(ガラテヤ1:10)      大谷唯信牧師



「今わたしは、人に喜ばれようとしているのか、それとも、神に喜ばれようとしているのか。あるいは、人の歓心を買おうと努めているのか。もし、今もなお人の歓心を買おうとしているとすれば、わたしはキリストの僕ではあるまい。」



 人の生きる中心軸の問題である。ただ自分の考えで生きればよいと言うのではない。
 近年、「自分なりの生き方」、「個人の自由」がもてはやされている風潮がある。そこにプライバシー、人権問題等の意識によって、かえって自分らしくない不自由な生き方になっているのを見る。不確かな自己(自我)を中心軸にしているからだ。どうしても守りの姿勢になってしまう。


パウロはイエスと出会い、キリストを中心軸に据えることに気付かされた。すると本来求めていた理想の生き方が実現してきたのである。人を愛し信頼し、人からの好意も喜んで受け、律法的ではなく真に自由に忠実に、神と人に仕える自分になっていったのである。それは、どんな逆境、困難にあっても心は自由であり常に解放され、感謝に満ちた喜びが泉のように湧いている自分であった。


これこそ今の時代に求められている自立した生き方ではなかろうか。自分を中心軸に据えている人は一見強そうには見えるが、実は弱い。自分の事だけで一杯一杯ではないか。結局、自分、自分と言って自分にしがみつき、自分を守るために人の顔色を窺うようになってしまう。人は誰でも自分を中心にすると、この悪循環の流れにはまってしまうものだ。元凶は自分を中心とするエゴである。エゴからの解放は自分を越えた深い愛に触れる他はないのである。
 

 そのために神は私達にキリストの教会を誕生させて下さった。今のこの時代、教会ほど純粋に人を愛し受け入れ合い、共に神の愛を中心に喜びも悲しみも分かち合い、常に前向きに希望に向かっている集まりが他にあるだろうか.教会は人ではなく神が造られた。健全な人生に目覚めさせて下さる。教会には神の力が働いておられるからである。
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by oume-akebono | 2014-09-28 20:00 | 週報メッセージ

(ヨハネ15:12)       大谷唯信牧師



「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛はない」



神がわたし達に示された愛の倫理観は他に例を見ない程とてつもなく高い。前人未到の最高峰である。神は愛である。しかし神を愛さないとこの愛はわからない。愛は神から出たものであるからだ。ではそれを得るにはどうしたよいのだろう。心が求めていてもその道も登り口すらわからない。そこで神の方から動かれた。「わたし達が神を愛したのではなく、神がわたし達を愛して下さって、わたし達の罪のためにあがないの供え物として御子をおつかわしになった。ここに愛がある」(Iヨハネ5:10)と。


神はわたし達に自己訓練をしてここまで登って来なさいと言われるのではない。「そのひとり子を世につかわし」御子自身が道となり命となってわたし達と共に歩いて下さるのである。しかもこの救いはすでに完成されているのだ。これを得るには自分の力で見い出すのではなくこの御子イェスを受け入れ信じる信仰によってのみ与えられる大いなる恵みなのである。努力や力でつかみ取るものではない。上から注がれそれを信じ受け入れる信仰によって神の世界への一歩が始まるのである。


人は神を離れて以来、自己中心となり今や個人主義社会となった。個人は大切だが個人主義は自分なりの自己に生きるしかない。しかし人は本来、喜びも悲しみも共に分け合って生きる存在、即ち愛に生きるように造られているのだ。自分本位の愛ではない。神の愛である。イェスの「わたしが愛したように互いに愛し合いなさい」なのである。


自己愛は相手の不足を責め合い思うようにならず結局はストレスばかりとなる。犯罪、自殺、病気、戦争等々、生きる中心軸を自分にしているからである。これを罪と言う。「罪の価は死である」と聖書は語る。もうそろそろ私達は気づくべきではなかろうか。内なる小さな声に正直に耳を傾け神の語りかけに応答し神の愛に生きようではないか。
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by oume-akebono | 2014-09-21 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネによる福音書 4:24)  大谷唯信牧師



「神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである。」



人は何によって生きるのであろうか。その前に、人はどのように造られたのかを知らなければならない。聖書の神の啓示によると、この世の科学者のように、たまたまとか偶然とか、諸説はいろいろあるが究極のところは分からない等とは言っていない。


聖書は明確である。天地創造の初めから終末まで、はっきりと述べられている。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息(人の霊)をその鼻から吹きいれられた。そこで人は生きた者(魂)となった」。即ち、人は霊的存在であることを語っているのである。「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きるものである。」(マタイ4:4)


去る7月26日、事件は起きた。佐世保市の県立高校1年の女子生徒が、同級生の少女をマンションで殺害した事件である。市の学校、教育関係者に衝撃が走った。丁度10年前、同市では小学校の女児が同級生に殺害される事件が起きていたのだ。以来10年間、全市を挙げて二度と起きないようにと、6月を「いのちを見つめる強調週間」として道徳の公開授業を行い、講演会を開いてきた。元校長は、被害者の机を校長室に置き、この事件を忘れまいとした。その後も市の教育次長となり、子どもを見守る仕組みづくりにかかわった。町内ではこの10年間、住民が通学路に立ち、声をかける活動に取り組んできた。こうした取り組みがあっても事件は起きたのである。「頑張ってきたつもりだが、足元から崩れてきたような気がする」、また、県立高校の校長は「悲しい、悔しい。指導が届いていなかった」と語る。「この10年間の取り組みは何だったのか。これ以上、何ができるのだろうか!」(7月31日朝日新聞より)


これらは他人事ではないのである。今や恐ろしい事だが、どこで起きてもおかしくないのが社会の現実ではなかろうか。誰をも責める事はできない。今こそ、神の言葉を聞かねばならないのでは。「人を生かすのは霊であって、肉は何の役にも立たない」という事を。
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by oume-akebono | 2014-09-14 20:00 | 週報メッセージ


(箴言 4:23)        大谷唯信牧師



「油断することなく、あなたの心を守れ、命の泉は、これから流れ出るからである。」



心は神の命である霊につく事も、エゴである肉の命につく事もできる。私達は常にどちらかを、無意識であっても選んでいるのである。あなたはどちらを選んでいるのだろうか。わたしはいつも正しく最善と思えるものを選んでいる、と言うかも知れない。しかし、ほとんどの人がそうではないのである。そんなことは自分なりでいいのでは?と考える人もあろう。確かにどちらでも良いとも思うが、強く関心を持ってもらいたいのだ。


聖書では「肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安とである。」(ローマ人への手紙8:5-6)と述べている。現代人の「心の病」に関して、例えば最近のテレビ報道でも、現在15歳~30歳迄の若者で無業者(就学、就業の意志が無く、引きこもり)が全国で200万人もいると言う。原因は人それぞれで分からず、家庭も企業も困っているとの事だ。


聖書は人間を肉的存在としてよりは、霊的存在として見ている。「人はパンだけでは生きず、人は主の口から出るすべてのことばによって生きる」(申命記8:3)と、今から3400年前にエジプト脱出のイスラエルの民に神は語られているのである。これらの「心の病」の多くは、たまたまなったと言うより、その肉と霊の選択の結果から、当然の帰結として出てきたものと言えよう。だから冒頭の御言葉では「油断することなく、あなたの心を守れ」と語る。


自分の心に対する無知の結果、命の泉が流れ出なくなってしまったのだ。その原因は何であろうか。これは決して無関心であってはならない事である。何故ならこれが自分の成長を妨げ、「心の病」を引き起こしているからだ。それは何か。能力、地位、財産の有る無しではない。聖書はそれを一言、「罪」と言う。私達はこの頃、何と罪の自覚が薄くなっていることか。今や何でも有りの時代の風潮になっているからだろうか。心が麻痺しているのかも知れない。とするならば、心を守るには罪の自覚からであろう。
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by oume-akebono | 2014-09-07 20:00 | 週報メッセージ