(ローマ人への手紙6:3-4) 大谷唯信牧師



「キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。それによって、彼と共に葬られた。わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。」



 信仰によって見るならばバプテスマは儀式以上のものである。救われるのは信仰によるのである。しかし、この信仰をバプテスマと言う型で信仰の告白として身をもって現した時、聖霊を賜物として受ける事が出来るとは神の約束である。
 

私達の教会が示されていることはもっと霊的に成長し、キリストの命があふれ、魂が救われる教会にさせていただく事である。そのためには自分の思いに留まるのではなく主の御心を求め従う者に私達が成る事であろう。
 

 神はキリストによる福音の宣教を教会に託された。私達が今、教会にある事は救いの喜びを自分の中にしまっておくためではない。神はこの教会を通し、私達を通して全世界に福音を伝える事が御心なのである。即ち神は私達教会を、その御用のために必要とされているのだ。これが神の伝道のやり方である。
 

使徒行伝の出来事は信ずる者にとっては時空間を超えて今の出来事ではなかろうか。信じて今一度使徒行伝をよみ、その出来事を味わいチャレンジする必要を感じないだろうか。
「ただ、聖霊がくだる時、あなたがたは力を受けて・・・地の果てまで、わたしの証人となるであろう」(使徒行伝1:8)と言われたのは御存知だと思う。その時、彼らはどうしたのだろう。
 

「弟子達はみな、婦人達、特にイエスの母マリヤ、及びイエスの兄弟達と共に、心を合わせて、ひたすら祈りをしていた」(使1:14)のである。
 「みんなの者が一緒に集まっていると」(使2:1)そこに聖霊がくだる出来事が起きたのである。
 

大切な事は「ひたすら祈り」「一緒に集まって」、これも祈りの事だ。即ち、ひたすらな祈りに神は働いて下さることがわかる。今やまずは祈り、祈り抜く教会にチャレンジする時ではなかろうか。
私達の使徒行伝である。
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by oume-akebono | 2014-10-19 20:00 | 週報メッセージ


(マルコ 10:27)      大谷唯信牧師



「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである。」



富める青年がイエスのもとを立ち去った時であった。イエスが言われた。「富んでいる者が天国に入るのはむずかしいものである。らくだが針の穴を通る方がもっとやさしい」と。
これは完全に不可能ということではなかろうか。弟子達も驚いて、「それでは誰が救われることができるのだろう」と言ったのも当然だと思う。しかしイエスは弟子達を見つめて言われたのだ。「人にはできないが、神にはできる。神は何でもできるからである。」


これこそ驚くべきことではなかろうか。だがイエスはこの驚くべき恵みを与えるためにこの世に来られたのだ。私達には全く不可能と言うしかない出来事に、正面からぶつかり、可能として下さると宣言しておられるのである。主は何事もなかったように「主によって喜びをなせ、主はあなたの心の願いをかなえられる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ、主はそれをなしとげ、あなたの義を光のように明らかにされる」(詩37:4-5)と言われる。ここからは神の霊の中の、神の命の次元の出来事である。


それならば、私達も霊とまことをもって受け取るべきであろう。ここが理性と信仰の戦いの場となる。しかし信仰は自分の理解や知的納得ではない。わかる、わからないの知的判断ではなく、神の言われる御言葉をそのまま信じて受け取ることなのである。神の生きた霊的いのちに触れる接点は、イエスを信ずる信仰以外にはない。多くの人は信ずる信仰ではなく、知的理解や納得を求める。これで何とか納得してクリスチャンになる方もいると思う。入口のステップとしてはそれもよい。しかし絵に描いた餅に過ぎないことは、本人にはやがてわかることになろう。何もできないからである。
実に、信仰の道はここから始まるのである。「わたしに呼び求めよ。そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事をあなたに示す」(エレミヤ33:3)。
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by oume-akebono | 2014-10-12 20:00 | 週報メッセージ

(ピリピ人への手紙 2:14)   大谷唯信牧師



「すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。」



私達は一寸した問題にも深刻に悩んだり、心の中につぶやきを持ったりする事が癖になっていないだろうか。ほとんど無意識に心の底に溜まっているヘドロのようなものだ。いつもは水は澄んでいるが、何かが水を動かすとたちまち水が濁る。上手に対処できる人はすぐに沈静化し普段に戻ることが出来るだろう。


しかしこの程度の事ならこの世の人でも当たり前にこなしている事ではなかろうか。
私達にはそれ以上に特別な特権が恵みとして与えられている事を思い出すべきである。だからパウロはどのようなことがあっても、「主にあって喜びなさい。」(ピリピ人への手紙 3:1)と語る。


「たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。」(ピリピ人への手紙 2:17-18)と死を超えた喜びである。


日々の状況にかかわらず、喜びの心を主に捧げる。これが礼拝であり、神への信仰による応答になり、力となるのである。私達の教会の週報には「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(テサロニケ人への第一の手紙5:16-18)と記してあるのもそのためである。喜びも感謝も祈りもなく、「もっと信仰を強くして下さい。リバイバルを・・・、あれを下さい、これを下さい。」と要求ばかりして、果たして神が応えて下さるだろうかと考えてみよう。


私達の人生の最高責任者は私達に命を与え、人生を与えて下さる創造主なる神御自身である。神は絶対的な愛をもって私達を生かし支え、実に神御自身の目的に沿って導いていらっしゃる。私達以上に神はわたしの事を考えて下さっているのだ。


今、あなたは困難にぶつかっているのだろうか。辛い出来事や人生の問題で悩んでいるのだろうか。今こそ「いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、・・・信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ走ろうではないか。」(ヘブル人への手紙12:1-2)信仰によって、今こそ喜び、祈り、感謝の心を満たして主に捧げよう。
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by oume-akebono | 2014-10-05 20:00 | 週報メッセージ