(箴言3:5~6)        大谷唯信牧師



「心をつくして主に信頼せよ、自分の知識にたよってはならない。
すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。」




今年も一年が終わろうとしています。振り返れば当然、喜びや悲しみ等の出来事も
いろいろあったことでしょう。大切なことは、悔い改める事は悔い改め、反省する事は反省し、今やすべての事が神に覚えられ神の御手の中で許され、今も最善に導かれている事を信仰によって認め受け入れ、神を讃美することです。


主は言われました、「わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない」、「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい」と。クリスチャンは罪に対して非常に敏感になります。御言葉によって御聖霊が光を照らして下さるからです。ここでの問題は、罪の自覚が重くのしかかってきた時に、自分の力で対処しようとする事です。


自分の内面を自分で変え清くしようとしても出来ません。パウロも、「善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がない」、「欲していない悪は、これを行っている」(ロマ7:18-19)即ち、自分の意志とは関係なく善を嫌い悪を歓迎しているものがある。それは自分の中に宿っている罪であり、その罪の法則に閉じ込められているとまで自覚したのです。ここで自分の力で対処すべきと迫るのは、もはやサタンの働きであることを知るべきでしょう。


パウロは自分の力に絶望し「わたしは何というみじめな人間なのだろう」と呻き、―だがここで終わったのではなかった。自分の内には全くの絶望であるからこそ、パウロがしたのは上を仰ぎ、「だれが、この死のからだから救ってくれるのだろうか」と自分を手放し、主を仰ぎ望み、主の御手の中に身を投じたのです。生かすも殺すもすべて主の御手に投じたのです。自分の存在そのものを主に投げ出した。これが、「心を尽くして主に信頼する」ことです。主御自身が十字架上で叫ばれた、「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」に通じます。「闇から光へ」の体験の中で御言葉に委ね、主を讃美したのです。
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by oume-akebono | 2014-12-28 20:00 | 週報メッセージ


(ルカによる福音書2:10) 大谷唯信牧師



「恐れるな。見よ、すべての民に与えられる大きな喜びを、あなたがたに伝える。きょうダビデの町に、あなたがたのために救主がお生まれになった。このかたこそ主なるキリストである。」



全人類の救い主がお生まれになったのは、初代ローマ皇帝アウグスト(前31-後14)の即位時代、属国とされたユダヤのヘロデ王の治世の時、エルサレムの片田舎ベツレヘムの貧しい馬小屋であった。「マリヤは月が満ちて、初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである」。(ルカによる福音書 2章6-7節)人口調査の命令のため、街々は連日多くの人々でごった返していた。


全世界に及ぶこの馬小屋の出来事に気づくものは誰もいなかったのである。しかし、天の御使いはある人たちに知らせた。それは羊の番をして野宿をしていた貧しい羊飼い達にであった。東方から星に導かれ御子の誕生を祝いに来た三人の博士がいた。地方の身分の高い王侯貴族の者と思われるが、当然のこととして、ユダのヘロデ王を表敬訪問している。


「ユダヤ人の王としてお生まれになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みに来ました。」(マタイによる福音書 2章2節)王は不安を感じ、早速律法学者に調べさせると、預言者ミカ(前740~700)の預言の言葉が見つかった。「しかしベツレヘム・エフラタよ、あなたはユダの氏族のうちで小さい者だが、イスラエルを治める者があなたのうちからわたしのために出る」(ミカ書 5章2節)


また同じ時代の預言者イザヤ(前745~695)の言葉はもっと明確である。「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、『霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君』ととなえられる」(イザヤ書 9章6節)と。それから700年あまり経ち、心配するヨセフに御使いはあらわれ、「彼女は男の子を産むであろう。その名をイエスと名づけなさい。彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」(マタイによる福音書 1章12節)と言う。それから2000年、今や世界中にクリスマスは知られているのである。
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by oume-akebono | 2014-12-21 20:00 | 週報メッセージ


(マタイによる福音書1:21)   大谷唯信牧師



「その名をイェスと名付けなさい。彼はおのれの民をそのもろもろの罪から救う者となる」
マリヤの婚約者ヨセフに天使が語ったのである。「心配しないでマリヤを妻として迎えよ。その胎内に宿っているものは聖霊によるのである」と。




神からの出来事はわたし達の思いを超えて先行している時が多い。自分の理解を超えているのだ.ゆえに信仰によって受けるしかないと言える。神の出来事はどんなに考えても答えは出ない。恐れ、不安が増すだけであろう。しかし、信仰の出来事として受けるなら驚くほどの道が開けて来るのである。


聖書は人をからだ、心、霊の三つの部分の総合体であり、肉的存在と同時に霊的存在として捕え、特にからだ、心の見える部分は氷山のように水面下で見えない霊の部分によって支えられ生かされている事として示している。即ち、人間は肉的存在、心理的存在としてよりも霊的存在として捕えかかわっていかなければ人を生かすことは出来ないのである。今日、精神的に病んでいる人、苦しんでいる方が多いのもこの一番土台となるはずの霊に対する手当がわからないまま育て、教育し訓練しているからである。


イェスは「人はパンのみで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と言われている。人を生かす「まことの飲み物」、「まことの食物」を得よと言われる。この意味は深い。強いからだ、優秀な頭脳があってもそれを支える普遍的な無限に拡がる神の叡智と直接つながる霊が仮死状態なのである。イェスは明確に「人を生かすのは霊であって肉は何の役に立たない」(ヨハネ6:63)とも言われている。


クリスマスの出来事は昔のおとぎ話ではない。歴史的霊的出来事なのである。「イェスは民をもろもろの罪から救う者」とある。もろもろの罪とは法的な罪ではない。霊的な罪、人間としての良心、本心からのずれと言った方がわかるかも知れない。そろそろ自分の霊に生ける命を注ぐ時ではないだろうか。
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by oume-akebono | 2014-12-14 20:00 | 週報メッセージ


(ガラテヤ人への手紙1:1)   大谷唯信牧師



「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人の中からよみがえらされた父なる神によって立てられた使徒パウロ」
 


あらゆる現実社会の諸問題の中にありながら、しかも自分のほしいと思っている自由、その時間、空間もなく、ただ忙しさと無意味さに押しつぶされるような自分であっても、イエスの十字架の救いでこの世に勝ち、充実した喜びのもてる生き方があることをパウロは語っている。それはパウロ自身も知らなかった。誰にでも求める者には与えられる神からの恵みの賜物であったのである。「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス・キリストと彼を死人からよみがえらされた父なる神によって立てられた」と、パウロは喜びと感謝で感激してキリストによる自分を証ししているのである。その力の秘密がこれである。
 

「すべての人を照らすまことの光があって、世に来た。彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた」。この彼とはイエス・キリストのことである。「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」。自分の民とはイスラエルであり、この世であり、そして実に私達全世界のことを言っているのである。「しかし」、ここからが大切なのだが「彼を受け入れた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生まれたのである」。即ち、家柄や地位、人間の能力、野心、持ちもの等は一切関係ない、ただ求める者に誰でも神の子となる力を与えたのである。(ヨハネ1:9-13)
 

これがクリスマスである。単にキリスト教のことを言っているのではない。全人類の救いと滅びのいのちについて述べているのだ。「暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。(イザヤ9:2)
 すでに光がのぼっているのである。今が救いの時なのである。
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by oume-akebono | 2014-12-07 20:00 | 週報メッセージ