(ヨハネ15:12)         大谷唯信牧師



「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」



生きるとは究極は「互いに愛し合う」ことにある。あらゆるものが豊かに揃っていても「もし愛がなければさわがしいガラクタの音と同じだ」と聖書は語る。たとえそれが美しく賢く上品で優雅に見えたとしても同じと言うのだ。それらはあったほうがいいし、生活のためにはなくてはならないものも沢山ある。世の中はそれらを提供し、またそれらを得るための営みで動いている。神の助けもあり、今や世の中、沢山のものがあふれるようになった。だからこそ心の目で見ると言うのだ。


イェスは言われる「なくてならぬものは多くはない。いや一つだけである」と。あふれるガラクタの中にこの「一つ」を見失っていないか!と言われる。ガラクタの輝きに魅せられて「なくてはならないもの、肝心な一つと言う思いが消失しているのではないかと言われるのだ。確かにこの世には知恵ある者、権力のある者、身分の高い者も、驚くほどの大金持ちもいるであろう。


しかし、イェスは問われるのだ、「たとえ全世界を得たとしても、自分の命を失ったら何の得になろうか」「また、山を移すほどの信仰があっても、自分の全財産を人に施しても、自分のからだを焼かれるために渡しても愛がなければ無に等しく、一切は無益である」(Ⅰコリント13:2〜4)


私達は気づかねばならない。愛は命なのである。「主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻から吹き入れられた。そこで人は生きた者となった」(創2:6)。私達の使命はこの世のあらゆるものに愛の命の息を吹き込むことではないか。「これら一切のものに愛を加えなさい。愛はすべてを完全に結ぶ帯である」(コロサイ3:14)。


私達は、今迄、愛が命である事をどれだけ自覚していただろうか。愛は観念ではなく「互いに愛し合う」全人的関係性の中に働く命である。一人よがりの愛は自己満足の我楽苦多だ。「わたしがあなたがたを愛したように」が前提である。個人も家庭も社会もここに立つ時、はじめて命を得ることになる。
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by oume-akebono | 2014-08-31 20:00 | 週報メッセージ


(使徒行伝3:6)       大谷唯信牧師



「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。
ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」。

 


無力であったイエスの弟子ペテロ達は、聖霊の注ぎを受けて以来、別人のように力ある者となった。ここでは生まれながらの足のきかない男が、ペテロ達の信仰による一言で「立ちどころに強くなって、 踊りあがって立ち、歩き出した。」(使3:7)のである。驚く人々に対して「なぜこの事を不思議に思うのか。わたしではない。イエスの名が、それを信じる信仰のゆえに、このとおり完全にいやしたのである。」と。
 

ペテロは驕るのでも自慢げでもなく、ごく自然の事として語っている。これがキリストの教会に与えられている神の力、神の出来事なのである。ここまでもの力が私達すべての教会に可能性として現在も与えられていることを私達は知っておくべきであろう。どこまで深く受け止めるかは、私達の信ずる信仰にかかっているのだ。


「金銀はわたしには無い。」この金銀とは、この世の力、知識、経済の象徴であろう。それがわたしには無い「しかし」と言ったのである。はじめてイエスと会い「網を打て」と言われた時、「わたし達は夜通し働きましたが何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう。」の「しかし」を思い出す。現実を認めながらも信仰に立つのである。アブラハムも「妻サラの不妊であるのを認めながらも、信仰は弱らなかった。彼は、神の約束を不信仰のゆえに疑うようなことはせず、かえって信仰によって強められ、栄光を神に帰し、神はその約束されたことを、また成就することができると確信した」(ロマ4:19-21)とあるが、ペテロも大胆にも「わたしにあるものをあげよう」と言った。
 

それは、「イエスの御名」であったのだ。イエスの御名が、それを信じる信仰のゆえにこの人を強くし、完全にいやしたのであった。ペテロはイエスの十字架と共に肉は死に、イエスの復活と共に霊が生きる恵みを受けたのである。私達もこの信仰に立つことを神に求めようではないか。
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by oume-akebono | 2014-08-24 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネの第一の手紙6:63) 大谷唯信牧師



「わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は神から出たものである。」



 子どもと母親が見つめ合ってはニッコリとほほえむ。何度も見つめ合ってはニッコリとほほえむ。何と幸せな事か。ほとんどの親が経験していると思う。始めはみな素晴らしい。子育てはこの全人的関係性の瞬間々々の連続にあると言えよう。即ち互いに愛しあうと言う関係性の働きが言葉やその概念を越えて愛の実体そのものが働くのである。互いに愛を与え愛を受け、共に喜びを分かち合う愛の共生が実現しているのだ。これを全人格的関係性に生きると言う。
 

子どもは、母親の表情、声、からだの働きすべてから暖かい愛情が自分に注がれている事を全身で受けとめ、その暖かさに包まれ、安心、豊かさ、安定の心が自分の中にある事を感じ、喜び、感謝等が生きる力となってその心(主体性)を自由に全身で表現する、又、それが受け入れられ喜ばれている事を経験するとき、自信、思いやり、積極性が次々と発現して来るのである。愛による全人格的関係が深まるほどに自立した人間として成長するのである。しかしそれが現代こわれてきている。


先日テレビ報道で現在全国で15才~30才の無業者(仕事をしない、引きこもり)が200万人いるという。突然折れて大学卒業前に退学、親の言う通りにやって来たが・・・。理工学部は苦痛の連続だった。以来、4年間引きこもっている。何をしていいのかわからない。又、共通しているのは、初めての人に話しかけるのが苦手、困難を乗り切れない等々。又、8月8日の朝日新聞によると中学生の不登校が6年ぶりに増加し、9万5442人になったと報じている。全人的成長の欠如である。
 

私達は今までの競争社会では破滅しかない事を感じていると思う。今や世界は一つになり助け合い協力し合わなければ生きていけない現実に来た。イエスの「汝の敵を愛せよ」の御言葉が現実の課題となってきた。「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを取り除く」剣を取るものは剣にて滅びる。ただ全人的愛を持って愛しあうのである。
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by oume-akebono | 2014-08-17 20:00 | 週報メッセージ


(ヨハネⅠ 4:12)       大谷唯信牧師



「神を見た者はまだひとりもいない。もしわたし達が互いに愛し合うなら、神はわたし達のうちにいまし、神の愛がわたし達のうちに全うされるのである。」



よく「神を見たら信ずる」という人がいる。イエスの弟子にも自分の目で見、自分の手で触れるまでは決して信じないと言った者がいた。あのトマスである。後に復活の主が彼のもとに現れると、彼は心打たれ、思わず「わが主、わが神よ」と拝したのである。私達もどこか自分の目で見、自分の手で触れなければ信じないところがあるのではなかろうか。イエスはトマスに言われている。「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は幸いである。信じない者にならないで信ずる者になりなさい」と。


私達はクリスチャンとなり、何年もの信仰生活をしていながらも、自分の信仰に未だ確信がもてず、求めながらも不安定な自分を感じ、今一つ確信がほしいと願っている方々がおられるのではと思うのだが、いかがであろうか。その原因は、信ずると言ってもやはり目で見、耳で聞いて、手で触れたら信じられるのに…、という次元で求めているところがあるからではなかろうか。誰でも皆ここを通るのである。


イエスはよく譬えで語られた。それは「彼らが、見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないから」と言われ、預言者イザヤも「あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは、彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされる事がないためである。」(マタイ13:13-15)、パウロは「知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。この世は自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは神の知恵にかなっている。」(コリントⅠ3:20~)と語る。


どこに神はおられるのか。冒頭の御言葉である。「もし、わたし達が互いに愛し合うなら、神はわたし達のうちにいまし、神の愛がわたし達のうちに全うされるのである。」
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by oume-akebono | 2014-08-10 20:00 | 週報メッセージ


(マタイによる福音書 13:23)  大谷唯信牧師



「良い地にまかれたものとは、御言を聞いて悟る人のことであって、そういう人が実を結び、百倍、あるいは六十倍、あるいは三十倍にもなるのである。」



今年も教会学校サマーキャンプが開かれた。昨年は工事のため、外の施設で行ったのだが、今年は新しい会堂、教育館、新しいキッチンを存分に使い、この猛暑の中にあっても何不自由なく快適であり、恵まれた広い園庭では、恒例の水遊びも楽しい思い出をつくった。


イエスは御言葉を地にまかれた種に譬えて語られている。なぜ譬えで語るのかを説いている。「それは彼らが見ても見ず、聞いても聞かず、また悟らないからである」と。いつの時代でも、人の真理に対する態度は同じなのだろうか。この世に対しては人は敏感である。乗り遅れまいと必死にもなる。しかし神の言葉に対しては預言者イザヤも次のように語り、それは彼らの上に成就していると言う。


『あなたがたは聞くには聞くが、決して悟らない。見るには見るが、決して認めない。この民の心は鈍くなり、その耳は聞こえにくく、その目は閉じている。それは彼らが目で見ず、耳で聞かず、心で悟らず、悔い改めていやされることがないためである』と。そこでイエスは「しかし、あなたがたの目は見ており、耳は聞いているから、さいわいである」と。しかし、私達は本当に聞いているだろうか。


いよいよ時代は悪くなっている。驚くような事件が次々と起こっている。御言葉は良い地に実るのだ。現代は良い地といえるのだろうか。ここで言う良い地、悪い地とは人の心のことを言っているのである。地を豊かにしなければ、どんなに良い種も豊かに実ることはない。


私達教会の教会学校もサマーキャンプも子供たちの心を耕し、福音の種をまき、育てようとしているのである。神の御言葉は霊であり、神の命である。これが良い地となった子供たちの心にまかれるなら、百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶのである。子供の心を「道ばた」、「土の薄い石地」、「いばらの地」としてはならない。良い地となって悟る人に育てたいのである。
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by oume-akebono | 2014-08-03 20:00 | 週報メッセージ

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by oume-akebono | 2014-08-02 22:01 | CS(教会学校)便り