(ヘブル人への手紙12:1-2) 大谷唯信牧師



「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」
 


神はあなたがどんなに苦労され重荷を負い頑張って生きてこられたか。そして今も本当は真実なものを求め願っておられるかを御存知です。だからこそ主は自分の思いの中にあるいっさいの重荷とからみついてくる罪とをかなぐり捨てて、完成者であり救い主であるイエスを仰ぎ見よと語るのです。人は誰でも痛い所、心配な所に目が行くでしょう。肉に於いては自然の事です。しかしこれは出口のない悪循環に巻き込まれさらに苦しい事になる路線であると言えましょう。
 

自分で何とかしなければと常に「自分、自分」となるからです。勿論、仕事即ち生活は自分がするのですがそのためには自分という人間が生き生きと命があふれていなければ仕事も生活もうまくいかないでしょう。そんな事は誰でもわかっています。それだけに「自分、自分」に捕らわれ、しがみつき頑張ってしまうのです。
 

私達の生きる命は神から賜った預かりものです。命は私のものではありません。神のものです。この命を本当に生かすには預け主なる神の御心を知る必要があるのではないでしょうか。命は自分なりでは充分には生かせません。エゴがあるからです。スマートフォンにも使用書があるように命の使用書は聖書である神の御言葉です。
 

命について語られる神の御言葉は私達の考え常識をはるかに越えた上からの次元で神の真理を説いています。その根底にあるメッセージはあなたに対する絶対的な愛と許しです。独り子イエスを犠牲にしてまでも私達を救おうとされている熱烈な深く大きな愛であり、私達の肉では想像も説明もつかないものです。ただ神の真実として認め信じるだけでありましょう。
 

御言葉は私達の考えの逆を教えています。「自分を捨てる者が得、得ようとする者は失う」と。常にからみつく罪をかなぐり捨てイエスを仰ぎ見る。その時、心に平安と力が与えられます。
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by oume-akebono | 2014-11-30 20:00 | 週報メッセージ


(ローマ人への手紙3:23~24)  大谷唯信牧師



「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。 」



この世の法律を犯した罪の事ではない。
もっと広く、そしてもっと身近な、心の内で秘かに働くすべての心の動き、聖書はこれを「肉の働き」と言う。これを一つでも持つ者は例外なく神の義の前には罪人として裁かれ永遠の滅びに至ると警告しているのである。


肉の働きとは、「不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいのもろもろ」(ガラテヤ 5:19-21)と言う。
そんな完全な人が、果たして存在するのだろうか。それは存在しないだろう。「義人はいない。ひとりもいない。すべての人は迷い出て、ことごとく無益なものになっている。」(ロ-マ 3:10,12)と聖書は語る。さらに、「彼らの口は、のろいと苦い言葉とで満ちている。彼らの足は、血を流すのに速く、彼らの道には、破壊と悲惨とがある。そして、彼らは平和の道を知らない。」(ローマ 3:14-17)と語る。


正にこの世の現実そのものではないか。
罪が心を閉じ込めたのである。
しかしもし神が愛の御方であるなら、裁かずに許して下さってもよいのではないのか。何故許さないのだろう。神は愛の御方であると同時に絶対的な義の神である。義はどんな事情があっても罪を容認できないのだ。


それでは全人類が亡びるではないか。神はそれを望んでおられるのだろうか。
そうではない。だから「神はこのキリストを立てて、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。」(ローマ3:25-26)それは「血すじ」、肉の欲、人の欲にもよらず、ただイエスを信じる信仰によって救われるのである。あなたも救われ、心を解放するためにイエスを救い主として信じようではないか。問題の原因はすべて罪にあるからである。
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by oume-akebono | 2014-11-23 20:00 | 週報メッセージ


(エペソ人への手紙 6:10,12)  大谷唯信牧師



「最後に言う。主にあって、強くなりなさい。私たちの戦いは、血肉に対するものではなく、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。」



私達は強くなろうではないか。自分でなるのではない。「主にあって」である。主の中で、主と共に、主と一つとなって、の意である。 バプテスマを受けた者はすでに霊的には主と共に死に、主と共によみがえらされているのである。これを心で認め信じ、「わたしは主と共に強い!」と強く念じ、弱い自分からは目を離し、「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、イエスを仰ぎ見つつ、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬく・・・」(へブル人への手紙12:1、2)。これが祈りと信仰になる。


この世でクリスチャンとして歩もうとする時、必ず自分の外からも自分の内からも、信仰が揺さぶられるであろう。それほどこの世と私達は悪の支配の中に生きているのである。勿論、キリストはすでに悪魔に勝利し私達もその勝利の中におるのであるが、悪の霊の働きも、聖霊の働きと同じく、霊の次元で迫って私達の思いを捕えるから注意しよう。それは実に巧妙で合理的なこの世に合う知恵者となって、いかにも真実らしく、自分に正直であれば良い等とわかりやすく投げかけてくる。


わかりやすくとは、わたし達自身の中にはまだまだ肉の思い、習慣が残っており、しかも、世の中は肉そのもので動いているから、つい引き込まれてしまうということだ。すると悪魔は「お前の信仰は本物か?」等と問いかけ、信仰をなし崩しにしようと仕掛けてくる。それ故パウロは「私たちの戦いは血肉にではなく、悪の霊に対する戦いである」と語る。だから、肉の力ではなく、キリストと共にある信仰に立つ時、勝利が与えられるのである。


それは御言葉と祈りによってのみ与えられる信仰による。ペテロたちも肉で戦っている時は、いつも失敗していた。ゲッセマネの祈りの時も眠りこけ、「誘惑に陥らないように目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが肉体が弱いのである」(マタイによる福音書26:41)とイエスに言われてしまう。これから私達は、御言葉と祈りが、あらゆる問題の突破口となる事を経験しようではないか。私達の使徒行伝をつづるのである。
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by oume-akebono | 2014-11-16 20:00 | 週報メッセージ


(ロマ 10:9-10)     大谷唯信牧師



「自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信ずるなら、あなたは救われる。人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」



本日第二礼拝にて二人の方の信仰告白が行われ、午後からは多摩川でのバプテスマ式が予定されている。礼拝堂も新しくなりバプテストリーも設置されているのだが、小さい頃からこの多摩川で泳ぎ育ってきたので是非とも多摩川の清流で受けたいとの本人の希望である。50代の壮年と20代の青年の親子である。


主と出会うまでにはいろいろドラマがあり、すべての出来事には不思議と思えるほど一つ一つに神の導きと配慮があった事に驚かされる。一番驚き喜んでいるのは本人と奥様であろう。私達教会も神の愛の出来事に加えられ、神の恵みに感謝し主をほめたたえている。神の国では天の軍勢が主とともに喜びの歓声をあげて見守っておられると聖書は語る。私達は決して一人ではない。「多くの証人に雲のように囲まれているのである」(コロサイ3:1)。今月末にはもう一人の方がバプテスマを受ける事で準備が進められている。これらはすべて神の恵みである。私達の教会は神から愛され確実に主の御手が私達に置かれておられる事を知ろう。


何のために救いへの招きが心に促されるのだろうか。それはあなたを神の器として、即ち、この闇の世に神の光を放つ世の光として、またこの世を清め、救いを求める魂を救う地の塩として用いるためなのである。


主は、私たちが主を信じバプテスマを受けたその信仰に聖霊を注がれ、主の器として育てて下さり、主の御用に間に合う器にして下さるのだ。子供が両親のもとで育つように神の子も教会で育てられ、やがてそれぞれの個性が輝き主の器として世を照らす者とされる。これは主の働きである。同時に自分という自我を捨て、主を信じる信仰で一歩踏み出す、これは神ではなくわたしの務めなのだ。主への小さな一歩が神の大きな恵みを引き込む入口となる。信仰に生きるとは、常にこの一歩を踏み出す者となる事である。信仰の一歩が人生を変える。
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by oume-akebono | 2014-11-09 20:00 | 週報メッセージ


(マタイによる福音書 16:24-25)   大谷唯信牧師



「自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだす」



人は何故うつ病になるのだろう。うつ病とは言わないまでも、時に落ち込んだり閉じ篭もっていたい気持ちになったりする。よくある事だ。しかし現に今、全国に30才から50才迄の人で閉じ篭もってしまい学校や職場に出て来れない人が200万人もいると言う。
これは問題ではなかろうか。それも一寸したミスや文字の間違い程度の指摘でもそうなる傾向にありその対応に企業も困っているという。世間的には一流の大学、企業、また豊かな家庭環境にあった者にも多いとのことなのである。


しかしこれは、20年前からも新聞等で報じられていたことで、決して珍しいことではない。問題は増加している事であろう。もう他人事とは言えない。良い悪いは抜きにして誰にでも起こる事であり、心配な事は自殺にまで至ることが有り得ることだ。いくら元気でも家族も否、本人でも気付かず全くそのつもりがないままなっている場合もある。だから油断は禁物である。聖書も、「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである」(箴言4:23)と述べている。


何故うつになるのか。自分を生かそうとするからだ。いろいろやったとしても結局は自分を得ようとしているのではなかろうか。自分で自分を格好良く、自分が納得する自分になるように、自分なりの理想を持って自分を建て上げようとしているのではなかろうか。


自分で意識している自分、それが良くても悪くても、そのすべてが自我そのものである事に気付くべきであろう。自己中心の自我(エゴ)を肥大させるために御聖霊が援助するだろうか。御聖霊は自分の事実に直面させ、その罪深さ、神の義、裁きに目を開かしめ、「死の陰の谷」を歩ませ「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と呼ばしめ、そこではじめて主が主であることを知り、うつも逆境も恵みとなるチャンスなのだが、どうであろう「自分を捨てる」のである。
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by oume-akebono | 2014-11-02 20:00 | 週報メッセージ