(ローマ人への手紙 5:18-19)  大谷唯信牧師



「ひとり(アダム)の罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとり(イェス)の従順によってすべての人が義人とされるのである」



奴隷の子が奴隷であるように罪の子アダムから出たすべての者はやはり罪の子なのである。誰でも人間である以上この罪の種は継承され自分の中に罪の種を宿している。これが時期と状況が整うと育ち力を発揮しわたし達を支配する迄になってくる。


しかし、人は神を認めず自らの罪も認識せず自分一人の力で正しく生きていると思っているのが現実だ。この世のすべての悪は外から来るのではない。ひとりひとりの中に宿っている罪から来るのである。アダムから脈々と続いている。自分はアダムも知らないし関係ない、単なる物語であって真実ではないと言う人もいる。自分は賢いと思っている人ほどそうなる。自分の小さな知識や自分なりの常識の尺度のみで世の中を観察しているからだ。しかも肝心な自分の中を見ていない。そう言う人は多い。自分の中を正直に謙遜に事実をみれば他人ごとではなく自分の中に自己嫌悪するほどの罪に気づく筈だ。そこで人は成長する。人の成長は自分の未熟さに気づく深さに比例するのだ。決して年齢でもなく頭の良さ、持ち物にもよらないのである。


人は誰でも神を信じないと自己に頼るしかない。良くても悪くても自己中心、エゴになるわけだ。このエゴそのものが罪の元凶、原罪なるものである。神は御自分を現わすために歴史の具体的な出来事としてイスラエルの民を選び共に歩み神の愛を現わすと同時に人間がいかに罪深いかのモデルとして明らかにされた。それでも無感覚な彼らに十戒の律法を与えた。守らせる為であるがさらなる本当の目的は人はいかに罪深くこれを守れないかを見せ自覚させるためであった。


そしてその罪から救うためにもう一人のアダム(イェス)を送り罪の贖いをして下さったのである。これは神の人類救済の遠大な御計画であり、ひとり子を給うほどの愛であり、これを信ずる信仰によってつながる者は誰でも救われるようにして下さったのである。
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by oume-akebono | 2015-01-25 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネの第一の手紙 4:10)  大谷唯信牧師



「神が…わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。」



聖書の御言葉は、人知を超えた神からの啓示であり、絶対の真理として語られている。単なる宗教の教え、道徳、倫理、教訓のレベルではない。「考え方はいろいろあっていいのではないか!」というレベルのものではないのだ。


地上では物が下に落ちるという、引力の法則なる現象があることは子供でも知っていると思う。「そんな事はない」と言う者はまずいないであろう。誰でも高いビルや橋から飛び出せば落ちる。わたしは良い人だから、金持ちだから、○○だから下に落ちないと言う者はいない。全員落ちる。例外はないだろう。それが自然の法則の一つであり、真理である。


真理や法則は人が造ったものではない。すでに有るものであり、常に有るものである。しかし、事が起きない限り見えにくい。聖書の御言葉もこれと同じである。神が啓示して下さって初めてわかる「神のいのちの法則」なのだ。実に生きるも死ぬもその中にある。


この世は21世紀にもなって、科学文明は目覚ましい発展を見た。しかし平和に関しては、戦争、犯罪、殺し、怖れ、不安、争い、憎しみ、怒り・・・とますます悪くなっているではないか。人々は政治、経済、教育、行政等の問題として、あらゆることに手を尽くしている。


しかし聖書はそれらの問題は政策レベルの問題ではなく、もっと深い目には見えていない、人の心の奥にある罪であると指摘している。「…すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、…罪の支払う報酬は死である」(ローマ人への手紙3:23、6:23)正にガンの宣告より確実なのだ。


奴隷に生まれた子供はその主人に対してはやはり奴隷であるように、罪の人アダムから出た者はすべて罪の子アダムなのである。故にすべての人の中に、その罪の種が宿り支配している。故に神は第二のアダムとして、イエスをこの世に与えて下さり、十字架の死のあがないによって、罪からわたし達を解放して下さり、誰でもイエスを信ずる者は救われるようにして下さったのである。
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by oume-akebono | 2015-01-18 20:00 | 週報メッセージ


(ローマ人への手紙3:23)   大谷唯信牧師


「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており…」



「すべての人」とは全人類、ひとりの例外もなくという意味であり、しかも過去に生まれた人もこれから生まれてくる人もすべてが含まれて、神に対して罪を犯していると言うのだ。
ほとんどの人がこれを聞いただけで、「まさか!」「バカバカしい!」と思うかも知れない。
それは自分の常識の尺度で見るからである。私達は、普通は自分の常識を絶対とは言わないまでも「自分は正しい」と言う前提の中で見ているのではなかろうか。自分に考えがあるように、相手にも彼の考えがある。一致するところもあれば、違うところもあるものだ。


性別、年齢、環境、同じ兄弟であっても長男、次男で考え方、感じ方に違いが出て来る。
まして国々、年代、文化のそれぞれの中では世界観も生き方も当然異なってくるだろう。
聖書には聖書の世界観、人間観があるのだ。表面上の言葉尻で拒絶するのではなく、それらの言葉の奥に隠れて語られているメッセージをつかむことが大切である。


聖書によると、「神は自分のかたちに人を創造された。」(創1:27)。しかし人は神を拒絶し、神中心ではなく自分中心の罪の存在となった。すべての人はこの最初のアダムから出たのであるから、ここから生まれ出るすべての人が罪人なのである。「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである。」(ロマ5:12)。


聖書は人間の生物学的発祥を語っているのではない。人を内側からも外側からも支配し、今や世界中が罪の奴隷と化している現実の罪の根拠を示しているのだ。ここで言う罪とは法律を犯したという罪ではない、もっと深い心の、神との関係性からの原罪であり、倫理的である。罪の結果は、永遠の死と滅びとされている。


神は私達を救うために、第2の人アダムとして、救い主イエス・キリストを与えて下さった。彼を信じ彼につながる者は誰でも赦され、永遠の救いに入れるようにされた。ここに神の愛があると聖書は語るのである。
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by oume-akebono | 2015-01-11 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書3:3)  大谷唯信牧師


「だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」


 どうして人は新しく生まれなければいけないのか。神の国とはどういう国なのか。
 聖書をはじめて読むとわからない事ばかりと思うのではなかろうか。それは自分の知っている,世界観、人間、罪、命、その生き方、在り方等々がちがい過ぎると思えるからだと思う。しかも、真理、自由、命とか「生きるとは」等の言葉が出て来ると何かこむづかしい理屈や理論ばかりで自分の毎日の生活には何ら関係ない、と思えてしまうことはなかろうか。
 

毎日喧嘩や遊びに夢中だった中学頃迄の自分は、愛しあうとは、生きるとは等、問題意識として明確にはなっていなかった。「人生とはネ!」と言われただけで、そんな事考えた事も思った事もなかったので「エラク難しい高尚な事を言っているなあ」位で、ほとんど無関心と反発と言いようのない妙な劣等感を感じていた。
 

高校になってバプテスマを受けてから聖書は難しい理屈や理論ではなくなった。本気でぶつかったからである。聖書は自分の日々の現実の心の姿を見せ、本来あるべき姿、そこへ到達する道筋等の具体的な命の営み、生活そのものを示し導いて下さる事がわかってきたのである。それは教訓、教えだけではなく、自分の現実の心と重ね、照らし合わせ自分の生身の出来事として聖書の言葉と取り組む。共感できる事はそこで留まらず、自分の思いとなるまで実行して見る。納得できない事もそこで留まらず、納得できるまで信じ従って見るのである。自分の損得、自分の好き嫌いは横に置き、ペテロのように「主よ、夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」(ルカによる福音書5:5)である。現実の厳しさに押しつぶされている時はこれを試すチャンスだ。
 

神は愛する者に必ずこのチャンスを与えて下さる。「しかし、お言葉ですから」の一歩はすでに信仰の出来事に変化している。「新しくされている」のである。今年は「信仰の網を打とう」ではないか。
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by oume-akebono | 2015-01-04 20:00 | 週報メッセージ