(ローマ 7:24) 大谷唯信牧師



「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」



キリストから来る御聖霊は助け主としてこの世に来られ、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開く」(ヨハネ16:8)のである。最初の言葉はパウロの正にその最中の叫びである。彼は家柄、地位、能力すべてに於いて優れた者であった。「へブル人の中のへブル人、律法の上ではパリサイ人、律法の義については落ち度のない者であった」と断言するも憚らない自他共に認める実力者であった。その彼が完膚なきまでに砕かれたのである。


聖霊は罪の自覚を与えるために、御言葉(律法)の光で良心の中を照らし、さらに救われるようにその良心に福音の光を与えて下さる。人が自分の罪について恵みの福音(救い主イェス・キリスト)を聞いた後、もし彼が喜んでその信仰を受け入れるなら、神はさらに救いを受ける信仰をも与えて下さるのである。信仰は神からの恵みである。


パウロはただ自分の罪の深さ、何をしたとかしない等の次元ではなく自分がここに生き、存在していること自体が罪そのもの、根源的なやりようがない、手の出しようがない自分の罪、みじめで醜い自分、このような絶望のドン底であったからこそ彼は自分を超えた絶対他者、「だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」としがみついていた自己を手放し、まだ見ぬ絶対他者なる神に全身を投げ出す事が起きたのである。


これはキリストが十字架上で全人類の罪を背負い十字架の贖いの死に臨み、完全に神からも捨てられた時、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びながら十字架に於ける神の断罪をしっかりと受け止め、神に全託していく姿と重なるのである。パウロはこの絶望の叫びの後、何の説明もなく、「わたし達の主イェス・キリストによって、神は感謝すべきかな!」と急変したのは復活のキリストが彼の中に生きたからである。(ガラ 2:19-20)
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by oume-akebono | 2015-02-22 20:00 | 週報メッセージ


(ガラテヤ人への手紙 1:1)   大谷唯信牧師



「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらせた父なる神とによって立てられた使徒パウロ、」



これはパウロのガラテヤ人への手紙の冒頭に述べた自己紹介である。即ち、イエス・キリストと神から立てられた使徒パウロというこの一言で、彼はキリスト者としての信仰告白と、自分に与えられている使命を、明確に語っている。証しをする時のなくてはならない要素が、すべて語られているのである。


ローマ人への手紙でもそうだ。「キリスト・イエスの僕」、まずキリストと自分との関係を証ししている。僕とは、わたしはキリストの奴隷、奴隷とは御主人のためだけに居る者である。そして奴隷たる自分の使命を語っている。「神の福音のために選び別たれ、召されて使徒となったパウロ」と証しし、それから私たちに対しても「あなた方もまた、彼らの中にあって、召されてイエス・キリストに属するものとなった」と語る。その他のパウロの書簡にも必ず「神の御旨により召されて・・・」とあるのを見る。


私達もこのパウロからその証しの姿勢を学ぼうではないか。まず学べることは、すべての事が「信仰の出来事」であり、「キリストとの出来事」であり、「神との出来事」としている。決して「自分の信仰」、「自分の考え」、「自分の行動」ではないのである。


この世ではよく「○○先生の弟子です」、「○○先生に訓練されて・・・」、「○○大学です」という表現があるが、パウロは敢えて「人々からでもなく、人によってでもなく」と述べ、更に「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうとしているのか、もしそうであるなら、わたしはキリストの僕ではあるまい」と断言し、「わたしが伝えた福音は人間からのものではなく、ただイエス・キリストの啓示によった」と宣言するのである。すべては「信仰」によっているのだ。私達も彼に学ぼうではないか。
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by oume-akebono | 2015-02-16 00:56 | 週報メッセージ


(ガラテヤ人への手紙3:23-24) 大谷唯信牧師



「わたし達は律法の下で監視されており、やがて啓示される信仰の時まで閉じ込められていた。このようにして律法は、信仰によって義とされるためにわたし達をキリストに連れて行く養育掛となったのである。 」



 イスラエルの民にとって神からの律法は絶対であり、一つでも破れば死罪とされた。「律法の書に書いてあるいっさいのことを守らずこれを行わない者は皆のろわれる」と申命記にも明記されている(申27:26)。12部族の一つ、レビ族が神に仕える民とされ律法学者、祭司達が律法の教育訓練を国民に徹底した。子供から大人のすべての人々が律法に従う者が義とされ、守らない者はのろわれた者として断罪されたのであった。
 

しかし、パウロはキリストに出会ってから律法の本来の意味がわかったのだ。即ち、律法は人々に守らせるために与えたものではなく、どんなに守ろうと努力しても絶対に守れない事を知らしめるため、すべての人に罪の自覚を認識させるためであるとわかったのである。律法は罪の中に人々を閉じ込める檻であり、救い主キリストが来られるまでの養育係―乳母であった。「しかし、いったん信仰が現われた以上、わたし達は、もはや養育掛のもとにはいない。あなたがたはみな、キリスト・イエスによる信仰によって、神の子なのである。」(ガラテヤ3:25)
 

 罪の子アダムから出たすべての者はアダムの罪の中に居るのであって、罪に支配されすでに滅びの中にいる。しかし第二のアダム、キリスト・イエスの中に信仰によってある者は神の子とされ、すでに救われている。世の人類はこの二つのグループから成るのであってこの他にはない。律法の役割りはイエスに引き継がれて終わったのだ。


「わたしは律法を廃するために来たのではなく律法を成就するため来た。」と言われた通りの出来事がパウロに起こったのである。律法は「わたしは何というみじめな人間だろう」と絶望に導く。そこで主を見上げ、その時初めて行いではなく主の恵みの中にすでに入れられている自分を発見したのである。「文字は人を殺し霊は人を生かす」。ここから新たに出発しよう。
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by oume-akebono | 2015-02-12 20:00 | 週報メッセージ


(ローマ人への手紙5:5)  大谷唯信牧師



「希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」



 「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」(ヨハネ16:33)。とイエスが語られたのは最後の晩餐の時であった。イエスや弟子達への迫害の手は迫り、ユダの裏切りが発覚した。
弟子達も驚き、疑心暗鬼となったのであろう。


イエスに「この中のひとりがわたしを裏切ろうとしている」と言われた時、弟子たちは心配して、
「まさか、わたしではないでしょう」と言い出した
(マルコ14:19)。それほど弟子達のイエスへの信仰が揺れ動き恐れ惑い、自分でもわからなくなっていたのである。このような時がわたし達にもあるのではないだろうか。
 

 しかし、イエスの御言葉はこのような現状の中でそれを突き抜けているのだ。「あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。
 パウロも逆境の中での希望について語っている。「希望は失望に終わることはない」と断言するのである。これもこの世を突き抜けている希望である。わたし達クリスチャンは全員がこの希望を与えられているのだ。どのようにしたら得られるのか。パウロは語る「わたし達は、信仰によって義とされた」が第一の事実である。次に「わたし達の主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」と語る。即ち、もう自分は神と敵対関係ではなく「神との平和」の関係に入っていると言うことである。
 

 御言葉は上からの言葉であるから、下から出ている私達には理解しがたい信じがたい事も当然あると思う。しかし自分の納得の中での理解では人生の教訓程度で何の力にもならない。御言葉は信じて、100%信じてと思っても難しい。疑って掛かっては到底得られないだろう。まず丸ごと信じて一歩踏み出す、その信仰に御聖霊が力となってわたし達を支え、神の愛の中に導いて下さるのがわかるものだ。
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by oume-akebono | 2015-02-05 09:02 | 週報メッセージ