残っている事を知り、それと正面から対決し,神によって勝利する迄は手をゆるめないとの覚悟でヤコブのように取り組む事が絶対に必要なのだ。パウロのように力尽きて絶望し「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか 」と叫ぶまで砕かれなければならない。その時、「ああ、感謝すべきかな!」と生きた主の命があふれ自分が包まれている事が自分の全身でわかるのである。


即ち今迄は主の御言葉を客観的に把握していただけであった事がわかるのである。聖書の御言葉は客観的な真理として受け取るに留まらず自分の主観的な経験にしなければ、自分の人生を変えるまでの力とはならない。始めは誰でもイエスを信じるという知的理解による知的信仰である。クリスチャンになる入口はこれでよいのだ。とにかく入らなければ成長はない。本気で御言葉に従いだすと古い自分なる自我がさらに見えてくる。ここから先ほどの戦いが始まり御言葉に従うほどに従い得ない自我(罪)が見えて来る。どんなに立派に振る舞っても、肉の信仰なのだ。ここで止まっている者は多い。


どうすればよいのか。御言葉に従い得ない自分に全て絶望し、十字架のキリストの如く神に向かって叫び砕かれた時、上からの生きた信仰と平安が与えられるのである。自分が信じた信仰が、上から賜った霊的信仰に替えられてくるのである。
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by oume-akebono | 2015-03-07 15:00 | 週報メッセージ